チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
+昭和50年代~現在のお話も・・・

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はじめての方は「チエちゃん」のカテゴリからお読みいただくことを推奨しています。 もちろん、どこからお読みいただいてもかまいません。

第115話 はつ子さん

2007年09月29日 | チエちゃん
 クラスの中で、女の子たちはお互いを、チエちゃん、ナオちゃん、久美ちゃんと「ちゃん」付け、または、ニックネームで呼び合っていたのですが、はつ子さんだけはなぜか「さん」付けでした。
男の子たちの中には、「はつ子」と呼び捨てにする子もいました。
 はつ子さんはクラスの中で一人浮いた存在、嫌われ者でした。
なぜ嫌われていたのかといえば、彼女は身の回りをきれいにしていなかったからです。洋服はいつ洗濯したのか判らないくらい薄汚れていましたし、身体も何となく垢じみた感じでした。
それに彼女の家庭が、その地域で浮いた存在になっていたことも大きな要因でしょう。
 あからさまに悪口を浴びせられることもあり、どんなにか辛い学校生活を送ったことだろうと想像するのです。
それでも、彼女は一日も学校を休むことはありませんでした。
あの頃、登校拒否などする子は、チエちゃんの学校では誰もいなかったように思います。

 ある時、図工の時間に「友達の絵を描く」ことになりました。
2人にずつペアになって、お互いを描きっこするのです。
はつ子さんとペアになろうという子は誰もいません。
チエちゃんは、はつ子さんが気の毒になりました。チエちゃんは、偏見を持ってはいけないと思い、はつ子さんとペアを組むことにしました。
 このように書くと、チエちゃんは優等生風に見えますが、この時、チエちゃんの心の中に、はつ子さんに対する憐れみの感情、ペアを組んであげたんだという優越感があったことは否定できない事実です。
 ところが、顔の輪郭を描き、髪型を描き、身体の部分を描いて、最後に目、鼻、口を描こうとしたのですが、どうしても描けなかったのです。
彼女の目は、一重で細く、つり上がっており、みんなに狐目と言われていたからです。
そのとおりに描いてしまえば、はつ子さんを傷つけることになるかもしれないと思い、また、明らかにパッチリ目に描いてしまえば、嘘になってしまうからです。
 絵の具で色をつけた後も、のっぺらぼうのはつ子さんがいました。
いつまでも、絵を完成できないチエちゃんを見かねて、小木先生が助け舟を出してくれました。
小木先生の描いたはつ子さんの顔は、狐目でした。事実を描いてくれたのです。

 子どもは、正直であるが故に残酷でもあります。
いじめはいけないと建前を言いつつも、大人社会にもいじめは存在しています。
子ども社会は、大人社会の縮図なのでは?

第114話 オクラホマミキサー

2007年09月26日 | チエちゃん
 チエちゃんの通う小学校では、9月の声を聞くと、10月の運動会に向けて練習が始まります。

 全校生が校庭に集合して、期間中の最初から最後まで練習するのは入場行進のやり方でした。
先頭を歩くのは児童会長と決まっており、次は日の丸を持つ係の6人、その次には1年生から学年ごとに男子2列・女子2列の4列に並んで行進するのです。
どこが悪いのか、誰ができないのかも、よく分からないままに、ピィーッとホイッスルが鳴って、何度もやり直しをさせられたものです。

 もうひとつ、ほとんど毎日のように練習したものに全校ダンスがあります。
ダンスといっても、三波春夫のナントカ音頭に合わせて踊る盆踊り的ダンスです。

 この2つは、暑い日射しの中で、うんざりするほど練習させられたものでした。


 同じように繰り返し何度も練習したものに、フォークダンスがあります。
1・2年、3・4年、5・6年と2つの学年で1つの出し物をやるのです。
3・4年生がオクラホマミキサー、5・6年生がグスタフスコールだったように記憶しています。

 このフォークダンス、低学年の時には何のためらいもなく手を繋いで踊っていたのですが、何時の頃からか、異性を意識し始めるのか、手を繋がない子が出てきたのです。

特に高学年になると、恥ずかしがって手を繋ぐことを拒む男子が増えたのです。
みつお君や信一君、その他にも7~8人はいます。
女の子の中にも、恥ずかしそうな仕草をしている子もいたのですが、チエちゃんはなんのその、逆にぎゅっと握ると、みつお君などは振り解こうともがくので、おもしろかったのです。
パートナーチェンジで、やっと開放されたとばかりに、バシッと手を切って離れていくのでした。

 女の子と手を繋ぐことが平気になるのか、好きな子と手を繋ぐチャンスと悟るのか、それから、男子がフォークダンスをちゃんと踊ってくれるようになったのは、高校生になってからだったように思います。

どうも、男の子というものは、よくわからん!

第113話 アルバム

2007年09月23日 | チエちゃん
 瑠璃色ビロードの古い表紙をめくると、そこにはセピア色の写真たちが並んでいます。

おじいちゃんと双子の兄おじいちゃん、もう一人隣に写っている男性は大学の先生だそうで、なんでも双子の研究をしていたのだとか・・・

水兵服姿の少年兵のヨシヒサ伯父さん。伯父さんは海軍兵学校に行っていたのです。

スーツを着た若かりし頃のおじいちゃんと水兵服姿のヨシヒサ伯父さん、前列には椅子に腰掛けた着物姿のおばあちゃんと小学生の詰襟服のお父さん、セーラー服姿のトシ子叔母さん。伯父さんが兵学校に行く直前に撮った家族写真のようです。

みぃを抱いたお嫁入り前のトシ子叔母さん。

ひまわりの向こうに見えるタバコ畑。

生後6ヶ月、おすわりをしたマルコメのチエちゃん。

その数ページ後には、同じ姿の弟たかひろ君。

おじいちゃん、おばあちゃんと上野動物園に行った時のチエちゃん
柵に足を掛けよじ登ろうとしています。

写真がイヤだと言って、ケイ子おねえちゃんの後ろに隠れ、頭だけが見えているチエちゃん。

バリオンローズステッチ刺繍のカーディガンを着た小学校入学式のチエちゃん。

東京から従兄妹たちがやって来た夏休みの家族写真の1枚。


 こんな写真たちに混じって、お父さんとお母さんの結婚式の写真があります。

文金高島田に角隠しでうつむき加減のお母さんは、仲人さんの提灯の先導で、家まで続く坂道を登っています。
見覚えのある襖の前に座るお母さん。こちらも顔を上げることなく下を向いています。
 この半年後、身重のお母さんを残し、お父さんは出稼ぎへと出かけなければならなかったのです。

 今年、チエちゃんのお父さんとお母さんは金婚式を迎えました。
このアルバムに、近々、50年後の1枚が増える予定なのです。





第112話 赤とんぼ

2007年09月20日 | チエちゃん
迷い込んだギンヤンマ?赤とんぼじゃなくて、ごめんなさい

  ♪夕焼小焼の、赤とんぼ
   負われて見たのは、いつの日か
       山の畑の、桑の実を
       小籠に摘んだは、まぼろしか
   十五で姐やは、嫁に行き
   お里のたよりも、絶えはてた
       夕焼小焼の、赤とんぼ
       とまっているよ、竿の先

 この歌の「おわれてみたのは いつの日か」の部分は、間違って解釈されていることが多いそうです。
大概の場合、「追われてみたのは」と、とんぼの立場だと思われているようなのですが、これは「(私が、背)負われて(赤とんぼを)見たのは いつの日か」というのが正解なのだそうです。
 よくよく考えてみれば、分かることなのですが、チエちゃんもあの頃は「追われてみたのは」だと思っていたのでした。
正しい解釈をして、この詩を読んでみれば、(私を)背負っていたのは姐やで、(私は)姐やに淡い恋心に似たものを感じていたのでしょうか?そんな気持ちを赤とんぼを見て思い出したのでしょう。

 昭和40年代のあの頃、チエちゃんの学校の帰り道に広がる田んぼには、アカネやシオカラとんぼが群れて飛んでいたものです。
黄金色に色づき始めた稲や鳥除けを下げた竹竿の先に止まったとんぼを、そおっと、そおっと、人差し指でグルグルと円を描きながら近づき、捕まえたものです。
  とんぼを捕まえる時に行なうこの指を回す動作は、とんぼが目を廻すからだというのが定説でしたが、羽根を一段と低くして警戒することはあっても、ヨロっとすることなど一度もなかったので、これはどうも嘘らしいと思ったものです。それでも、とんぼを捕まえる時には、必ず指を廻したのでした。

 今では、群れ飛ぶどころか、一匹の赤とんぼでさえほとんど見かけなくなりました。


 

第111話 映画館

2007年09月17日 | チエちゃん
 テレビが各家庭に普及する以前の庶民の娯楽といえば、ラジオと映画でしょうか?

チエちゃんのお気に入り子供向けラジオ番組は、「赤胴鈴の助」でした。

   ♪剣をとっては 日本一の 夢は大きな少年剣士!
    親はいないが 元気な笑顔 がんばれ 強いぞ!
    僕らの仲間 赤胴鈴の助

この主題歌に合わせて、踊っていたのだそうです。 
(ちなみに、鈴の助の声優さんは、子供の頃の吉永小百合さんとか・・・)

 チエちゃんの遠い記憶をたどれば・・・・・

 チエちゃんの村にも、中学校の近くに1軒の小さな映画館がありました。
そこは、映画館というより、学校の体育館を小さくした作りで、作り付けのイス等はなく、床に座布団を敷いて映画を見たのです。家族揃って出かけた映画館は、超満員でした。

 鑑賞した映画は、おそらく2本立てか3本立てで、
山城新伍の『白馬童子』か、嵐 寛寿郎の『鞍馬天狗』であったように思います。
なにしろ、昭和30年代末の4・5歳の時の記憶ですから、ストーリーなどは全く覚えていないのですが、ひとつだけハッキリと覚えているシーンがあるのです。(別の記憶かもしれませんが・・・)

 お世継ぎ争いに巻き込まれた若君の御膳、お椀の中味を金魚鉢の中に入れると、それまで優雅に泳いでいた金魚が、たちまちの内にお腹を見せて浮き上がったのでした。
どうして、このシーンだけ覚えているのか、理由は分かりませんが、おそらく若君がチエちゃんと同じぐらいの子どもであったからではないでしょうか。

この映画館は、テレビの普及と共に、いつの間にか消えていったのでした。



 実は、今週のgooトラックバック練習板のお題「秋の夜におすすめの映画を教えてください」から、映画館のことを思い出したのです。

昭和めもりーずとは関係がないのですが、チエちゃんのおすすめは、

 「ショーシャンクの空に」(The Shawshank Redemption)

スティーブン・キング原作「刑務所のリタ・ヘイワース」の映画化作品です。
無実の罪で終身刑を受けた男の脱獄までの物語。
数あるキング映画化作品の中で、チエちゃんお気に入りの1本です。
2時間を越える大作ですので、秋の夜長に、ぜひどうぞ!
(これ、出題のおねえさん?と偶然、同じでした。見ないで書いたんだよ。)

 ショーシャンクの空に(1994) - goo 映画


   

第110話 児童公園

2007年09月14日 | チエちゃん
 その日、チエちゃんは、お父さんとF市の眼科医院へとやって来たのでした。
2日ほど前、御影石を金槌で叩き、弾いた破片が運悪く、左眼に入り、どうにも取れなくなってしまったのです。眼は真っ赤に腫れ上がっていました。
 この時も、病院に行くのは絶対にイヤだとごねていたのですが、お岩さんのように腫れ上がって、痛さに瞼も開けられない状態に観念したようです。

 診察台の上でも散々泣き喚いていたのですが、石が取れ、診察が終わるとケロッと機嫌も直ってしまいました。それでも、眼に傷が付き、左眼には眼帯をしなければなりませんでした。

 この後、チエちゃんは、眼科へ来たご褒美ということで、児童公園に連れて行ってもらったのです。
 
 ここは、公園と名前が付いていますが、市営の小さな小さな遊園地です。有料の遊具が幾種類か設置されており、1回10円で、乗れたように記憶しています。100円で11枚の回数券がお徳でした。
 コースを3週する豆機関車、ぐるぐる目まで廻ってしまうティーカップ、水に入ったり、空を飛んだりするボート、塔を中心に廻りながら、空高く飛ぶ飛行機など・・・・(あと、1つか2つあったように思うが、思い出せません)
 このほか、ブランコや滑り台、砂場などの無料遊具もありました。公園の中央には池があり、アヒルやカモが泳いでいました。

 チエちゃんは、何度かこの児童公園に連れて来てもらったことがあり、中でも、飛行機が大のお気に入りでした。一通り、遊具に乗った後、もう一度最後に必ず乗るのが、この飛行機だったのです。
ぐるぐる廻りながら、空、高く高く舞い上がる飛行機は、とても気持ちがよく、先程まで目の痛みに苦しんでいたことなど、何処かへ消し飛んでしまうのでした。

 この児童公園は、現在も運営を続けており、1回50円~100円と値上がりはしたものの、日本一安い小さな遊園地のようです。




第109話 かいごさま(その3)

2007年09月11日 | チエちゃん
 チエちゃんの家では、春から秋にかけて蚕を飼っていました。

 先に 第74話 かいごさま(その1)第80話 かいごさま(その2)をお読みいただければ、なお分かりやすいと思います。
 
 蚕は4回脱皮を繰り返して4~5㎝の大きさに成長すると、それまで青白かった体の色が、クリーム色に透き通ってきます。これは、繭を作り、さなぎになる準備ができたということです。こうなると、蚕はもう桑の葉を食べず、繭を作る場所を探し始めます。

 蚕がこの状態になると、養蚕農家では、蚕を1頭(匹)ずつ拾って、わらで編んだ「まぶし」に移します。このまぶしの中で、蚕は繭を作る適当な場所を見つけ、口から糸を吐いて、繭を作ります。
 蚕をまぶしに移すことを蚕を「ひく」「ひける」、専門用語では「上族(じょうぞく)」と言います。

 このかいごさまをひく作業というのが、大変なのです。
なにしろ、一斉に蚕が繭を作る状態になるわけですから、一家総出でかいごさまを拾って、まぶしに移してゆくのです。猫の手も借りたいほどの忙しさです。

 ただ、この作業に入れば、桑摘みの重労働はなくなりますし、蚕をまぶしに移してしまえば、後は、蚕が繭になるまで待つだけとなるので、作業にも自然と活気が感じられるのでした。
 まぶしの下には新聞紙を敷きます。というのは、蚕は繭を作りながら、最後の糞とおしっこをするからです。

 こうして、繭が完成し、中の蚕が完全なさなぎになるのを待ちます。
それから、まぶしから繭を外していきます。この作業を「繭かき」と言います。
取れた繭は、周りにフワフワとした綿状の糸に包まれていますから、綿取り機にかけてきれいな繭に仕上げます。
 チエちゃんは、この綿取りのお手伝いが、かいごさまの中で一番好きな作業でした。
綿取り機に繭を乗せ、レバーを回しながら、降り口付近に手で繭を移動させると、ゴム上のベルトに余分な綿状部分が巻き込まれて、取り除くことができるのです。
これは、本当に最後の最後の作業であり、秋の夜長に白熱灯の下で、お母さんとおばあちゃんが世間話をしながら作業し、ゆったりとした時間が流れていくのでした。
チエちゃんの横では、みぃも毛づくろいをした後、ゴロゴロと喉を鳴らし、家族中がご機嫌な夜なのでした。


養蚕の道具たちをリンクさせていただきました。作業の一部を見ることができます。
 

第108話 ロータリーエンジン

2007年09月08日 | チエちゃん
 今年、マツダロータリーエンジンは40周年を迎えたそうです。
gooブログパーツに”mazdaロータリーエンジン40周年記念サイト”のブログパーツを見つけて以来、書きたい想いは膨らんでおりました。
今回も特別企画です。
「100話達成記念!特別企画」で予告したとおり(こんなに早くとは思いませんでしたが)、チエちゃんの異なった一面を少しご紹介しましょう・・・

 1979年5月3日、その日、チエちゃんはそれまで想像すらしなかった場所(世界)に身を置いていました。
 若者達の歓声、華やかなレースクィーン、できる限りの大声を出しても掻き消されてしまう程の爆音、プラクティス走行でさえスタンド前のストレートを猛スピードで駆け抜けていくマシンたち・・・

 '79富士グランチャンピオン250キロレース第2戦の決勝戦が開催される富士スピードウェイ・・・
 チエちゃんは、親友のナオちゃんに誘われ、ゴールデンウィークを利用して、ちょっとした旅行に出かけたのです。しばらく会っていなかったナオちゃんと積もる話ができれば、旅行先などはどうでもよく、誘われるままについて行ったのでした。

 前哨戦ともいえる午前中のマイナーツーリングレース、スーパーシルエットレースに続いて、午後はいよいよメインレースが開始されようとしています。
 ピットでは、各チーム関係者が慌しく動き、出場各車がクルーに押されてコース上に出てくる。
メインスタンド前のスタート定位置に2列交互に並ぶグラチャン・マシン。
アナウンスの軽やかな声が、出場する車・スポンサー・レーサー・予選タイムなどを日本語と英語で繰り返す。
 やがて、各車は激しい爆音を立ててエンジンを始動させる。その時、全出場車のほとんどにマツダロータリーエンジンを使用しているという、アナウンスが流れた。

 ロータリーエンジン?

 そして、男の子たちは、チエちゃんたちがこの旅行に乗ってきたmazdaコスモAPのエンジンも、12Aロータリーエンジンだと言うのです。

 もちろん、一般車のエンジンとレース用のエンジンでは、同じロータリーエンジンでも、全く異なっていることは言うまでもありません。それでも、若者達には、ロータリーエンジン搭載のサバンナRX-3が'71年スカイラインGT-Rの50連勝を阻止して以来、あこがれのエンジンだったのです。

 ロータリーエンジンは、レシプロエンジン(普通のエンジン)とは構造が全く異なっています。レシプロエンジンはピストンの上下運動をクランクシャフトに伝え回転運動に変えていますが、ロータリーエンジンは三角おむすび型のローターが回転し、そのまま回転運動をシャフトに伝えているのです。
 ロータリーエンジンの仕組みについては、私の下手な説明より、リンクサイトをご覧ください。
 ロータリーエンジンの長所は、少ない排気量で、パワーが出せることです。排気量が小さいということは、エンジンが軽量コンパクトであるということです。エンジンが軽量コンパクトであるということは、エンジンがあるフロント部分が軽くなり、ハンドリングがよくなるらしいのです。
 当初、ロータリーエンジンは未来のエンジンと持て囃されたそうですが、短所もあったのです。それは、エンジンが高熱を持つために耐久性に欠けること、燃費が著しく悪いことです。それで、一般車には普及せず、一部のスポーツタイプ車にのみ搭載され、今日に至っているのですが、根強いロータリーファンが存在することも事実です。

 その日の富士グランチャンピオンシリーズ第2戦は、BMWを駆る当時人気絶頂のレーサー星野一義の優勝で、幕を閉じました。残念なことにロータリーエンジンは勝てなかったのです。

 私程度の知識で、ロータリーエンジンを語るのは誠にお恥ずかしい限りですが、1979年5月3日は、ロータリーエンジンの思い出と共に、その後のチエちゃんの人生に大きな影響を与えた一日となったのでした。
 この続きは、またいつの日にか・・・

注;画像は翌年'80年の富士グランチャンピオン第2戦のパンフレットです。
  '79年のものは、その時には興味がなかったので保存していなかったのです。デジカメで撮ったので、ボケています。あしからず!

第107話 悪 夢

2007年09月05日 | チエちゃん
ハァ、ハァ、ハァ、早く、早く、もっと早く、・・・・・

チエちゃんは、真っ暗闇の地底を駆けています。

すぐ後ろからは、気配が・・・

怖ろしい魔物が追いかけてくる。

早く、早く、早く、・・・・・  逃げなくちゃ!



ん!? あの光は何?

出口だ!

あそこまで、たどり着けば逃げ切れる!


出口付近に近づいてみると、そこはチエちゃん家のもろの中だ!!

もう少しで、出られる・・・

やった! 外だ! 

ここは、チエちゃん家の庭先。

ああ、なんてこと! 魔物はすぐそこまで迫っているというのに、

洞窟の外に出た途端、チエちゃんの足はまるで、スローモーション・・・

もがいても、進まない。 動け! もっと早く! がんばれ!

やっとの思いで、庭の端にたどり着いたチエちゃんは、高台のその場所から

飛び降りました。


身体がふわっと宙に浮いて、空を飛んでいる・・・

やった、これで魔物は追ってこられない。

しばらく、空中を飛んで、安堵感と開放感を味わったチエちゃんでしたが、

公民館の辺りで、急に失速し始めたことに気が付きました。

どうしよう! 足をバタバタさせるも、どんどん、どんどん、下降していく・・・



 いつも、この場面で、チエちゃんは、ハッと目が覚めるのです。
ゆめ判断によれば、追いかけられるゆめは、身体の疲れを現しているのだとか・・・

 子供の頃、度々見ていたこの魔物に追いかけられるゆめも、楽しいゆめも、苦しいゆめも、ゆめを見なくなって久しい・・・











第106話 避病院

2007年09月02日 | チエちゃん
 チエちゃんが通う小学校の西側を流れる初瀬川沿いに、1本の小道がありました。そこは、自動車も通れるぐらいの道幅なのですが、滅多に通ることはありません。
 それで、運動会シーズンが近づく秋になると、体育の時間はその小道がマラソンコースに早代りするのでした。
片道約1.5㎞のコースを往復する、その折り返し地点の少し手前に、あの頃既に、見るからに廃墟と化したその建物はありました。

 切り通しが途切れ、松林が続く、その中にひっそりと佇む朽ちかけた木造家屋。
或る時、チエちゃんはあの建物は何であるのか、お母さんに質問しました。
お母さんの答えは、「ひびょういん」(?)の址だと言うのです。

 ひ・びょういん?

 病院と付くのだから、病気の人が入院する所らしいとは思うのですが、お母さんの答え方が、何となくすっきりとしない、声をひそめるようなその言い方に、これは聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうかと思うチエちゃんなのでした。

「避病院」とは、昔、伝染病患者を隔離した病院なのだそうです。
そうだとすれば、お母さんの妹のような結核患者が入院していたのでしょうか?

今、思い返して見れば、どうもそうではないらしいことに気付くのです。
おそらくは、ハンセン病患者の隔離施設ではなかったのか?と、思い当たります。
らい病と呼ばれ、不治の病とされたその病気に侵された人は、本人だけでなく、その家族までもが、恐ろしい病気として忌み嫌われ、村八分などの偏見・差別を受けたのです。

 チエちゃんの村にそのような施設があったことすら、忘れ去られ、今回こうして思い出し、書くことになって初めて、ひ病院の「ひ」という漢字はどれを当てはめるのだろうかと調べてみたのでした。