チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
+昭和50年代~現在のお話も・・・

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女神に憑かれたおじいちゃん

2024年07月14日 | お母さん
あんどぎは、ほんとに大変だった。

隣組の人らで出羽三山にお参りに行ったごどがあったのな。
ほしたら、むごう(出羽三山神社)でも、この村が(出羽三山)開祖の蜂子皇子(はちこのみこ)の母親の女神さま所縁の土地だって知ってっから、一番前の席に座らせらっちゃんだと。
巫女さまが一番年上だったおらい(うちの)のじいちゃんの前に立って、
「遠いところ、よく来てくださった。これからも女神さまをよろしく頼むぞえ」と言葉を掛けてくっちゃんだと。
ほんとぎ、じいちゃんは雷に打だれだみだいに、ビ、ビッと来ちまって、「ありがでなぁ~」って思ったんだと。

そうして、帰って来てがらが大変だったのよ。

「『女神さまをよろしく頼むぞえ』と言わっちゃがらには、女神さまの祠を何とかせねばなんねえ。」
つって(言って)な。
草ボウボウだった祠の周りをきれいに草刈ってな、『女神さまをこのままにはしておがんに』って隣組中を回って歩いで、そんだけでなくて、村中の誰彼と捕まえては女神さまの話をしてだのさ。
挙句の果でに、村役場に押しかげで行って、村長様に直談判までしてなあ。
まあ、体よぐあしらわれだとは思うんだげんちょも・・・

夜も寝ねでガタガタやってっから、このままでは身体が持だないと思って心配してなあ。
ばあちゃんが説得しても、お父さんが言っても、「お前らは何言ってんだ!女神さまのためにやんねっか(やらねば)なんね」とさっぱり効がねがった。
隣組の人らには「おめげ(お前の家)のじっち(じいちゃん)は何のどごだべ。まったぐ、迷惑だ!」って言わっち、ほんとに困ったっけ。

そうこうしてだら、本家の正一ちゃん(今週亡くなった父の従弟)が聞ぎつけて来てくっちゃのな。
「おんつぁ(おんつぁま=おじさん)、しっかりしっせ!
 おばさま(おばあちゃんのこと)も、家族も、村の皆も心配してんの、わがんねのが?」
大きな声で一喝したあど、昏々と説得してくっちなぁ。
じいちゃんは黙って聴いでだんだげんちょも、しばらくしたら
「ほうが・・・本家がそう言うんなら、俺も考えねっかなんねな。」

「ほうがい(そうかい)。おばさまの言うごど、ちゃんと聞いで、まずは寝所へ行って休まんしょ!」

ほうして、一晩ぐっすり眠ったじいちゃんは、次の朝、憑き物が落ちだみだいにさっぱりとした顔で起ぎできたのよ。

ほんとに本家の正一ちゃんは大したもんだ。有難がったよ。



それからしばらくして、祖父は女神さまに正気を吸い取られたみたいにボケてしまった。
今でいう認知症だ。
徘徊することは無かったが、世話してくれる母を『どこかのねえちゃん』と呼んで好々爺然としていたことを私は今でも覚えている。
私はこの出来事がきっかけで宗教は怖いと思い、無宗教となってしまったのかもしれない。

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母の着物

2024年06月16日 | お母さん
一昨日は月に一度の母との面会日でした。
母に声を掛けても返事は無く、母の顔を見ながら弟と会話しただけでした。

この日は面会後、チエちゃん家(実家)に立ち寄り、少し片付けをしました。
押入れの茶箱(湿気や虫から守るため、着物や羊毛のセーターが入れてある)を整理しようと思いました。
茶箱の中を見ると、『〇年〇月〇日に虫干し』をしたと、几帳面な母のメモが添えてあります。
その年月は『平成29年』で止まっています。父が亡くなった年までは虫干しをやっていたことが分かりました。

それから、茶箱の中に見覚えのある着物を見つけました。
地味な色のその着物を私はずっと祖母のものであると思っていたのですが、添えてあったメモから実は母のものだったと知ることになったのです。



『この長着と羽織は、実家のヤヂの母(母の母親:私から見て母方の祖母)が(嫁入りする時)、実家(母方の祖母の生家)の親(私から見て曾祖母)が自分で絹糸を織って作ってくれたそうです。
私が着る時、染め直して作ったもの。羽織はウルシ染めなのでごわつきます。
農家では着る機会もなく、子供達の入学、卒業の時くらいでした。』

ああ!親の(曾祖母の、祖母の、母の)想いが伝わってくる。
貧しい暮らしの中で、嫁入りする娘にせめて1枚だけでも、着物を持たせてあげたい!
それにしても、若い娘にこんな地味な着物。
おそらく、一生着れるようにという配慮だったのでしょう。

祖母の嫁入りの年月を考えると、この着物は1世紀近く経ってるってことなんですねぇ。



玉音放送

2023年08月16日 | お母さん
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わだしが学校に通っている間、日本はずーっと戦争やってだのな。
ほんだがら、勤労奉仕ばっかりやって、勉強なんてろぐすっぽやんねがったのさ。

ほして、国は日本は連戦連勝なんて言ってでな、嘘ばっかりだったのよ。
あの日なぁ、大事なラジオ放送があっから必ず聴くようにって言わっち、みんなで熊んさまさ集まって、玉音放送を聴いだのよ。
ほんだげんちょも、天皇陛下の声なんて初めで聴ぐしなぁ、変な所で区切って言うし、難しぐて何言ってんだがさっぱり分がんねがった。
ほうしてる所に、街の方がら清助やんが上ってきて、
「日本は負げだ。負げだんだ。」
って言うもんだがら、やっと戦争に負げだごどが分がったのよ。
ほれがら、米兵がやって来て女子供はみんな凌辱されっちまうなんて言わっちで、みんなして竹槍の稽古してたんだ。
ほんじも、こごら辺まで米兵が来るごどはねがった。


竹槍のくだりは笑ってしまうけど、当時は信じて真剣に稽古していたのでしょう。
東北の片田舎で、一般人がどのようにして終戦を知ったのかが分かる貴重な証言です。

※『玉音』とは天皇の肉声のことだそうです。
 当時、天皇はまだ現人神ですから、一般人が天皇の声を聞くことは無かったと思います。

勝ってくるぞと勇ましく

2020年10月05日 | お母さん
NHK朝ドラを楽しみにしている母です。特に、今回は福島市出身の古関裕而さんがモデルということもあって、気合を入れて観ています。
今週はいよいよ戦争が厳しくなってきたようで、裕一に招集令状が届きました。
それを観ていた母が思い出話を・・・

わだしが学校に通ってる間、日本はず~っと戦争やってだのな。
毎日、朝は愛宕(神社の)下のバス停で出征する兵隊さんを見送ったのよ。

♪勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷をでたからは~
(おお!正しく、古関裕而の「露営の歌」!)

って、うだって、旗振ってな。兵隊さんもバスの中がら手振ってなぁ。
ほんだがら、勉強なんてちっともやんねがったのよ。
それが、終わったら、勤労奉仕。
兵隊さんに行ってる人の家に、みんなして手伝いに行ぐのさ。
よおぐ桑の葉っぱ摘みに行ったな。(この辺りは養蚕が盛んだった)
子どもだがら飽ぎっちまって、友達と寝転んでだら、いづの間にが眠っちまって、「コラ!お前ら、何さぼってんだ!」なんて、おごらっちなぁ。
弁当持って行ぐんだげんちょも、その(手伝いに行った)家ではお汁くらいは出してくれるのな。ありがたがったな。
ほんだげんと、台の政造さん家では、ちゃあんとお膳を作ってごちそうしてくっちゃんだよ。
たいしたご馳走でもないんだげんちょも、子どもにまでお膳出してくっち、あれはうれしがったなあ。
まったぐ、全然勉強もしねえで、ほんなごどばっかりしてだのさ。

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ばあちゃんの指輪

2020年09月10日 | お母さん
ホラ!あのばあちゃんの指輪だげんちょもな。わだし(母)も、あんだ(私)もいなぐなっちまったら、指輪のごどはだあれもわがらなぐなっちまう。
ほんだがら、今のうぢにこういうどごろで処分しちまったほうがいいど思うんだげんちょも。
と、母は新聞の折り込み広告(宝飾品やブランド品の買取り)を私に見せた。
う~む、指輪は祖母の形見には違いないけれど、私たちには祖母のように思い入れがある品ではない(それに私の小指にしか入んないんだよねえ)ので、処分してしまうのも一理あるなと思い、広告のお店で見てもらうことにした。

まったぐ、あのおせきちゃんときたら困ったばあちゃんだった。
お寺に御詠歌の練習に行ったどぎな。おらいのばあちゃんがあの指輪してだもんだがら、お寺の奥さんに「あら、おばあちゃんステキな指輪してるね~」つって、言わっちゃんだと。
ほうしたら、おせきちゃん(祖母の御詠歌仲間)が、ばあちゃんに指輪を譲ってくれって、しつこく言うんだと。
おらいのばあちゃんは「なんぼ譲ってくれって言わっちも、これは仙台の姉の形見だがら、譲るわげにはいがねぞん」って、断ったんだと。
それがら、老人クラブで温泉に行くどぎな。ばあちゃんに「これでみんなでお茶飲むどぎ、まんじゅうでも買わんしょ」って、1万円渡したのな。
わだしはいっつも、ばあちゃんが温泉に行く時は小遣いやってだのな。
温泉に行ってがら、ばあちゃんな、仲間の前で何気なぐ言っちまったんだと。
「おら、母ちゃん(嫁のこと)に1万円小遣いもらってきた」って。
ほうしたら、おせきちゃんがな、
「おらも、お母ちゃんに2万円もらってきた」って言うんだと。
ほんで、同じ御詠歌仲間のサダちゃんの家が店屋だべ。おせきちゃんの嫁さまが買い物に来たどぎ、聞いでみたんだと。
「あんだ、たいしたもんだした。この前、温泉に行った時、おせきちゃんに2万円小遣いくっちゃんだって?」
その嫁さまが言うにはな、
「まだ、おらいのばあちゃんはトンでもねえ嘘ついで。おらいはやっとやっと生活してんのに、ばあちゃんの温泉旅行にくれでやる小遣いなんて何処にもねえぞい」だとさ。
まったぐ、おせきちゃんときたら・・・

まあまあ、ばあちゃんの指輪にまつわる思い出話から、見栄張るおばあちゃんのお話しになりましたねえ。
すぐバレるようなうそをついても、見栄を張りたいおせきちゃん。
かわいいじゃないですか。信用は無くすだろうけどね。

そうそう、祖母の指輪は確かに金でした。15,000円になりました~


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がんじゃなかった

2020年02月11日 | お母さん
あんだが中学2年の時だったなぁ。
胸にしこりが出来で、医者に診でもらったらがんだなんて言わっち、医大病院で手術してもらったべ?
わだしのおっかさま(母)も乳がん、おどっつぁま(父)も陰茎のがんだった。
ほんだがら、「あんだもおっかさまに似だんだない」なんて近所の人がら言わっちなぁ。面と向がって、本人にそんなごどいう人もないもんだ。
その頃、医大のホンダ外科っていったら、そりゃ~有名な先生(医師)だったのな。
手術前は片方の乳房だけって言わっちゃんだげんちょも、そんどぎになったら転移している可能性もありますがらって、両方とっちまった。
ほんでな、手術が終わって、まだ手術台にいるうぢに麻酔が切れて気が付いたのな。
そうしたら、手術に立ち会った先生だぢが話してるのが聞こえっちまったのさ。
「部長ががんだって言うから・・・、 私は違うと思ったんだけどね」
「いや、私もそう思いましたよ・・・」
わだしの麻酔がまだ効いてると思って、わだしのすぐ横の方で先生だぢがひそひそ話していだのな。
そんな話してるもんだがら、わだしはまだ眠ってるふりしでだのよ。
んだがら、今まで誰にも言ったごどはながったげんちょも、あれはがんでながったと思ってる。
あれがら転移もしなげれば、再発もしねもの。
あれはがんでねがったんだ。
ほんでなげれば、こんなに長生ぎはできねがったよ。

ひゃ~、今の時代ならたいへんだ。
医療ミスで訴えられるよ。その時、病院に何も言わなかったの?

そんなごど、しねえ。今までだあ~れにも言わねがったもの。



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続・小名浜の魚屋さん

2019年05月16日 | お母さん
昔、小名浜の魚屋さんがよく来てだなぁ。
あの頃、(小名浜の魚屋さんから)買うのは宮(熊野神社の宮司家のこと)とおらいぜ(我が家)くらいのもんだった。
他所の家はお金が無くて、買いだくても買えながったのさ。
おらいでは、お父さんが出稼ぎをして、一生懸命働いてお金を送ってくれたから買えだのさ。
もっとも、じいちゃんが昔、東京で食堂やってだぐらいの人だったがら、この辺りの野菜だけの料理では口が寂しいっていうのがなぁ、満足できながったのさ。
じいちゃんとばあちゃんから家計を渡されだとき、(お父さんが仕送りしてくれたお金が)なんぼが貯まってっぺと思ってたら、なあ~に貯金なんてさっぱり無がったのよ。
ほんだがら、「俺が寝ないで稼いだ金を、お前らは何にも考えないで使ってたんだな」って、お父さんが怒ってだなぁ。
 
 
そうだったのか。
魚屋さんが来た時、我が家では毎回買い物をしていたけれど、上の家のおばちゃんは3回に1回くらいだった。他所の家では現金収入が無かったんだ。
自分の家が他所と比べて裕福だったとは思わないけれど、恵まれていたんだ。
そういえば、森永マミーを取ってもらったし、学研の学習雑誌も購読させてもらった。あれって、贅沢なことだったんだ。
 

おごる気もしね

2019年02月21日 | お母さん
山上(やまじょう)で働いでっとぎさ。
(山上商店というのは、母が40代~60歳まで働いていた漬け物工場)
社長さんが岩手がらトラックいっぱいの大根積んできてなぁ。
明日の朝には、まだ(岩手に大根を積みに)行がねっかなんねがら、今夜中に大根を降ろしたいっていうのな。
ほして、(降ろすなら)二度手間になっから(漬け)タンクに漬けっちまいだいって言うんだよな。
みんなして2時間残業やったげんちょも、まだまだ大根が残ってんのさ。
家族だけ(山上商店は家族経営+数名の従業員の小さな漬物屋だった)では、明日の朝になっても終わんねえがら、
わだしと社長の妹のよしえちゃん、2人になんとが手伝ってもらわんにべが?って、言わっちなあ。
わだしは、痩せっこで、力がなくて、もう、クタクタだったげんちょも、仕方ないと思って残業したんだよ。

ほんぢ、やっと仕事が終わって、足腰も立だないぐらいくたびっち(くたびれて)坂道を這って家に帰ったら、もう夜中の12時近くだった。
ほしたら、じいちゃんが怒ってでなあ。
「人の家の嫁をこんな時間まで働かせる会社はどごにもねえ。
 母ちゃん(母のこと)は、男と遊んできたんだ。」つって。
いやあ~ なんだべ じいちゃんはわだしのごど、こんな風に思ってだのが、信頼されていながったのが、
って思ったら、がっかりしっちまって、情げなぐなっちまって、おごる気もしねがった。

そんどぎ、ばあちゃんに諭さっちなぁ。
「母ちゃん、じいちゃんは、な。
 前の奥さんが、役者なんかと何度も駆け落ちするような人だったがら、ああいう事言うんだがらな。
 ここは、我慢してくれろ。私は解ってがらない。」

ほんじも、やっぱり悔しくてなぁ。
明日、社長さんに訳を話して、うぢに来て説明してもらうべが、って思ったげんちょも、
いやいや、こんなごどで騒いでらんにど思い直してな。
次の日も仕事に行ったのさ。


ほんとにもう、困った爺さん。
普段は人のいい爺さんだったのに、怒りだすと手が付けられなかった。特に、お酒が入ってる時は。
それにしても、お母さんは余程悔しかったんだね。
この話、少なくても5回は聞いてるよ。


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宮のばあちゃん

2019年02月19日 | お母さん
宮(熊野神社宮司一家のこと)に、ばあちゃんがいてな。今の神主様の曾ばあちゃんだな。
そりゃあ、きれいな人だったよ~
ほのばあちゃんがな、「○○や~ん(母の名前)フキ採りに行ぐべえ~」って、突然やって来んのよ。
いづいっか(何月何日)って、約束でもしてだらいいげんちょも、こっちだって今日はこれすっぺ、あれすっぺと思ってだごどが、できなぐなっちまうべ。ほんだがら、困っちうのな。
ほして「昼飯は心配すっごどねえぞん。あんだの分までにぎりめし作ってきたがらない」って言うのな。
おらい(我が家)は困ってだべ。
んだがら、ご飯は麦ばっかりで、パラパラして握らんにがったげんちょも、宮のご飯は白米にみそ豆が入った豆ご飯でな。うまがったな~。
ほんじゃもんで、仕方なぐいっしょにフキ採りに行ぐのよ。
あのばあちゃんは、フキが大好ぎだったんだなぁ。
あっちの山、こっちの窪って、深い所まで採りに行ってな。
たしか一人で山に行ぐのが嫌だったんだべ。
わだしだって、あんな深い山に一人ではおっかなくて(怖くて)行ぎだくねえもの。
こんなにたくさんのフキをなじょ(どのように)すんの?って聞いだらな、塩漬けにしとぐんだって。
それを季節外れになった頃、塩抜きして、佃煮だのなんだのにして食うんだべな。
おらいの分は、ほんのちょこっとだげもらって、あどはわだしの採った分もほとんどばあちゃんにやったのさ。
同じ年頃の娘は隣近所にいっぱいいだんだげんちょも、宮のばあちゃんはいっつもわだしばっかり誘うのな。何でだがな~?


きっと、宮のおばあちゃんはお母さんのことがお気に入りだったんだよ。
貧乏だったお母さんに美味しいものをご馳走したいって気持ちもあったろうし、お母さんが採ったフキをたくさん貰えるって下心もあったのかもね。
それよりも、一番は一人で山に行きたくなかったってことじゃないの?
お母さんは、誘いを断ったことなかったでしょ!

おらいのばあちゃんは・・・

2019年02月06日 | お母さん
もうだいぶ前のごどだげんちょも、ばあちゃんのご詠歌仲間のばあちゃんとバスでいっしょになったごどがあったのな。             
ほうしたら、そのばあちゃん、
「あんだ(あなた)、あのばあちゃん(祖母のこと)の嫁さまなんだって?
 よお~ぐ、務めでっごど~」
って、言うんだよ。
このばあちゃん、なんでこんなごど言うんだべ? と思ったわい。
「おらいのばあちゃんは、そんな(嫁いびりをするような)人でないよ~
 いろんなごど教えでもらったし、嫁として大事にしてもらったよぉ」
みち子ちゃんに聞いだらな、
(みち子ちゃんというのは、近所に住む祖母のご詠歌仲間で、母の茶飲み友達)
ご詠歌やってる人は、年取った女の人だぢだべ。
ほんだがら、何か決め事すっとぎ、ワイワイガヤガヤ、自分の言うごどだけ言って、ちっとも決まんねんだって。
そんどぎ、おらいのばあちゃんがピシッと一括するんだと。
ばあちゃんは、間違ったごど言ってないがら、だあれも何にも言わんにんぐなっちまうんだと。
ほんだがら、みんなに一目置がれでだっていうのがな。
コワいばあちゃんだって、思わっちいだんだべなぁ。

おらいのばあちゃんは、頭のいい人だったよ。
弟や妹の子守りでろくに小学校にも行がんにがったげんちょも、自分で勉強してなあ。
字も書げるようになったし、ホラ、よお~ぐ寝床で小説読んでだべ。


そうだった。確かにおばあちゃんはどこか凛とした感じがある人だった。