2017年1月21日19時38分、父が永眠しました。
父は11月末に
末期の悪性リンパ腫と診断され、
緩和ケア病棟に入院、クリスマスとお正月には
外泊もできていたのだが、1月20日弟が面会に行くと看護師から医師の説明があるので時間を取ってほしいと依頼があった。
私たちは、翌日(1月21日)午後4時に医師と面会することにした。
これはもう、父の命の期限はあと2~3日であると私たちは判断した。
翌日、私は実家を訪問し、母と片付けをしていた。
というのも、この辺りでは遺体は一旦自宅へ帰るからだ。
座卓、座布団を出し、父を安置する布団などを準備していた。
そこへ、午前10時頃弟から連絡が入る。
病院から連絡があり、面会時間を早めてほしいというのだ。
父の病状の説明を受ける時は姉弟の二人で聞くことにしていたのだが、もしこのまま危篤ということになれば母を連れに誰かが戻らなければならないのだからそれでは時間のロスとなってしまうと判断し、仕事を切り上げ弟一人が病院へと向かうことにする。
果たして、医師の説明を受けた弟からの連絡は、父は肩で呼吸しており、血圧の低下がみられ、逢わせたい人がいるならいまの内にと告げられたという。
私は「ああ、今夜だ」そう覚悟した。
それから、父の妹の娘(私から見て従妹)、本家筋にあたる父の従兄(双子であった祖父の兄の息子)に連絡し、母と共に病院へ向かった。
午後2時半頃には到着したと思う。
父は眼と口をあけ、大きく呼吸を繰り返していた。
母がベッドの側へ行くと、父は横を向いて母の方ばかりを見ているように見えた。
駆けつけてきた従妹夫婦、本家の叔父夫婦は、父にがんばれと声をかけてくれたが、私はその言葉を言ってほしくはなかった。
父はもう十分にがんばったのだ。私は早く楽にしてあげたいと思っていた。
癌の痛みは、薬で完全に消えることはないと知った。
父は常に脇腹をさすっており、痛いのか?と聞くといつもこくんとうなずくのだった。
逢いに来てくれた親戚が帰ると、母と弟、私の3人が残った。
午後6時とりあえず、夕食を調達することにした。
私がスーパーに走る。買い物をしていると、弟から父の血圧が低下したと連絡が入る。
もう、父の最期の間に合わないか?と思うも、私はすべてがうまくいくとも感じていた。
父がうまく取り計らってくれるにちがいないと。
病室に戻ると、一時危篤状態になった父は容体を持ち直していた。
その後、家族に見守られ、父は息を引き取った。
葬儀が終わるまでは、なんとか葬儀を終わらせなければと気を張っていたのだけれど、一段落すると父とのいろいろな思い出が蘇ってくる。
今まで忘れていたほんの些細なことを思い出す。
これが悲しいという感情なのだろうか?
いや、なつかしいのだ。
もう二度と戻らないあの日々が、ひどくなつかしくて涙があふれるのだ。