チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
+昭和50年代~現在のお話も・・・

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はじめての方は「チエちゃん」のカテゴリからお読みいただくことを推奨しています。 もちろん、どこからお読みいただいてもかまいません。

第5話 少女まんが

2006年10月31日 | チエちゃん
 チエちゃんは、テレビと並んでマンガも大好きでした。
マンガ本を買い始めたのは、小学校3年生の頃でしょうか。おばあちゃんやお母さんにおこづかいをもらっては、毎週買っていました。

 きっかけは、少女フレンド連載中である うめずかずお先生の〝へび少女〟が読みたかったからです。"へび少女〟は、オカルト系で、他の作品より紙面が暗くて、とっても怖いお話でした。
 現実にはへび少女なんていないと分かっていても、夜ひとりでお便所に行くのがコワくて、コワくて・・・。それでも、怖いもの見たさで購読を止めることができませんでした。

 あの頃、少女マンガ雑誌は『週刊少女フレンド』と『週刊マーガレット』の2大誌が競っていました。チエちゃんは、その時その時でお気に入りのマンガが連載される度、交互に買い換えていました。
値段は、当時50円だったと記憶しています。

 チエちゃんのお気に入り漫画家は、里中満智子先生、もりたじゅん先生(たぶん、『りぼん』に書いていた)、庄司陽子先生などでした。
木村三四子先生の"奥様は18歳!〟も、テレビ化されたので憶えています。

 やがて、バレーボールスポ根マンガ〝アタックNo.1!〟が連載されると、チエちゃんは鮎川こずえちゃんに夢中になりました。(この作品は後にアニメ化された)
 そして、同じバレーボールスポ根もの〝サインはV!〟で、さらにバレーボール熱が上がってしまいました。朝岡ユミの稲妻おとしサーブや、混血児ジュン・サンダースとのコンビネーション・プレーX攻撃に、できるわけないよなあ~と思いながらもあこがれる毎日でした。(この作品もテレビで実写化された)

 これらの大ヒットの背景には、やはり、東京オリンピック女子バレーボール 東洋の魔女チーム活躍の影響が大きかったのかもしれません。

 チエちゃんと大親友のナオちゃんは放課後、学校の体育館でドッヂボールのボールを使い、バレーボールの練習をしました。稲妻おとしや回転レシーブにも挑戦しました。
そして、中学生になったら絶対バレーボール部に入部しようと、固い約束を交わしたのでした。

 それから、チエちゃんはある時期(中学生になる頃だったと思う)急に、少女マンガがつまらないものに思えてきました。好きだとか、嫌いだとか、愛してるなんてことがひどくバカバカしく思えて、少女マンガ誌を止め、少年マンガ誌を購読し始めたのです。これが、チエちゃんの少年マンガ史の幕開けです。
 そのお話は、またいつかの日か。 

第4話 さんま 苦いか、しょっぱいか!

2006年10月28日 | チエちゃん
 秋に獲れる刀のような魚と書いて、さんま。
現在さんまは、旬の時で1尾100円前後でしょうか?
出始めの時は、1尾300円~500円ぐらいすることもありますよね。
とんだ、高級魚の仲間入りです。

 あの頃、さんまはバケツ1杯(そして、い~っぱい)10円と言われた時代がありました。(これは、チエちゃんの記憶なので、正確なところは?)
もちろん、今の物価とはずいぶん違っています。
高卒程度の初任給が10,000円だった頃ですから、その15倍~20倍といったところでしょうか。とすれば、
バケツ1杯のさんまは、150円~200円ということになります。
1杯には、20尾前後のさんまが入っていました。

 その頃は、とにかく、さんまが豊漁で需要より供給の方が高く、売れないまま何トンも処分されたというニュースが流れたほどです。

 こんなことでしたから、チエちゃん家ではさんまを買ってくると、さんま、さんま、さんまの日が3~4日続きました。
 最初の日は塩焼きにして食べ、残りは生姜で臭みを消し、甘辛く煮付けにしました。なにしろ、冷蔵庫のない時代でした。

 チエちゃんは、初日の塩焼きはおいしくいただきます。そんなとき、みぃもご相伴にあずかったことは言うまでもありません。
でも、生姜煮の方は1度お箸をつければ、あとはもうご免でした。
家族中の皆が飽きてしまっても、最後までさんまを食べていたのはお母さんです。

 でも、お母さんは、特別にさんまが好物と言う事ではありません。食べ物が勿体ないからです。子供の頃、戦争で思うように食べる事ができなかった経験がそうさせるのです。
 そして、それは嫁であるお母さんの務めでもありました。

 さあ~て、今夜はさんまでも焼こうかなあ~。



第3話 代々の名は〝みぃ〟

2006年10月25日 | チエちゃん
 私のネコ好きは、チエちゃんが物心ついた時、すでにネコを飼っていたことが大きな要因であるように思います。

  ネコの名まえは〝みぃ〟。そのネコが死んで、新しくもらわれて来た子ネコの名まえも〝みぃ〟。チエちゃん家のネコの名は代々〝みぃ〟でした。

 初代みぃは、長命なネコでした。チエちゃんが、小学校高学年になるまで生きました。トシ子おばさん(お父さんの妹)が、お嫁に行く前に撮ったという写真に、おばさんに抱かれたみぃが写っているのですから、チエちゃんが生まれる前から飼われていたことになります。

 彼女は、お腹の辺りが所々白いブチのトラ猫でした。代表的な雑種の日本猫です。
 
 みぃには、家畜と同じく、重大な役目がありました。

それは、ネズミを捕ること。
 ネズミは、納屋に貯蔵してあるお米やいも類、その他の野菜、母屋の神棚のお供え、押入れの布団や衣類など何でもかんでも、かじってしまうのです。

 あの頃、愛玩という目的だけで動物を飼っている家庭は、ほとんどなかったのではないでしょうか。
犬? 犬にも番犬という大切な任務がありました。
チエちゃん家では、犬を飼っていませんでしたから、泥棒よりネズミの被害の方が深刻だったのです。

 後年、チエちゃんのお母さんが、こんな事を言いました。

ネコが家にいるといねじゃ、ネズミの出方が違うんだ

 みぃとチエちゃんは、大の仲良しでした。
毎夜いっしょの布団で眠り、食事の時はチエちゃんのおかずを分けてもらい、チエちゃんの膝の上でいっしょにテレビを見ました。
みぃが眠ったふりをしながら、しっぽの先でチエちゃんを遊ばせることもあれば、チエちゃんがねこじゃらし(エノコログサのこと)でみぃをからかうこともありました。

 みぃは、気高く、美しく、利口なネコでした。
そして、雄ネコたちにもモテモテでした。どんな風にモテたのかって?
 そのお話は、またいつの日か!  

第2話 羊毛100%

2006年10月22日 | チエちゃん
 チエちゃんの家では、幾種類かの家畜を飼っていました。
羊は、そのひとつ。羊毛を刈り取って、それを売り 現金収入を得ていたのでしょう。しかし、全部を売ってしまうわけではなく、羊毛を毛糸に加工してもらい、家族全員のセーターにしていました。ご近所で、編み機を持っている人にお願いして編んでもらうのです。

渋い きみどり色のVネックセーターは、お母さんによく似合っていた。
同じ毛糸で編んだ 弟の幼児服の上下。
お父さんのセーターは、大きくて茶色の丸首。

このように、自給自足が普通の時代でした。

チエちゃんのお気に入りは、ピンクのカーディガン。
胸元に バリオン・ローズ・ステッチの可愛いバラの刺繍がありました。
チエちゃんは、このカーディガンを着て、小学校に入学しました。


 そして、もうひとつの羊毛100%セーターの物語。

 チエちゃんが、結婚し、赤ちゃんを産んで里帰りをした時のこと。

 これはない おまえが赤ちゃんの時に着たものなんだ

そう言って、おばあちゃんになったチエちゃんのお母さんは、茶箱の中から1枚のすかし模様入り 丸ヨーク襟のベビーカーディガンを出してくれました。
 チエちゃんはうれしさと共に、お母さんとちょっぴり羊さんにも感謝して、生まれたばかりの自分の赤ちゃんにその可愛らしいベビーカーディガンを着せたのでした。

チエちゃんは この時 本物の価値を知りました。20数年間変わらないもの。

 そして、半世紀近くを経てなお、そのベビーカーディガンは 型崩れすることも、毛玉ができることもなく、私の家の茶箱の中で チエちゃんの孫が着てくれる日を静かに待っています。

そういえば、そろそろ防虫剤を新しいものに換えなくっちゃ!
最近の防虫剤は、無臭だなあ。樟脳の匂いって嫌いじゃないのになあ~。
 そのお話は、またいつの日か。

(画像は実物のカーディガン 2015.12.26に追加しました)


第1話 テレビが来た!

2006年10月21日 | チエちゃん
 今はどこの家庭にもテレビがあるのはあたり前です。一家に1台どころじゃなく、1人に1台。おまけに、薄型、大画面、画質も性能もすばらしい。
クルマの中でも、ケイタイでも、いつでもどこでも見ることが出来る。
なんてすごい時代なんでしょう。

 日本の庶民にテレビが普及したのは、昭和39年(1964)東京オリンピックが開催された年でした。
それまで、高価なテレビは裕福な家庭の持ち物。でも、その頃 高度成長で家計にゆとりが出来た庶民にも、ちょっと無理をすればテレビが買える時代。そして何より、誰もが世紀の祭典「東京オリンピック」を我が家のテレビで見たかったのです。

 ご多聞にもれず、チエちゃん家にテレビがやって来たのも、この時でした。

 それは、確かに秋のことです。夕陽に照らされたチエちゃんの影が長かったことを覚えているからです。
その日、チエちゃんには学校の時間がひどく長く感じられました。学校が終わると、走って家に帰りました。そう、電気屋さんがテレビを持ってくる日だから。
 電気屋さんもあっちこっち、引っ張りだこでかなり忙しかったのでしょう。やっと、来た時にはもう夕方でした。

 そのテレビは、外見だけはちょっとした家具のように大きいのですが、画面は たぶん14型か16型の白黒。当時はカラーテレビなんてなかった。スイッチは、ツマミを回して電源を入れる、チャンネルもガチャ、ガチャ、ガチャと回すものでした。チエちゃんにとって、それはとても大きくて、ピカピカに輝く魔法の宝箱のように思えました。

 やがて、準備は完了。電気屋さんがスイッチをひねると、画面に映ったものは斜めのシマシマ模様。あれ~!
(このシマシマ、昔はたびたびあった。電波の状態が悪かったのだろうか? 最近は全然見かけない) 
でも、何やら電気屋さんがテレビの後ろ側を操作すれば、最初に映った映像は、『エイトマン』のエンディング。
♪光る海、光る大空、光る大地♪
最近 NTTフレッツ光のCMで、SMAPが歌っていた曲の元歌です。
あの時の感激は、今もハッキリと記憶しているチエちゃんなのです。

 ♪走れ!エイトマン。タマよりも速く♪のところで、昭和39年10月1日に開通したばかりの(おそらく)新幹線ひかり号を追い越して走っていくエイトマンは、すごくカッコよかった。チエちゃんはマンガ(アニメという言葉が使われるのはずーっと後のこと)のトリコになりました。

 エイトマン



 それ以来、テレビは、チエちゃん家の茶の間の隅っこではあるけれど、確実な存在感を持って鎮座したのでした。

 お父さんは 時代劇、西部劇のファン、おじいちゃんとおばあちゃんは 相撲、プロレス、野球(なぜかスポーツばかり)、お母さんは ? これらを大人たちと一緒に見ていたチエちゃんは、正真正銘の元祖テレビっ子です。

 そしてもちろん、東京オリンピックのスターたち、体操 ベラ・チャフラフスカ選手、マラソン 裸足のアベベ選手、女子バレーボール 東洋の魔女日本チームをめでたく観戦しました。

 チエちゃんのテレビにまつわるお話は、一晩かかっても語りつくせないのだけれど・・・・。
 そのお話は、またいつの日か。



はじめまして チエちゃんです!

2006年10月20日 | チエの玉手箱
 これは、チエちゃんこと 私が少女だった頃の昭和30年代後半から昭和40年代のお話です。

 ずっと、自分史というか 子供の頃の思い出を書いてみたいなあと思っていたのですが、その機会もなく 日々を過ごしていました。
時代の流れで、我が家にもパソコンがやってきました。
今は、いいものがあるんですね。

blog。

私の想いを満たしてくれるのは、これじゃないのかしら?と始めてみることにしました。
まだまだ、パソコンもブログも初心者です。
よろしくお願いします。

 それでは、第1話をお楽しみに!