チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
+昭和50年代~現在のお話も・・・

ようこそ! チエちゃんの昭和めもりーずへ

はじめての方は「チエちゃん」のカテゴリからお読みいただくことを推奨しています。 もちろん、どこからお読みいただいてもかまいません。

第35話 チエちゃんの机

2007年01月29日 | チエちゃん
 チエちゃんは小学校に入学する時、お父さんに勉強机を買ってもらいました。
その机は現在の学習机のように本棚、蛍光灯付きの立派なものではありません。
大きな引き出しが一つと右側に3段の小引き出しが付いたお座りをして使う、文机でした。
買ってもらった時はうれしくて、その上におばあちゃんに買ってもらったランドセルを置き、入学の日を楽しみに待っていたものです。

 ところが、小学校に入学してから高校を卒業するまで、机に向かって勉強をしたのは、年に数回程度です。勉強は、いつも茶の間のテーブルか、冬はコタツ、ひどい時は座敷に寝そべってやっていました。まあ、そんなものでしょうか。

 チエちゃんの机は、冬場は裏の部屋と呼ばれている北側の部屋に置かれていたので、普段は暖房もなく、寒くて勉強どころではないという理由もありました。

 それでも、その机はやはりチエちゃんの砦でした。
机の上には、昔お父さんが使っていた本棚を置き、教科書、ノート類を入れていました。それから、誰かにもらった電気スタンド。(この時代は物を大切に使う、壊れたら修理して使う、そういう時代でした。)
一番上の小引き出しには鉛筆や色鉛筆、定規などの文房具、真中の引き出しにはお祭りで買ったガラス玉のネックレスやブローチ、マンガ本の付録、きれいな模様の小箱の中にはお年玉の残りの千円札、一番下の引き出しには可愛い模様の便箋、封筒、ノートなどが入っていました。
 暮にきれいにしたはずの机の上には、もう、宿題のプリントやドリル、週刊マーガレット、学研の学習がところ狭しと乗っています。

 この次、机がきれいになるのはいつのことでしょう。
4月になって、真新しい教科書が届いた時でしょうか。

 弟たかひろ君の机はイスを使う学習机でしたが、これは賢二兄ちゃんのお古でした。チエちゃんの机は文机でも新品を買ってもらったわけですから、長子、初孫の特権だったのかもしれませんね。


    

第34話 夕陽のガンマン

2007年01月26日 | チエちゃん
 チエちゃんのお父さんは、西部劇と時代劇のファンでした。
日曜洋画劇場が放送されるようになると、毎週、チエちゃんも一緒に観ていたものです。
 日曜洋画劇場といえば、「サイナラ、サイナラ、サイナラ」のおじさん淀川長治さんが、長い間、解説を続けていた番組でしたね。

 その頃、放送されていた西部劇は「マカロニ・ウェスタン」と呼ばれるイタリア製西部劇です。
 中でも、チエちゃんの印象に残っているのは、『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』の3部作。主演はいずれもクリント・イーストウッド。
荒野の用心棒(1964) - goo 映画
夕陽のガンマン(1966) - goo 映画
続・夕陽のガンマン 地獄の決斗(1967) - goo 映画
『荒野の用心棒』は、日本が誇る黒澤 明監督の『用心棒』をパクッた作品といわれていますが、面白いものはおもしろい。
(チエちゃんのお父さんは、もちろん黒澤監督の『用心棒』『七人の侍』のファンでありました。)用心棒 - goo 映画 七人の侍(1954) - goo 映画
ひげ面にカウボーイハット、ポンチョ姿にくわえタバコがガンマンのトレードマークでした。

 『バック・トゥ・ザ・フューチャー3』で、マーティとビフ・タネンが決闘するシーン、ポンチョの下に鉄板を付けて弾除けにするのは『荒野の用心棒』イーストウッドのパロディあることは、皆さまご存知ですね。
バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3(1990) - goo 映画

 この後、『ダーティー・ハリー』シリーズで、チエちゃんはすっかりクリント・イーストウッドのファンになりました。
イーストウッドの日本語版の吹き替えをやっていたのは、ルパン三世の声優さん 山田康雄さんです。イーストウッドの声とは全然似ていないのに、特徴のある話し方がお気に入りでした。

 また、イーストウッドは『夕陽のガンマン』以前にテレビの人気シリーズ『ローハイド』にも出演していました。この作品もチエちゃん家では、忘れられない作品となっています。

お知らせ4

2007年01月24日 | おしらせ
「チエちゃんの昭和めもりーず」は
チエちゃんこと、私が少女だった頃の
昭和30年代後半から昭和40年代のお話です。

皆様のおかげで、最近アクセス数が増えています。
ありがとうございます。

このブログに来てくださった方、せっかくですから、
コメントを残していただければ、幸いです。

 さて、本日1月24日(水)
Bヲタさんのブログ「昭和ダイアリー」に
「チエちゃんの昭和めもりーず 番外編 チエちゃんの青春」
第3回目  がUPになりました。
こちらも、よろしくお願いします。



※ 当サイト内に同タイトルの記事を再掲しました。

第33話 ひょっこりひょうたん島

2007年01月23日 | チエちゃん
 チエちゃん家では、夏と冬で夕飯の時間がだいぶ違っていました。
それはチエちゃん家が兼業ながらも、農家であったからです。
夏場は、陽が暮れるまで農作業をするために夕飯は7時半~8時半という時間でした。
逆に、冬場は早く暗くなるので6時、早い時には5時半にはもう夕食を食べていました。

 そんな冬の一家団欒、食事時に見ていたテレビは「ひょっこりひょうたん島」です。

  波をジャブジャブジャブジャブかきわけて
  (ジャブ ジャブ ジャブ)
  雲をスイスイスイスイおいぬいて
  (スイ スイ スイ)
  ひょうたん島は どこへ行く
  僕らをのせて どこへ行く

    丸い地球の 水平線に
    何かがきっと 待っている
    苦しいことも あるだろさ
    悲しいことも あるだろさ
    だけど 僕らは くじけない
    泣くのはいやだ 笑っちゃおう
    すすめ  ひょっこりひょうたん島
    ひょっこりひょうたん島
    ひょっこりひょうたん島

 NHKの夕方5時45分から放映されていた子ども達に大人気の連続人形劇です。
笑いあり、涙ありのドタバタコメディですが、昭和のテレビ番組を語る上で、なくてはならないものでしょう。
現在でも、CMに登場しているので見たことがある人は多いと思います。

 チエちゃんも小学生の頃、欠かさず見ていたものです。

 めがねの天才少年 博士を中心とした子ども達、金髪のサンデー先生、片目の海賊トラひげ、シルクハットのドン・ガバチョはいつも「みなさあ~ん」と叫んでいましたね。
チエちゃんのお気に入りは、ダンディさん。ギャングの彼は、黒いスーツに、黒いネクタイ、黒い帽子に、黒いサングラス、クールでカッコよかった。いつも口笛を吹いていたような・・・

 あの頃は、大人も子どもも、一家揃って同じテレビを見ていました。
「ウルトラマン」も、「巨人の星」も、「ジャイアント馬場」も、「水戸黄門」も。

第32話 ベンチャーズ

2007年01月20日 | チエちゃん
 おばあちゃんが凍み豆腐作りのお手伝いをしている頃、チエちゃんはどうしていたのでしょう。

 にしゃばあちゃんには3人の孫がいました。
長男の賢一兄ちゃんは、すでに社会人でしたが、二男 賢二兄ちゃんと、三男 賢三兄ちゃんは年子の中学生でした。この兄弟は女の子の兄妹がいなかったせいか、チエちゃんを妹のように可愛がってくれたものでした。

 やんちゃな賢三兄ちゃんは、チエちゃんにチャンバラごっこを教えました。
優しい賢二兄ちゃんは、チエちゃんのおままごとの相手をしてくれました。
だから、チエちゃんはどちらかというと賢二兄ちゃんが好きでした。

 ある時、賢二兄ちゃんがチエちゃんを呼びました。
奥の座敷に行ってみると、そこにはレコードプレーヤーがありました。

賢二兄ちゃんが掛けてくれた曲は、三橋美智也の「星屑の街」です。
チエちゃんが初めてレコードで聴いた曲です。

 それ以来、チエちゃんはにしゃばあちゃん家に行くと、賢二兄ちゃんがいる時はレコードを聴かせてくれとお願いしたものです。

三橋美智也「古城」、舟木一夫「高校三年生」、橋 幸夫&吉永小百合「いつでも夢を」、北原謙二「若いふたり」などのレコードに混じって、横文字のレコードがありました。

 それは、エレキギターをメインに演奏するバンドの歌のない曲。
それが「ベンチャーズ」の「ダイヤモンド・ヘッド」と「パイプライン」でした。
一度聴いたら忘れられないメロディ。幼いチエちゃんの心をもトリコにした曲。
現在、聴いても新鮮さを失わない、素晴らしいメロディ。

 中学生になるまでビートルズは知らなかったけど、ベンチャーズは知っていたチエちゃんなのでした。

第31話 凍み豆腐

2007年01月17日 | チエちゃん
 おばあちゃんの生家、つまり、にしゃばあちゃん家の家業は豆腐屋さんでした。おばあちゃんの弟、賢次郎おじさんと奥さんのトクおばさんが豆腐を作っていました。

 寒のこの時期、この地方では凍み豆腐(しみどうふ)を作ったものでした。

 凍み豆腐は高野豆腐を薄くしたものと思ってください。

凍み豆腐の作り方です。(解りやすいイラストが付いていたので「農家の嫁の事件簿」さんをリンクさせて頂きました)

凍み豆腐専用に固めの豆腐を作り、よく水を切ります。
7~8㎜の厚さに薄く切って、平たい籠などに並べ、一晩戸外に出して凍らせます。
凍った豆腐をわらで編んでつるし、天日干しにします。凍る、乾燥する、凍る、乾燥するを繰り返して凍み豆腐が完成します。
天然のフリーズドライ製法で作った保存食です。
最近の工場では、冷凍庫で凍らせ、乾燥機で乾燥させるそうです。
味はもちろん、天日干しの方が美味しいに決まっています。

 おばあちゃんは、豆腐をわらで編む作業を手伝っていたのです。
チエちゃんは豆腐を崩してしまうので、見ているだけでした。商売物の凍み豆腐だったからです。

 凍み豆腐の食べ方は、水に浸して戻し、軽く水を絞って、煮しめ、味噌汁などに使います。凍み豆腐のスポンジ状になった所へ煮汁が浸み込んで、なまの豆腐とは異なった独特の味わい、風味があります。

 チエちゃん家では、お雑煮に必ず入れる材料のひとつでした。
チエちゃんは、子どもの頃はこの凍み豆腐はボソボソして嫌いでしたが、大人になってから懐かしい味がして好きになりました。大人の味です。



第30話 電 話

2007年01月14日 | チエちゃん
チエちゃん家に電話機が入ったのはいつのことだったかしらん?
ちゃんとした記憶がないのですが、たぶん、チエちゃんが小学1年生か2年生の頃だったと思います。

 その電話は有線放送電話といって、加入している村内の家とだけ繋がっていました。電電公社の電話とは異なり、全国何処へでも掛けられるものではありませんでした。村が補助金を出し、農協が運営するという形だったと思います。
 それでも、大人たちは便利になったと喜んだものでした。有線放送電話は略して「有線放送」と呼んでいました。毎日、朝・昼・晩の3回、キーステーションの農協からお知らせの放送があったからです。村役場からのお知らせや各種団体からのお知らせ、交通安全のお知らせ、農協からの出荷市場状況などのお知らせがありました。

 村の外へ電話を掛けるときはどうしていたのでしょう?
 チエちゃん家の部落のほぼ真中にあるバス停の前に、一軒の紳士服仕立業を営むテーラーがありました。部落の人たちは屋号では呼ばずに『仕立て屋さん』と呼んでいました。この家に本電話(電電公社の電話のことをこう呼んでいた)があったのです。商売柄、電話が必要だったのでしょう。部落の人たちはここの電話を借りていました。

 おばあちゃんは年に2~3回、ヨシヒサ伯父さんや仙台にいるおばあちゃんの姉妹に電話を掛けに仕立て屋さんに行きました。こんな時は必ずチエちゃんも一緒についていったものです。
 黒い電話機には、プッシュボタンもダイヤルも付いていません。電話機の脇にハンドルが付いていました。それをグルグルと回して、交換手さんにつなげます。交換手さんはこちらの番号と相手の番号を聞いて、回線をつないでくれます。そうしてようやく相手が電話に出てくるのでした。

 ヨシヒサ伯父さんには、「お歳暮が届いたよありがとう、みんな元気にしているか、こちらからは米を送ったよ」と話しています。
 仙台の姉妹には「元気にしているか、こちらもつつがない、春になったらそちらに行ってみようと思っている」と話しています。
 その間、チエちゃんはおばさんからいただいたお菓子を食べながら待っていたものでした。
 電話が終わると、交換手さんから電話がかかってきます。仕立て屋さんのおばさんが出て、料金を聞きます。そうして、おばあちゃんは料金を支払い、仕立て屋さんのおばさんと世間話をしたあと、ようやく家に帰ります。この仕立て屋さんの電話は公衆電話の役目をしていたのです。
 その後、チエちゃん家にも本電話が入ったのは、チエちゃんが中学生か高校生になった頃の昭和45年前後のことだったような気がします。

第29話 おばあちゃん

2007年01月11日 | チエちゃん
 チエちゃんは俗に言う、三文安のおばあちゃん子です。
 
 チエちゃんの名まえもおばあちゃんが付けてくれました。幾千もの幸せに恵まれますようにという願いが込められています。

 弟の世話や農作業で忙しいお母さんに代わって、チエちゃんを可愛がってくれたおばあちゃんです。

 おばあちゃんは大正生まれで、明治生まれのおじいちゃんと21歳も年の差がありました。
というのも、おばあちゃんはお父さんの本当のお母さんではありませんでした。おじいちゃんが、お父さんの本当のお母さんと離婚した後、後妻さんになったのです。あの頃、チエちゃんはすでにこのことを知っていましたが、これがどういうことなのかを本当の意味で理解するのは大人になってからのことでした。

 おばあちゃんは子宮筋腫という病気で手術をし、実子を産むことはありませんでした。

 おばあちゃんは小学校を卒業すると、温泉旅館に女中奉公に出ました。貧しい家計を助けるためです。そのために婚期が遅れ、21歳も年の離れたおじいちゃんと結婚する事になったのです。
おじいちゃんにしてみれば、50歳近い、幼い子を抱えたやもめ男に来てくれるだけでも有難かったというのが本音ではないでしょうか。
 一家は浅草で食堂を営んでいましたが、大東亜戦争が始まり、空襲がひどくならないうちに親戚を頼り、おじいちゃんとおばあちゃんの故郷の村に疎開してきたのでした。

 ヨシヒサ伯父さんは長男でしたが、おばあちゃんと折り合いが悪く、ひとり東京に戻って行きました。残った次男のチエちゃんのお父さんが、家を継ぐことになりました。

 おばあちゃんはチエちゃん家で唯一の煙草飲みです。これは、若い頃に覚えたことでしょう。おばあちゃんはどこか粋なところがある人でした。

 チエちゃんは、おばあちゃんからいろいろなことを教わりました。
ひもの結び方、マッチの擦り方、りんごの皮の剥き方、野菜の切り方、お米の研ぎ方、お茶の入れ方、お風呂の焚き方、掃除のやり方、洗濯のやり方、お裁縫のこと、お正月・節分・節句・七夕・お月見・冬至などの年中行事、禁忌とされること、他にもたくさん、たくさん、・・・・・

 チエちゃんが盲腸になったとき、付きっ切りで看病してくれたのはおばあちゃん。
小学校に入学するとき、ランドセルを買ってくれたのもおばあちゃん。
お母さんに代わって授業参観に来てくれたおばあちゃん。
運動会で1等賞を取ったチエちゃんを誉めてくれたおばあちゃん。
昔話をしてくれたおばあちゃん。
風邪をひいたとき、桃の缶詰を開けてくれたおばあちゃん。
一緒に山菜を取りに行ったおばあちゃん。

チエちゃんは、おばあちゃんの自慢の孫でした。

おばあちゃんは、チエちゃんにとって日本一、いいえ、世界一のおばあちゃんでした。

   

お知らせ3

2007年01月10日 | おしらせ
私は現在、

Bヲタさんのブログ「昭和ダイアリー」にゲストライターとして、

隔週水曜日4回シリーズで投稿させていただいております。

前回は、たくさんのコメントをお寄せいただき、ありがとうございました。


 本日、1月10日(水)

「チエちゃんの昭和めもりーず 番外編 チエちゃんの青春」

第2回目が  されました。       チ エ




※ 当サイト内に同タイトルの記事を再掲しました。

第28話 七草粥

2007年01月08日 | チエちゃん
 1月7日は七草です。

 せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ

七草は、無病息災を祈って7種類の野菜を入れた粥を食する行事で、お正月のおせち料理で疲れた胃を休め、冬に不足しがちなビタミンを補う目的もあったと言われています。

 チエちゃん家でも、7日にはお母さんが七草粥を作ってくれたものです。

 暮の比較的暖かい日に、チエちゃんはせり摘みに行くおばあちゃんについて行き、七草の由来や7種類の名前を教わりました。
幼い時に教わったことというのは大人になってからも忘れないものですね。

 あの頃は、現在のように農薬をたくさん使ってはいないし、生活排水も自然に還る物ばかりでしたので、田んぼや堀はきれいでした。
そこに自然に生えているせりを摘んで、食用にしました。
せりは、七草粥に用いるばかりではなく、この地方のお雑煮には欠かせない材料でした。
冬のせりは、背丈が短く、茶色をしています。一見すると、枯れているようにも見えます。
汁に入れると鮮やかなグリーンに変わり、せり特有の強い香りがします。

すずな(かぶ)、すずしろ(大根)以外はそこら辺に生えている雑草ですが、冬のこの季節には手に入ったものかどうか。
お母さんは「何でも、7種類の青物が入っていればいいんだ」と言っていましたから、別の青菜を入れて粥を炊いていたのでしょう。

 ただ、チエちゃんにはどうにも我慢できないことがありました。
チエちゃん家の七草粥には、どういうわけか大きなお餅が入っていたのです。
お正月にいっぱい食べたあとなのに、なんでまたお餅を入れるのかなあ。
いつも、「チエの分には、お餅入れないでね~」と注文をつけたものでした。