チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
+昭和50年代~現在のお話も・・・

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はじめての方は「チエちゃん」のカテゴリからお読みいただくことを推奨しています。 もちろん、どこからお読みいただいてもかまいません。

第54話 かぶれ菜

2007年03月30日 | チエちゃん
 チエちゃんにとって、春を感じる野菜、
それが、かぶれ菜です。

 かぶれ菜は、この地方では欠かせない春の青菜です。
西洋アブラナの仲間で、「茎立(くきたち)」とも呼ばれています。

 食べ方は、何といっても、塩茹でのおひたしです。
そのまま醤油をかけて食べるもよし、削り節や刻みのりをトッピングするもよし、また、葉わさびの醤油漬とのコラボも最高です。

 新鮮なかぶれ菜は取れたて野菜の甘味が溢れています。

毎食卓に、そして、お茶うけに、どんぶりに1杯をぺろりと平らげるチエちゃんでした。

 このかぶれ菜のおひたしを食べる時、まさに〝自然のめぐみ〟を感じるチエちゃんです。

 農家であったチエちゃんの家では、野菜は季節ごとに一時期に取れるので、さやえんどうが取れれば、食卓は毎回さやえんどう、ナスが取れれば、毎回ナス、キャベツが取れれば、毎回という具合で、飽き飽きしていたものですが、不思議と、このかぶれ菜だけは毎回食べても飽きることのない野菜でした。

 おひたしの他、キノコ、ベーコン、油揚げと炒めても美味しく食べられます。
味噌汁の具にも味が出ます。

第53話 ナオちゃん

2007年03月27日 | チエちゃん
 チエちゃんは春休みにナオちゃんの家に遊びに行く約束をしていました。
学校の家庭科の時間に習ったスパゲティ・ミートソースを2人で作って食べようという計画です。学校で待ち合わせをして、スパゲティとひき肉を買い、バスに乗って、ナオちゃんの家に行きました。

 ナオちゃんの家は、チエちゃん家から遠い隣の小学校の学区内にあります。どうしてナオちゃんはチエちゃんと同じ小学校に通っていたのか、はっきりしませんが、おそらく両親が共働きだったせいでしょう。
ナオちゃんは、学校が終わった後、ベレGのお兄さん家の床屋さんとは反対隣の従兄弟の家に帰っていたようです。

 ナオちゃんの家は、小屋と言ってもいいような小さなお家でした。
6畳2間に台所、お風呂という間取りに、両親とお姉さん2人、お兄さん1人の一家6人で住んでいたのでした。この狭い部屋に一家6人どうやって寝ているんだろうと、いくら考えても想像できないチエちゃんでした。おまけに応接ソファまで置いてあるのです。チエちゃん家にはソファなんてなかったから、ここに掛けておしゃべりをするのが大好きでした。

 チエちゃんは、何度もナオちゃん家に遊びに行ったけど、ナオちゃんがチエちゃん家に遊びに来たのは、2回だけでした。両親が共働きで、大人が誰もいないお家が自由に遊ぶことができたからではないかと今になって思い当たります。

 2人はさっそく、ミートソース作りに取り掛かりました。ナオちゃんがたまねぎの皮をむいて、半分に切り、横方向に細かく切り込みを入れています。それから、切り目と直角に細かく切っていきます。

 ほら、こうすっと簡単にみじん切りができんだ

へえー、すごい!ナオちゃんどうして知ってんの?
それにずいぶん馴れた手つきです。ああ、ナオちゃんはいつもお手伝いをしてるんだ。いつも、おばあちゃんに世話をしてもらっているチエちゃんとは違い、自分で何でもやるナオちゃんです。
 にんじんもみじん切りにして、ひき肉と炒め、トマトケチャップを入れて煮込めばミートソースの完成です。スパゲッティをゆで、ミートソースをかけて、いただきまーす。自分たちで作ったお料理の味は格別です。

 おいしいね    うん、おいしいね

 チエちゃんとナオちゃんはいつ頃、お友達になったのでしょうか?
小学校1年生のときからずーっと同じクラスでしたが、1・2年生の時はそんなにお友達ではありませんでした。
全然違う性格なのになぜか気が合って、いつの間にかお友達、それも大が付く親友になっていたのでした。
 ナオちゃんは、ショートカットで、ボーイッシュな感じです。
中学生になって一緒に始めたバレーボールも、チエちゃんは1年で辞めてしまった根性無しですが、ナオちゃんは中学・高校とずっと続けていました。
 そして、2人共通の趣味が手芸です。よく2人で、編み物をしたり、ぬいぐるみを作ったりしたものです。


   

第52話 謝恩会

2007年03月24日 | チエちゃん
 3月23日の卒業式に先駆けて、チエちゃんの通う小学校では20日に謝恩会が開催されました。6年間お世話になった先生方へ感謝の気持ちを表す会です。

 2月の終わり頃に学級会でグループの編成をしました。
気の合う人同士で、7~8人のグループを作り出し物を考えます。
チエちゃんと大親友のナオちゃんが、どこのグループに入ろうかと迷っているうちにグループはまとまってしまい、4人が取り残されてしまいました。

 この4人でグループを作るしかありません。
チエちゃんとナオちゃん、中山学級のタミ子ちゃんとよし子ちゃんです。
中山学級とは、普通の学級ではお勉強についていけない子が入っているクラスです。普段は中山学級で学習している2人ですが、運動会とか、学芸会などの時にはチエちゃんのクラスで活動することになっています。

 どうしよう! でも、今さら他のグループの人と替わってとは言えません。
それにたったの4人です。それに正直な所、うち2人は当てになりません。何ができるんだろうか?4人は集まって相談しました。

 そうだ!他の人たちも巻き込んじゃえばいいんだ!
仮装コンテストをやることにしました。(当時のテレビ番組を参考にしたように思います)

 早速材料を持ち寄り、放課後の裁縫室(広い畳の部屋があった)で、コソコソと隠れて準備を始めました。
色画用紙や毛糸を使い、かつら、めがね、付け髭、洋服、バック、ステッキなどを作りました。あんまり遅い時間まで残っていたので、見回りの週番の先生に叱られながらも何とか完成させました。

 いよいよ、謝恩会当日。先生方を体育館にお招きしました。
他のグループは、先生のものまねをして寸劇をしたり、鍵盤ハーモニカの演奏をしたり、歌を歌ったり、国語の教科書を朗読したりしています。

 チエちゃんたちの出番になりました。

 私たちは 仮装コンテストをやります やってみたい人は舞台に上がってください

みんなはシーンとしています。

 ここにある かつらや洋服を使って 変装してください

すると、はじめにみつお君が「おれ、やってみっぺ」と上がってくれました。
続いて、ひょうきんさでは負けず劣らずの加藤ちゃんも上がってくれました。
さらに、女の子もひとり。3人で制限時間2分の変装開始。

 みつお君は魔法使いのおばあさん、変なめがねを掛けています。加藤ちゃんはひげとシルクハット、ステッキを持ったチャップリン、女の子は黄色の毛糸のかつらをつけたお姫様に変身しました。みんな、画用紙の洋服が曲がっています。
先生方に審査していただいた結果、加藤ちゃんが1位になりました。

最後に 「あ」「り」「が」「と」「う」「!」 のカードを出して、チエちゃんたちの出し物は「お」「し」「ま」「い」「!」




第51話 彼岸花

2007年03月21日 | チエちゃん

「暑さ、寒さも、彼岸まで」とは、よく言ったものです。
夏の暑さも秋彼岸まで、冬の寒さも春彼岸までにはおさまり、続かないということです。
この東北地方南部にも、やっと春がやって来ます。

 3月21日春分の日は、お彼岸の中日です。
この日、チエちゃんとたかひろ君は、おじいちゃんに連れられ、墓参りに行ったものでした。

 墓参りに持っていく物は、お線香とマッチ、お線香に火をつけるための新聞紙、そして、彼岸花です。春とはいってもまだまだ寒いこの地方では、春のお彼岸にお供えする生花がなかったので、昔の人は削った木片に赤や黄色、紫の色を染めて、竹に刺して造花を作り、それをお供えしたのです。
 おばあちゃんやお母さんと墓参りに来る時は、この他に重箱に詰めたお供え用のぼたもちと、やかんに入れたお茶も持ってきますが、おじいちゃんは面倒なのか持って行くことはありません。
 チエちゃん家はおじいちゃんが初代ですからから、まだお墓がありませんでした。お参りする所となると、おじいちゃんの生家である本家のお墓、おばあちゃんの生家のお墓、お母さんのお父さんとお母さん(つまり、母方の祖父母)のお墓、おじいちゃんの姉妹の嫁ぎ先の先祖のお墓などということになります。
 これだけでも相当な時間がかかるというのに、おじいちゃんときたら、「このお墓は近所のだれそれの墓、あっちは他所ののだれそれの墓」という具合にちょっとでも知り合いのお墓というお墓にお参りをするので、軽く半日はかかってしまうのです。
始めのうちは一緒について行くチエちゃんたちですが、途中で飽きてしまい、

 もう、足が痛ぐなったよ~ じいちゃんだげ行って~

お寺の本堂に腰かけて、おじいちゃんを待つチエちゃんとたかひろ君でした。
 こういう訳で、おばあちゃんは絶対におじいちゃんと一緒に墓参りには行かないのでした。

第50話 春祭り

2007年03月18日 | チエちゃん
 今日は熊ん様(くまんさま)のお祭りです。
チエちゃんの家では、朝からお赤飯と煮物が出ました。
には、鎮守の熊野神社があったのです。

 熊ん様は、の中心にある仕立て屋さんから、やや下[しも](村の中心街に向かう方向のこと ちなみに、にしゃばあちゃん家遠藤商店はチエちゃん家よりも上にあった)に位置しており、鳥居がある参道広場は村道に面していました。

 その広場に、露店が並ぶのです。春は、秋祭りと比べてお店が少ないけれど、綿あめ屋さんぐらいは出ているはずです。
お母さんからお小遣いを貰ったチエちゃんと弟たかひろ君は連れ立って、熊ん様にやって来ました。
大きなのぼりがお祭りであることの印です。それは、昨日氏子の人たちが立てたものです。出稼ぎから帰ってきたお父さんも手伝いました。

 まず、チエちゃんたちは一つだけ出ていた露店をのぞいてみました。
セルロイドのお面だの、おもちゃのピストル、刀、ガラス玉のネックレス、ビーズセット、いかにも当りそうなくじなどを売っています。

 いつもは、お店を巡っただけで、お参りもせずに帰ってくるチエちゃんでしたが、今年は何十年に一度の遷宮の年とかで、獅子舞が奉納されることが決まっていたので、笛や鐘の音が聞こえる境内へ行ってみることにしました。

 神殿と境内へは、数十段もの階段を登っていきます。息を切らして、登りつめると、そこには大勢の人が集まっていました。従姉妹の由美ちゃん・洋子ちゃん姉妹の姿もありました。もうすぐ獅子舞が始まるらしいのです。

 神楽殿の方には獅子舞をする人たちの姿が見えました。中学生のお兄さんたちです。顔を白粉で塗り、赤い口紅をつけ、羽根の付いた獅子頭を頭につけています。お腹のあたりに太鼓をくくりつけています。ひょっとこ面をつけている人もいます。

 いよいよ獅子舞が始まりました。笛や鐘の音に合わせて、三匹の獅子が頭を振りながら太鼓を打って踊るのです。

 チエちゃんが生まれる前までは、毎年奉納されてきたそうですが、勤めに出る若者が増えて、ここ数年は全く行われていませんでした。
初めて見る獅子舞は何だか不気味でもありました。たかひろ君もチエちゃんの手を強く握り締めています。

 あっ、お父さんだ!

獅子の向こうにお父さんが、槍のようなものを持って、ニコニコしながらこちらを見ていました。

 獅子舞を見終えたチエちゃんとたかひろ君は、広場に戻り、はずればかりのくじを引いた後、綿あめを買って家へと帰ったのでした。

注:リンクした彼岸獅子は喜多方市のものですが、熊野神社の獅子はこれと似ていますので参考まで(顔を布で覆っていません)


第49話 おじいちゃん(その2)

2007年03月15日 | チエちゃん
 南の島で病気になったおじいちゃんは、密航をしてやっとのことで日本に帰り着きました。
 チエちゃんの家には、おじいちゃんが南の島から持ち帰ったという真珠貝が今でも残っています。大きな二枚貝で、貝自体が七色に輝く真珠色をしています。

 生家に戻り、養生し、病の癒えたおじいちゃんは、もう一度一旗揚げようと東京へと向かったのです。
そして、小さな食堂の経営者となるわけですが、この間の苦労話をチエちゃんに語ることは一切ありませんでした。
後にお父さんに聞いたところによると、このお店はもともとは他の人のものでしたが、その人が故郷に帰ることになったので、おじいちゃんが居抜きで譲り受けたのだということです。それにしても、それだけのお金を貯めたのですから、並大抵の苦労ではなかったはずです。

 このお店はそこそこに繁盛していたようです。近くの芝居小屋や見世物小屋に出前のお得意先があったのです。おじいちゃんは、何人か人を雇い、朝は3時に起きて仕込みをし、夜は12時に寝たということです。

 この間に、おじいちゃんは2度目の結婚をしました。
お父さんの本当のお母さんです。
おじいちゃんは奥さんとの間に、3男2女を儲けましたが、うち2人は幼いうちに亡くなり、残ったのが、ヨシヒサおじさん、お父さん、トシ子おばさんです。

 ところが、この奥さんは男癖が悪かったのです。
お店の売り上げをちょろまかしては、男と外泊をして遊び歩き、お金がなくなると帰って来ることが度々あったようです。可愛い子どものためと思い、おじいちゃんはその都度許しました。

 ある日とうとう、トシ子おばさんの下に女の子を産んで、その産褥も終わらないうちに乳飲み子を残し、歌舞伎役者と駆け落ちをしたのです。
おじいちゃんは貰い乳をして何とか育てようとしたのですが、商売のこともあり、赤ちゃんを養女に出しました。
数ヵ月後、金の切れ目が縁の切れ目、男に捨てられた奥さんは戻ってきましたが、赤ちゃんは不義の子であったことが分かりました。
やっとおじいちゃんは、奥さんを離縁する決心をしたのでした。赤ちゃんを養女に出したことからして、おじいちゃんは薄々気付いていたのでしょう。
後におじいちゃんはポツリと言ったそうです。

 俺もワリがったんだ 商売の気にばっかりなって、
 かあちゃんのごど ちっとも かまってやんねがったんだ

奥さんはきっと寂しかったのでしょうね。

「私にも本当のおばあちゃんの血が流れている。大人になって、おばあちゃんのようなふしだらな女になったらどうしよう!」この話を聞く度に、まだ、本当の恋も知らないのに、思い悩むチエちゃんでした。

 幼い子どもを抱えたおじいちゃんには、やはり女手が必要でした。
そこで、故郷の伝手を頼り、おばあちゃんを後妻に迎えたのです。
一家はしばらく平穏に暮らしますが、やがて戦争が影を落とし始めます。
物資も少なくなり、B29に怯えながら暮らす東京に見切りをつけ、故郷に疎開したのでした。
「あのまま暮らしていたなら、間違いなく東京大空襲で死んでいた」とおじいちゃんは、昔話を締めくくったものでした。

    

第48話 おじいちゃん(その1)

2007年03月12日 | チエちゃん

 明治生まれのおじいちゃんは波瀾万丈の生涯を送ったと言ってもいいでしょう。
でも、晩年は故郷に帰り、子や孫たちに囲まれ、幸せだったに違いありません。

 おじいちゃんは、一卵性双子の弟として生まれました。明治の頃、双子は忌み嫌われたらしく、別々に育てるという風習があったようです。
おじいちゃんは物心もつかないうちに里子に出されたのです。
おじいちゃんはこんなことを言っていました。

 ほんとはない 俺のほうが先に生まっちゃんだ
 昔は、後がら生まっちゃほうが、あんちゃんだったんだ
 かあちゃんのお腹に入ったのが先だがらだど

なるほど、うなずけなくもない理屈です。

 成長してからは、生家に引き取られたようですが、冷や飯ぐらいの二男には変わりありません。それで、おじいちゃんは弱冠20歳の時、一大決心し、南の島への移民開拓団に志願したのです。

 お酒が入ると、おじいちゃんはよくこの南の島の国の話をしてくれたものです。
  島には、原住民の土人がいて、
 「日本人、よく来たね」(これをおじいちゃんは土人語で話してくれたどうも、スペイン語かポルトガル語らしかった)と歓迎してくれた。
  彼らの住まいは、バナナの葉っぱで屋根を葺いた掘立小屋。
  竹の筒にお米を入れてご飯を炊き、大きな葉っぱにあけて、手づかみで食べるのだという。
  熟れたパパイヤ、マンゴーが美味しかったこと、などなど。

 この話を何度も聞かされたチエちゃんは、おじいちゃんの昔話がまた始まったとうんざりしましたが、そのままおじいちゃんが南の島に暮らしていたなら、今頃は大農場のお金持ちのお嬢様だったかもしれないなあとも想像したりするのでした。
そんな事はあろうはずがありません。
おじいちゃんが日本に帰らなかったら、お父さんは生まれておらず、お母さんと結婚することもなく、チエちゃんはこの世に生まれてすらいなかったのですから。

 おじいちゃんは南の島に骨を埋める覚悟で、一生懸命に働き、生家へと仕送りをしました。
そして、現地の人と1回目の結婚をしました。

 ところが、おじいちゃんは働きすぎがたたって、病気になってしまいました。熱病だったそうです。
気が弱くなり、里心がついたおじいちゃんは、日本に帰る決心をしますが、路銀がありませんでした。
どのようにして手に入れたものかは分かりませんが、おじいちゃんは日本に行く船の船員さんに真珠付きの真珠貝を渡し、船底の荷物の中に匿ってもらい、密航をしてやっとのことで日本に帰りついたのでした。 つづく

    


第47話 桜もち

2007年03月09日 | チエちゃん
 春を先取りしたお菓子が店頭に並んでいます。
中でも、塩漬けの桜の葉に包まれたピンク色の桜もちは、チエちゃんの大好物です。

 桜もちには、

 関東風の小麦粉を使った焼き皮桜もちと、
 関西風のもち米のつぶつぶがある道明寺桜もちがありますが、

 みなさんはどちらがお好きですか?

チエちゃんは、何といっても、焼き皮桜もち、そして、こしあん派です。
それはやはり、子どもの頃から親しんだ味だからでしょう。
これで、お茶を飲んだら最高です。

 にしゃばあちゃん家(おばあちゃんの生家)に行く途中に、1軒のお店がありました。
 遠藤商店は、元々は酒屋さんであるらしく、お酒やジュース類を売っていましたが、この他にも、醤油や砂糖、油、片栗粉などの調味料や、のり、煮干、削り節などの乾物、缶詰、魚肉ソーセージ、牛乳、パン、チエちゃんの好きな駄菓子にアイスキャンデー、マッチやちり紙などの日用品などなど、とにかく、魚、肉、野菜の生鮮食料品以外は何でも売っている田舎のお店でした。
 
 このお店の入り口を開けると、まず目に飛び込んでくるのが、ガラス蓋の木箱に入った和菓子です。(ここで製造していたわけではありません)
茶まんじゅうに、薄皮まんじゅう、四方焼き、最中、うさぎ玉(おばあちゃんの好物だった)、季節商品の桜もち、うぐいすもち、柏もちがありました。

 チエちゃんはおばあちゃんといっしょにお買い物に来る時もあれば、一人でお使いに来る時もありました。
おばあちゃんに頼まれて、うさぎ玉や桜もちを買いに来たのです。
そんな時、おばあちゃんは必ずお駄賃と言って、お買い物の代金とは別に20~30円を渡します。

 桜もち 10個 くださいな

 おかみさんはガラス蓋を開け、桜もちを10個、経木に包んでくれます。
その後、チエちゃんはお駄賃で、ピーと笛になるガムと赤銅鈴之助のいも飴を買いました。いも飴を開けてみると「はずれ」でした。「あたり」が出るともう1本もらえたのです。

 この後、チエちゃんの買ってきた桜もちとお漬物で、お茶の時間となるのでした。

 

  

第46話 風 邪

2007年03月06日 | チエちゃん
 あれっ!何だか喉が痛い!

 寒い日が続いた後、寒気が緩んで急に暖かくなった朝、布団の中で目覚めたチエちゃんは「風邪を引いたかな」と思いました。
先週の土曜日、夜更かしをしたせいかもしれません。
チエちゃんは、喉からくるタイプです。

 それでも、滅多なことで学校を休まないチエちゃんは、仏壇の脇に重ねて積んである富山の薬箱の中から「ケロリン」を取り出して飲み、登校しました。
 
 だけど、学校でも喉の痛みはよくなりませんでした。
家に帰る頃にはすっかり鼻声になってしまいました。
体もだるくなってきました。

 チエちゃんは家に着くなり、

 風邪引いだがら、寝る!

そう言うと、ランドセルを放り出し、布団に入りました。
 布団の中で、うつらうつらしていると、おばあちゃんが心配そうに覗き込んでいます。夕飯が食べられるかと、訊いています。
自分では眠った気がしなかったのに、いつの間にか夕飯の時間になっていたのでした。こんな時チエちゃんは、いつもよりずっと甘えて、「ご飯は食べられない」と答えます。
そうすると、おばあちゃんが桃の缶詰を開けてくれるからです。

 チエちゃん家では、「桃の缶詰」は風邪を引いた時だけ食べられるものでした。
砂糖を混ぜた「すりおろしりんご」の時もありました。「みかんの缶詰」の時もありました。それから、おばあちゃんは葛湯もよく作ってくれました。
風邪はつらいのだけれど、「桃の缶詰」はうれしく、またいつもより大事に扱ってもらえることも心地よいチエちゃんなのでした。

 この後、お母さんが作ってくれた「おじや」を食べ、また「ケロリン」を飲んで休んだチエちゃんは、次の朝、まだ鼻声ではありますがのどの痛みは消え、元気に学校へ出かけるのでした。

 あの頃は、余程ひどくない限り、風邪ぐらいでお医者さんに行くということはありませんでした。だから、未だに風邪で病院に行くのは気が引ける昔人です。
具合が悪い時には、富山の置き薬を頼っていたものです。
お腹が痛くなれば「赤玉」か「正露丸」、切り傷には「赤チン」か「オロナイン軟膏」。「雪ノした?」という二枚貝に入った白い軟膏もありました。


 




第45話 ひなまつり

2007年03月03日 | チエちゃん
 3月3日は桃の節句、ひなまつりですが、
チエちゃん家ではまだ、おひなさまを飾りません。
どうしてなのでしょうか?
 それは、新暦の3月3日ではなく、旧暦(太陰暦:正しくは「太陰太陽暦」というらしい)の3月3日にお祝いをしたからなのでした。

 あの頃、東北地方のこの地では、3月といっても本格的な春にはまだまだ遠かったのです。梅も、桃もやっと蕾らしきものが見え始める頃なのです。

 2007年では、4月19日が旧暦3月3日に当ります。
ですから、おひなさまを出すのはお彼岸過ぎのことになります。

 チエちゃん家のおひなさまは古ぼけていましたが、五段飾りの上品なお顔立ちの雛人形でした。西陣織の着物を着ていました。
このおひなさまは、トシ子おばさんが生まれたときに買った物なのだそうです。

 おばあちゃんが、雛人形を出す時、チエちゃんもお手伝いをしました。
おひなさまはそれぞれ、桐の箱に入っており、一体一体丁寧に取り出していきます。体と頭が分かれていて、一瞬ドキッとします。お顔に覆われた和紙を取り除き、本体へ首を差し込んでいきます。
 おひなさまとお内裏様は間違えようがないのですが、三人官女や五人囃子はどのお顔がどの体に合うのか、毎年、悩んだ末に適当に合わせていたのでした。
なのに、右大臣、左大臣の区別は簡単で「うれしいひな祭り」の歌の通り、右大臣は赤い顔をしていたのです。

 それから、おひなさまには乙姫様のような冠をかぶせ、お内裏様には烏帽子をかぶせていきます。それぞれの人形にも付属品をつけて飾った後、最後に小さなお膳を取り出すのがとても楽しみなチエちゃんでした。
このお膳についている御椀や器がおままごとに丁度よく、おひなさまの物に触ってはダメと言われていたのに、大人たちが見ていないところで、チエちゃんはこのお膳セットを失敬してはよく遊んだものでした。

 チエちゃん家では、ひなまつりのお祝いには草もちを作りました。
お餅によもぎをを混ぜ込んでついたものです。
この草もちをのして、ひし形に切り、おひなさまにお供えするのです。
 また、この草もちは凍み豆腐と同じように、冬の寒さで凍らせたあと乾燥させ、凍みもちとして保存食にしました。

 チエちゃんの家には桃の木がありましたから、お父さんが剪定した枝を花瓶に挿して飾れば、ひな飾りは終了となるのでした。

 旧3月3日には取り立ててご馳走を準備するわけではありませんでしたが、春の宵の薄明かりに照らされたおひなさまを飽かずに眺めるチエちゃんなのでした。

 そして、もちろん、チエちゃんがお嫁に行き遅れないようにと早々に片付けたのです。