菅首相が誕生して1カ月になる。日本学術会議の任命問題に関して、どこかの県知事に「教養レベルが露見した。学問をされた人ではない。単位を取るために大学を出た人」と言われた。またアメリカのトランプ大統領がコロナに感染した時、お見舞いのツイッターの英語に「レベルが低すぎる」と一部のマスコミや政治家に叩かれた。また菅首相の卒業大学が法政大学であることを揶揄するむきもある。
教養とは学者だけが持てるものではない。鎌倉の円覚寺の一角に標語板があった。そこに「教養とは、気配り目配り手配りである」という内容が書かれていた。私はこの標語を自分の人生の指標とする。気配り目配り手配りできるための教養を身につけたい。人の口に戸は立てられない。言いたい放題である。だからこそ気配り目配り手配りが必要なのである。
日本には「末は博士か大臣か」という表現がある。優秀な学童に対する期待を表す。日本学術会議に推薦されるような学者は皆、博士であろう。それを任命する内閣総理大臣も大臣である。博士と大臣は、立派な目標達成の証だ。見事に目標達成した優秀であるはずの双方が気配り目配り手配りある対応ができていない。哀しい現実である。
英語に関係する仕事をしていた者として、菅首相の英語のレベルを考察した。何をもって菅首相の英語のレベルが低いと判定するのかわからない。何をしても何を言っても、批判する人がいる。教養、英語のレベル、出身大学を語る底辺にあるのは、驕りに違いない。人間も猿と同じで、序列社会である。何事も序列をつけないと落ち着かない。哀しい性だが、それで社会が治まっているのも事実である。だからこそ、その序列の中で気配り目配り手配りが関係の潤滑油となり得る。
まだまだ日本の英語教育は、成果を上げていない。私は、英語の教科書を、英語を母国語とする国々の子供用の辞書にしたらいいと思っている。教養があると自負する偉い英語学者のように、難しい単語をたくさん知っていることより、子供でも理解できる優しい単語で、難しい単語と同じことをある程度表現できることの方が役に立つ。例をあげる。学者は英語でscholar。定義は①a person who goes to school; a student or pupil ② a person with a great deal of knowledgeとなる。Scholarを知らなくても①②のような説明をすれば、英語を話す人と会話はできる。わからない単語は、説明を簡単な単語を使ってしてもらえば通ずる。私は、この方法を駆使して塾で教えた。生徒に興味ある単語を選ばせて、定義を理解させた。単語を言って、それを英英辞書と同じように説明しているうちに、生徒の英語力は、向上した。
菅首相の英語がどの程度であれ、その文章に首相の気配り目配り手配りが、十分込められていると、相手が理解すれば、立派に目的は遂げられる。日本の内閣総理大臣の周りには、語学に堪能な役人がたくさんいる。アメリカのトランプ大統領が日本語でツイッターを書くだろうか。
私は、大学を出ていなくても立派な教養豊かな人を、たくさん知っている。東大を出ても、どうしようもない、人間的に魅力を感じない人もたくさん知っている。自分以外は、すべて馬鹿が、主流な現代社会。コロナ禍、政府は金を配ってGO TO 〇〇と躍起になっている。GO TO~という名前も気に入らない。私は、政府がやっているこのような政策は、ローマ時代のパンとサーカスにしか見えない。なぜなら多くの日本人は、コロナが恐くて、旅行にも外食にも出かけられない。危険を冒してまで、家を出る勇気がない。もっと恐ろしいのは、コロナに未だ治療法も予防法もない。途方もない予算を組んだが、コロナの原因究明と治療と予防に対してでなく、経済を上向かせるために、旅行だ外食だ買い物だに国民を誘導しようとしている。その恩恵にあずかれるのは、国民のごく一部である。今私が欲しいのは、安心である。旅も豪華な外食も買い物も、私に安心を与えることはできない。この未曽有の恐怖の中、政府が打ち出す政策に、気配り目配り手配りを感じられないのは、私だけだろうか。教養のレベルが低い、英語のレベルがひどい、出身大学がどこは、関係ない。日本をこのコロナ禍から気配り目配り手配りを尽くして、私たち国民を救い出してくれるなら、それ以上は望まない。