団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

辞世問題 父の辞世

2007年06月03日 | Weblog

 金剛山は、市民の山として親しまれている、標高1000メートルほどのたいした高さの山ではない。

 その麓の村で、貧農の次男として、父は生まれた。彼の父親は33歳で死んだ。尋常小学校へは二年までしか行けなかった。宇都宮の羊羹屋へ丁稚奉公に出た。酒屋へ移り、次に東京の製パン工場で、パン職人として働いた。その後独立して、野球場の売店を経営していた。都内に小さな家を徴兵される直前に買った。

 幼い時から故郷を離れた父は、金剛山に特別な思いを持っていた。それは父の日記に、『金剛山』がことあるごとに出てくることから推測できる。東京の家は、戦後のどさくさで人手に渡った。中国から復員した父は、母が疎開していた母の親戚宅に身を寄せた。

 ゼロからの出発だった。仕事はあればなんでもやった。そして私が産まれた。修業して植木職人の資格をとった。母が病死するという悲しみも乗り越えて、四人の子供を支え、後妻を娶った。私が小学校に上がる前に、家を建てた。

 父は山登りが好きだった。私の死んだ母との唯一の記憶は、父と母と姉と私の四人一緒に、太郎山に登った時のものである。頂上で食べた弁当は、パン屋をやっていただけあって、オムスビでなくて父特製のカツサンドだった。うまかった。母が死んで、新しい母とも登った。光って流れる川、時々富士山も見えた。

 1987年春、父は末期のすい臓がんと診断された。父は、私に金剛山に連れて行ってくれとせがんだ。穏やかに晴れた日、私は父と出かけた。父は、10分歩いては10分休んだ。父の脚は、父の意思に反し、重くなるばかりだった。私は途中で、もう引き返そうと何度も父に言った。遅い人でも、1時間半で登れるコースを、四時間かけて頂上に辿り着いた。盆地がきれいに見渡せた。父は静かにふもとの村に向かって頭を垂れ、長く両手を合わせていた。9月5日、父は息を引き取った。

 最後の金剛山登山は、父の辞世準備の一大事業であったと今思う。今度の父の日、妻と金剛山に登ってみようと計画している。

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