団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

辞世問題 墓

2007年06月02日 | Weblog

 ヒンズー教徒に墓はない。キリスト教徒が多い欧米諸国、イスラム教徒の多いアラブ諸国、仏教徒の多い東南アジア諸国、どこにも墓はある。キリスト教徒の多くは、十字架の下に、イスラム教徒はメッカの方向へ正しく頭を向けられて、埋葬される。仏教とは荼毘に付され、遺骨が埋葬され卒塔婆が立てられる。

 ところがヒンズー教徒は、荼毘に付されると、即バグマティ川、ガンジス河に、遺骨も遺灰も半焼けの遺体も流される。カーストに関わらず、誰もが混じりあって流される。荼毘に付された時点で魂は昇天しているので、あとは野となれ山となれとなる。

 カトマンズにあるパシュパティナートは、バグマティ川のヒンズー寺院である。川を挟んで対岸から、異教徒や観光客が、荼毘の一部始終を見ることができる。私も何回となく訪れ、何時間も時を忘れて見入った。遺体を荼毘に付す場所は、川岸から川に3メートルくらい突き出し巾約4メートル、水面から約2メートルの高さで石垣で組まれている。カースト別に少しずつ離されている。上流にあるものほどカーストの位は高く、一番上流に王家専用の場所がある。

 バグマティ川は、ヒマラヤの山々からカトマンズ盆地に流れ込む。水は決してきれいとはいえないが、水量は豊富である。パシュパティナートから数百メートル下流に、多くの子供達が火葬のある日、川の水の中に集まる。流されてくる荼毘に付された遺体から金目のものを拾うためである。生と死が共存する風景である。

 パシュパティナートの一角に、死の館がある。死期を感じた貧しい人びとが死を待ち、死に向き合う館である。ここに来ると人は先ず自分を焼いてもらうための薪を集める。集めた薪の脇で寝起きして、時を待つ。日ごと荼毘の煙が館を覆う。気高さ、潔さを感じた。信じて生きる人は強く見える。死から逃げない。インドやネパールを旅行すると、人生観が変わるというが本当だと思う。

 義理の父が死ぬ前、朝の散歩に同行した。「最近火葬場で焼かれる夢を良く見る。熱くて恐ろしくて、なんとかならないものかな」とポツンと言った。それから数年後、義父は死んだ。あんなに恐がっていた火葬場で、約1時間ですっかり骨だけになってしまった。日本では死体は火葬にされる。キリスト教ではキリスト再臨の日、キリスト教徒は皆肉体が復活すると信じられているので、火葬でなく土葬にされる。日本は宗教の自由は認められているが、埋葬に自由はなく土葬は禁じられている。

 しかし考えてみれば、この日本の火葬はヒンズー教に通じるところがある。誰でもその市町村で死ねば、同じ市町村の火葬場の釜で焼却される。学歴、貧富の差、年齢、性別に関係なく、同じ釜で焼かれる。そして同じ煙突を通って天に昇る。

 知人から京都の常寂光寺には、女性専用の共同墓地があると聞いた。一つの墓に皆で納まるという。彼女も会員になっていて、やがてそこに納まることになっている。立派だと思う。きちんと準備してある。男性のために、このような墓はないという。女性は強い。

 私は海上散骨を希望している。色々準備があるが、それもご隠居仕事の一つと思っている。火葬場の釜の中が熱くて恐いとは思わない。思い切り高温で焼いて欲しい。ネパールの死の館で薪を集めて待つ人びとの姿が私の今後と重なる。彼らは墓の心配はしていなかったはずだ。私も墓はいらないと思っている。(写真:セルビアの友人ボーラさんの墓、セルビアでは写真肖像が墓につけられる)

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