団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

野球の監督

2024年09月06日 | Weblog

  私の父は上田市のある私設野球チームの監督をしていた。私が小学校3年生の時、父のチームが市の大会で優勝した。市営球場のダイヤモンドを優勝旗を持って一周する時、父は私に優勝旗の片端を持たせて一緒に歩かせてくれた。

 父が33才の時、私は生まれた。昭和22年である。いわゆる団塊世代の最初の年代である。父は徴兵されて満州に渡った。日本が敗戦した後、いろいろあったが何とか舞鶴へ帰還した。母が疎開していた上田市に戻った。そして私が生まれた。

 父は尋常小学校に数年通った後、宇都宮の羊羹屋へ丁稚奉公に出された。父親が早くに亡くなったので、母親を助けるためだった。その後長野の酒屋、東京のパン工場で働いた。長野にいた時、野球を始めた。背は小さいが運動神経抜群でチームで活躍したそうだ。東京でも会社のチームで活躍したそうな。野球好きが高じて後楽園球場の売店をやるようになった矢先、徴兵されて満州へ渡った。母は私の姉を連れて実家がある長野へ疎開していた。戦争が終わって、東京の家も店もすべて失った。

 野球のチームを率いる父は、かっこよかった。かっこだけでなく、優勝を何回もしたことが父の良き監督としての証だった。父は「野球の監督は、試合での采配も大事だが、試合をする前の選手も育成が一番大事」とよく言っていた。映画好きだったので、「映画で一番大事なのは、配役を決める事。野球も同じで、スタメンを決めた時点で勝敗はついている」とも言っていた。

 私は運動神経抜群の父の遺伝子を受け継げなかった。音痴で運動神経もダメ。それでも中学に入学した時、父を喜ばせようと野球部に入部した。団塊世代のはしりだった。部員は90名を超していた。当時の野球部は、先輩後輩の上下関係がうるさく、特にレギュラーでない先輩の後輩イジメはひどかった。新入部員は、校庭を隅にギッシリ配置され、大きな声を出し続けさせられた。福島先生という監督だったが、この人雲の上の人で、レギュラーなどの優れた選手とは口をきいたが、下々に声をかけるなどということはなかった。父が言う選手の育成の枠にも入っていないことを察知して1年で野球部を退部した。父には長い間、やめたことを黙っていた。

 そんな父もすい臓がんを患って、72歳で亡くなった。父との最後の会話が「悪いが報知新聞を探して買ってきてくれ」だった。野球好きの父親は、最後までプロ野球のことが気になっていた。私と言えば、中学で野球部を途中で止めて以来、野球は観るのもやるのも嫌いになった。野球とは縁のない人生だった。

 ところが老人の域に達した頃から、大谷翔平選手の活躍が話題になり、テレビのニュースで頻繁に「大谷」が大きく扱われるようになった。大リーグに行ってから中継が早朝から午前なのでテレビを観やすい。そんなわけでアメリカの大リーグを観るようになった。野球を観ていて面白いと思えるようになった。人はちょっとした事で変わるものだ。野球はひとりでやるスポーツではない。大谷翔平選手が所属するドジャースには、監督はじめ多くの選手がいる。試合を観ながら、父が言っていたことを思い出す。あれだけの高額で契約して集めた選手の中からスタメンを決めるロバーツ監督の苦しみが伝わる。個人個人がどれ程優秀であっても、9人の選手の集合体としての力がまとまらなければ勝てない。ロバーツ監督の采配を観ては、ユニフォーム姿の父親を、最近思い出す。今私は喜寿老(77歳)となり、何とか生き続けている。


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