団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ゆで卵

2020年09月08日 | Weblog

  妻が出勤すると私は家に一人になる。コロナ禍以前と変わりない。しかしやろうと思えば、何でも好きなことを自由にできた。もしかコロナに感染したらという妄想はこれぽっちも存在していなかった。コロナウイルスの存在さえ知らなかった。脳裏に癌、脳梗塞、心臓発作、テロ、交通事故、巨大地震、台風、ゲリラ豪雨による死の恐怖が、時々頭をもたげることはあった。しかしそのどれも一過性で、常時私を支配下に置くものではなかった。コロナは違う。コロナの何が恐いって、得体が知れないこと、全世界を巻き込んでいること、治療法もワクチンも薬もないことだ。そんな、コロナに魂を抜かれたような日常の中で、小さな些細なことに喜びを感じることがある。

 週日の昼食は、いつも孤食である。一日2食で済ませられる人がいるという。私はダメ。午前11時を過ぎれば、腹が鳴るほど空腹になる。何しろ我が家は朝食が午前5時半である。たいして運動も仕事もしないのに、食事時が近づいてくると、腹だけは空く。私の孤食ランチは、あまりものをチンすれば済む。先日、無性にゆで卵を食べたくなった。

 ニワトリの卵は、私の人生を語るのに、なくてはならない脇役である。戦後、団塊世代のはしりとして生まれた。誰もかれもが貧しい時代だった。家族6人で生卵1個をそれぞれのご飯にかけた。醤油をたくさん入れて増やした。それを母ちゃんが6人に分ける。父ちゃんには黄身を多くいれた。あと4人の子供は、自分のご飯にどれだけ黄身が来るか目を拡げて見張る。一喜一憂もつかの間、全員、箸で白いご飯と卵をかき混ぜ、万遍なく薄い醤油色に変える。ガツガツと食べる。私は見た。母ちゃんが、5人に配り終わった卵が入っていた茶碗にご飯を入れたのを。生卵かけご飯は、ご馳走だった。1カ月に1度食べられたかどうか。

 卵焼きやゆで卵は、遠足、運動会の時ぐらいしかお目にかかれなかった。なぜか遠足に持って行ったゆで卵の殻は、スルッと剥けた気がする。友達みんなの卵もそうだった。おそらく当時の流通状態から考えて、結構時間が経った卵だったのかもしれない。古いとか新鮮だということより、わいわいがやがや地べたに腰をおろして、緑色の海苔のオムスビとゆで卵は美味かった。つやつやと太陽の光を浴びた、ツルツルな真っ白なゆで卵は、口に入れるのがもったいないと思うほどだった。

 2020年、もう9月になった。今年のほとんどをコロナの自粛巣ごもり生活を続けてきた。戦後の貧しかった時代と違って、今では1パック10個入りの卵をためらいも躊躇もなくスーパーで買える。卵を2個、水を張った鍋に入れ、火にかけた。湯が沸騰すると、鍋の中でコトコト卵が踊っていた。沸騰して4分。タイマーが鳴る。鍋を流しに移す。水を注いで温度を下げる。流しの縁で卵に割れ目を入れ、水道水を流しながら、殻を剥く。ほとんどの場合、卵の殻は上手く剥けない。薄皮が絡んだり、白身がついたまま剥がれたりする。

 その日、何と殻がスルスルと気持ちよく剥けた。最初の卵の殻が、いとも簡単に完璧にするりと剥けた。嬉しくなった。一気に2個のゆで卵の殻を剥いた。これも成功。こんなこともあるのだ。コロナに押しつぶされそうになっていた自分が情けない。ゆで卵とリンゴだけの簡単な昼食が、まるで大手術の後の最初の食事のように私を唸らせた。

 


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