団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

貴景勝が負けた

2020年01月28日 | Weblog

  大相撲千秋楽の次の日の夕方が嫌いだ。特にこの初場所は、応援する貴景勝が12日まで優勝争いをしていたので観戦に熱が入った。土日以外は、妻が帰宅してから一緒に観戦するので録画しておく。私は実際に取り組みが行われている時間、勝負の行方が気が気ではない。観たい、知りたい。でも我慢する。もし勝敗を知ってしまえば、妻と観ている時、結果を教えてしまいそうになるからである。映画でも本でも先に観てしまった人が、結末をまだ観てない読んでない人に話せばしらけてしまうものだ。だから妻と一緒に観る。

  妻も私も自動車の中での会話は、とても他人に話せるようなモノではない。罵詈雑言、ののしり、言いたい放題。相撲観戦も同じだ。妻は朝乃山を贔屓していて、私は貴景勝。お互いの贔屓力士と闘う相手はすべて敵である。私もこれほど熱くなって応援しなくてもと思う。しかし世事に対する溜まりに溜まった怒りや不満を相撲の勝負に転嫁している。これではまるでローマ時代の『パンとサーカス』政策に自ら身を任せているようなものである。応援して言いたい放題できると気分が良くなる。貴景勝が勝てば、晩酌も美味くなる。関取は、決して超人ではない。以前サルコジ元フランス大統領は「ポニーテールの太った男同士が戦うことがなぜそんなに魅力的なのか。インテリのスポーツではない」との蔑視発言を行った。おそらくサルコジ大統領の前のシラク大統領が大の大相撲好きだったのを皮肉る意味もあったのだろうが、多くの外国人の意見と同じものだと思う。特にフランス人は他国文化に厳しい。言い方や表現が辛辣である。だから聞いていて面白いのも事実。誰が何を言っても相撲は面白い。裸、裸というけれど、古代ギリシャのオリンピックは、全裸で闘ったはずである。批判は自由である。世界は、偏見と先入観と自国愛で満ちている。

  26日日曜日千秋楽、妻と私は早々晩酌の支度をして大相撲の観戦を始めた。すでに朝乃山も貴景勝も優勝争いから離脱していた。それでも1敗の徳勝龍と2敗の正代が優勝圏内に残っていた。どういう意図があったのか知らないが、幕内の最下位の徳勝龍は千秋楽の結びで何と貴景勝と闘う。嘘だろうと思った。普通幕尻だったら、千秋楽は同格地位の取り組みだろう。嫌がらせか。とにかく貴景勝が勝って、徳勝龍と正代が優勝決定戦をすればいい。ところがである。とんでもないことが起こった。貴景勝が負けた。徳勝龍のどこにあんな力があったのか?徳勝龍は今まで何をやっていたのか。急に変わるなよ。

  しかし徳勝龍の優勝インタビューは、見ごたえがあった。土俵下の一番良い席に座っていた女性が徳勝龍の言葉に涙してハンカチで目をぬぐっていた。これには私も妻も打たれた。また徳勝龍は、まるで落語家や上手い漫才師のように涙と笑いを織り交ぜ絶妙な受け答えをした。泣く顏、笑う顔を見ていて思った。この顔どこかで見たことあるな。私はある飲み屋のおばちゃんの顔を思い出した。月曜日のお昼に放送されているラジオニッポン放送で高田文夫のビバリヒルズの冒頭、高田文夫が「『タケシが徳勝龍の顏は飲み屋によくいるおばちゃんの顏』と言っていたけど、ほんとおばちゃん顏だね。それにしても徳勝龍凄かったね」

  大相撲の初場所が終わった。月曜日の夜から静かな晩酌になった。


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