団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

元産婦人科医の夫

2008年12月02日 | Weblog
 「私、今日包丁を持った男に追い回されて殺されそうになったの」 私たちの結婚式を間近にひかえた頃、1週間に4日から5日病院に泊まり、産婦人科医として働いていた婚約者が電話でぽつりと言った。午前3時だった。内容は守秘義務のため明かすことはできないが、ただ事ではなかった。とにかく彼女に危害が加えられなくて何よりだった。「今、ひとつお産が終わったの。私、もうダメになりそう」「そっちに行こうか?」「ううん。もうじき救急車で患者さんが来るの。ごめんね、明日仕事あるのに。明日じゃないね。もう今日だね」電話の向こうからサイレンが聞こえた。彼女は電話を切った。

 私はその頃、日本とアメリカの大学で学ぶ二人の大学生の子供に仕送りするために4つの仕事を持っていた。専門学校での講師、予備校講師、自分の塾の経営、家庭教師。毎月の仕送りは合わせて30万円を超えていた。ゆっくり婚約者と話しができるのは彼女の仕事が一段落する真夜中しかなかった。彼女の話しを聞きながら眠ってしまったこともある。受話器を首にはさんで、彼女の悲痛な訴えであっても、天使のささやきのように彼女の声は、私の心を癒し支えていた。離婚後の私はたった一つの目標を持った。二人の子供を大学卒業まで支える。離婚後の私は良い父親になれた。時、すでに遅しではあったが。卒業させたら病気になって死んでもいいと、いや死にたいと思っていた。願いのとおりに糖尿病が進行して「インシュリン注射を始めましょう」と医者に言われていた。私も彼女も自滅寸前に出会った。どちらのつっかえ棒がなくても、二人は最終的に倒れていたに違いない。

 私は彼女を救う唯一の方法は転地療養以外ないと思った。つまり産婦人科医をやめさせる、ということだ。息子の就職が決まった。あとは娘ひとりで私の役目が終わる。話し合った。外務省が医務官を募集していた。当時婚約者が勤めていた病院は、年間800以上のお産をこなし、彼女も重要な役目を負っていた。彼女が抜けることはその産婦人科に多大な迷惑をかけることは明白だった。私は今彼女をあの過酷な職場から救い出さなければ、彼女は早晩自滅してしまうか、健康を害すると先がみえた。

 二人は決意した。私が仕事を辞め、家事をする。妻は外務省に入省して公務員になる。14年間海外に出たことによって、妻は普通の生活を送ることができた。今でも日本の産婦人科医は、限界に近い重労働と訴訟などによる心労に喘いでいる。 ここにある産婦人科医の記述がある。その産婦人科医は“「私は地獄に落ちる人間だから」と断言する。産婦人科で一般に行われている人口妊娠中絶は、合法ではあるが命を奪う行為にほかならず「倫理的には間違っている、だから、地獄に落ちる」「でも、矛盾はあっても中絶しないと、いま現に生きて目の前の患者さんが苦しむことになるから、あえてやっている」”(白石拓著『医師の正義』) そしてこうも言っている、“「単なる田舎の医者ですよ。毎日毎日、患者さんと向き合い肉体労働をしています」”覚悟を持つ人間は強い。

 私の妻は、黙ってこの部分を読むよう私に指で差ししめし、目頭をじっと押さえた。まさに彼女の産婦人科医としての過去の毎日であった。妻は酒と睡眠薬でこの苦しみと不眠症を払拭し、逃れようとようとしていた。妻は私が彼女を救ったと言う。妻は「私は産婦人科医としての覚悟が欠けていた。でも今は婦人科医として覚悟を持って毎日患者さんに向き合っている」 妻は泥酔することも年に一回あるかないかである。あれほどいつ寝るのかわからなかった妻は、毎日寝息をたてて熟睡している。それでも私は産婦人科医が不足している、と聞くたびにドキリとするのである。

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