孫の小学校入学のお祝いの食事会を東京の二子玉川の高島屋デパートのレストランですることになり、車で出かけた。道路は日曜日にもかかわらず、ずいぶん交通量が少なく予定より早く二子玉川に到着した。さらにデパートの駐車場へもすんなりと入庫できた。約束の集合時間5時にはまだ2時間もあった。久しぶりに夫婦二人そろってのデパートなのでウインドウショッピングを楽しむことにした。
6階の特設会場で京都の物産展が開かれていた。漆工芸や扇子、着物など伝統的な京都らしい展示品を楽しめた。妻がもっと見ていたいと言い、ちょうど近くで京都のお菓子が飛行機便で到着し、3時から販売開始するというので20人ぐらいの列ができていた。ただ妻を待つより、並んでおこう、という気持ちで最後尾についた。
係員の指示に従って並んでいた。日本はどこも狭く、人口密度が高い。ちょうどエレベーターの前で、列とエレベーターの利用者で混みあっていた。その時私の右足の足首にガツンと何かが衝突し、目から火花がでた。ものすごく痛かった。脇をベビーカーを押して若い母親が「邪魔だよ」の顔で通り過ぎた。とっさに私は「何か言うべきではありませんか?」と声をかけた。ベビーカーの女性はあざ笑うかのように私を無視した。私はそれ以上何も言わず、足首を調べようと屈んだ。髪の毛を短く刈り込んだ30歳代の男性が私を小突いた。
「俺の女房に何のいいがかりをつけてるんだ」 私は「ベビーカーがぶつかったので“何か言うべきではありませんか”と言いましたが」「てめえ、喧嘩売ってるのか?イチャモンつけやがって」「いいえ」「いいえだと。上等だ。外へ出ろ!」そこにデパートの男性店員が二人駆けつけた。「申し訳ございません」「申し訳ございません」と平身低頭で男に謝り続ける。男は私を睨みつけながら「フェン、ベビーカーに赤ん坊が乗ってるんだ。見たらどけよ。まったくいい歳して何だよ」と朝青龍が最後の仕切りを終え、塩を取りに行くときのように向きを変え立ち去った。
ちょうど私の妻が戻り、心配そうに私を見た。デパートの店員たちも客たちも、私をまるで犯罪者を見るような目つきで見ていた。よく最近いる“切れやすい老人”を見る目つきだった。どんな理由があったにせよ、人に怪我させたり迷惑かけたら謝るのが、まともな人間だ。人間は言葉を持っている。前に人がいて、通るのに邪魔だったら「通ります。どいてください」とか「すいません」とか、それさえ嫌なら、せめて咳払いでもいいから知らせて欲しい。
三重県の松坂市で、バスの中で携帯電話を使っていた58歳の男性に注意した61歳の男性が、首を絞められて殺された。30人いた乗客のだれも行動を起こさなかった。デパートで私はその状況に近い経験をした。注意されることなく変に甘やかされて育った人々は不幸である。注意されることを“喧嘩を売られた”と受け取る狭量さは人間の未熟さをあらわす。社会や組織で自分が知っている上下関係に押しつぶされている人びとは、自分が知らない他人だけの集合の中に入ると、その不満、鬱積、怒りを簡単に、かつ不用意に他人へ向ける。最近多い無差別殺人はそれである。
動物は子供を守るために命がけになる。男が愛する女のために命をかけて守るのも道理がある。でも自分の妻がひとさまを痛めたら、夫は謝るのが当然だ。夫として妻に謝らせるか、代わりに夫が謝ればそれで済む。
たまたま怪我はたいしたことはなかった。突然足首に衝撃を加えれば、年寄りは足の腱を切りやすい。私の知人で成田空港であの頑丈な荷物カートで後ろからぶつけられ、腱を切られた人がいる。治るのにずいぶん時間がかかった。
ベビーカーを押していた母親は、明らかに自分の目の前の混雑や目障りな私のようなオヤジにヒステリックになっていた。言葉でなく体罰を与えたいと思ったのだろう。どんな形であれ、人を傷つけるのは良くないことである。何より恐ろしいのは、ベビーカーに乗った幼い子は、そんな母親や父親をこれから毎日見ていなければならないことである。私は子供に注意をして“クソジジイ”、親に“恐いおじさん”と言われたことが何度もある。子供たちの将来を思えば、注意せずにはいられない。
せめて孫には、孫の将来のために厳しくしようと、祝いの席で思った。