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団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

傘・長靴・合羽

2025年06月10日 | Weblog
  今朝起きると雨だった。すでに今年も梅雨に入ったようだ。最近暑くなってきたので、散歩を早朝に済ませることにしている、雨が降っていると、外に出るのが嫌になる。濡れたくない。散歩しようかしないでおくか、どうしようかと迷っていた。妻が言った。「私の長靴貸してあげる」 いくらなんでも妻の長靴が私に履けるわけがない。「長靴は大きめのサイズを買うから履けるよ」 試してみた。少しきつかったが履けた。ウォーキングシューズで雨の中を散歩すると靴の中にまで水が沁みて来る。靴下が濡れると気持ちが悪い。あの不快感を回避できるなら、妻の長靴で出かけてみようと家を出た。
 歩くのに長靴がきつい感じはあったが、水たまりがあっても避けて歩くこともなく、ジャブジャブと水の中を歩けた。子供の頃、濡れる事は、気にならなかった。雨の日の近所の子供たちとの遊びは、溢れた小川や道路の側溝のそばでの肝試しだった。一面雨水が溢れて水浸しになって、どこが小川や側溝かわからない。足先で探りながら前に進む。長靴を履いていたが、深い所では長靴に水が入ってしまう。それがまた楽しかった。長靴の水の中で足がピチャピチャとしていた。長く履けるようにと、親はいつも実際のサイズより数段階大き目のものを買ってくれていた。膝から下は泥水の中。ジャボジャボの水が入った長靴のまま、水浸しになったどこに川や側溝があるか分からない中を進む。時に川や側溝にはまって、全身濡れネズミになった。親に叱られるのをわかっていても、やめられない遊びだった。
 大人になって海外あちこちで暮らした。どこに国でも子供たちの遊びには、興味を持った。ネパールやセネガルでは、靴を履いている子供がほとんど見られなかった。時々ビーチサンダルを履いている子はいたが、裸足の子が多かった。私の子供頃、日本は戦争に負けて人々の生活は貧しかった。私も靴より下駄を多く履いていた。裸足の子供たちを見て、私が子供だった時、親はどれほど靴や長靴を買うのが大変だったかと思った。子供の成長は早い。大きくなるたびに合うサイズの靴や服を買うことが家計の負担になっていたに違いない。その上我が家には4人の子供だったので親はどう工面していたのかと思う。後に私自身も2人の子供を持ったが、2人だけでも大変だった。4人を育ててくれた親に頭が下がる。当時、西松屋もユニクロもなかった。
 今朝妻の長靴を履いて傘杖を杖でなく傘としてさして歩いた。喜寿老になって足腰が弱くなった。雨の日は外出を避けている。傘も長靴も合羽もただの道具でしかない。
若かりし頃、フランス映画の『シェルブールの雨傘』を観た。カトリーヌ・ドヌーブ主演のミュージカルだった。冒頭のシーンは、雨が多かったが、ラストシーンは雪だった。でもいまだにどうしてもあのシーンを、私は私の気持ちの中で、雪でなくて雨にしてしまう。甘く切ない映画だったが、あの映画を観てから、雨や傘がとても私の経験とは違うものに見えた。良い映画だった。現実と違うが、雨には不思議な魔力が潜んでいる。
  九州で線状降水帯が大雨を降らしている。近年の気候変動で大規模な水害の発生が多い。我が家の前の川も毎年洪水で両岸の石垣を少しずつ浸食している。ちょうどいい雨量は有り得ない。災害の無いことを祈りつつ、妻の長靴での散歩を雨が降っても続けたい。

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ベッツ選手のつま先

2025年06月06日 | Weblog
   喜寿老(77歳)として散歩が日課で留守番が仕事と言ってきた。散歩が日課は変わっていない。妻が退職して家に居るようになったので、留守が仕事でなくなった。以前は、ひとりでいることが多かった。まだ二人で一日中一緒の生活に慣れていない。
 4日水曜日横浜で高校の同級生5人で集まった。コロナ前は年に1回は会っていた。5人のうち3人がコロナに感染したことがわかった。幸い私はコロナと診断されたことはなかった。今年の4月体調を崩して1カ月寝込んだ。その時私はコロナに感染したと思ったが、退職してずっと私の看病をしていた医師の妻がコロナではないと言った。病院へ行かなかったので、何の病気だったかは分からない。
  コロナの所為もあるが、家に長くいるとテレビを観る時間が増える。大谷翔平選手のアメリカでの活躍が、単調な生活の中で大きな楽しみとなった。加えて大相撲好きな妻の影響で大相撲のテレビでの観戦も楽しみになった。妻が在職中だった時は、録画して妻が帰宅した後、晩酌しながら録画しておいた取り組みを観た。言いたい放題の名(迷)解説者に変身した妻のキツイ言葉を聴きながら観た。楽しい時間だ。大相撲が終わると寂しくなる。アメリカ大リーグの中継がその寂しさを補ってくれる。
   アメリカは大きな国だとつくづく思う。西海岸内陸部東海岸とドジャースの試合の実況中継の時間が変わる。中毒というのか追っかけというのか、いつの間にか、私は大谷選手が出場する試合を観ずにはいられなくなった。中継時間が午前2時からだろうが、午前5時だろうが、午前11時だろうが観る。不思議なもので、観ている時なかなか大谷選手はホームランを打たない。散歩途中でカワセミとの遭遇チャンスと同じようなものだ。しかし実際は大谷選手は、すでに今シーズン23本もホームランを打っている。もう今日はダメだと我慢していたトイレに入っていて戻って来ると、大谷選手がホームランを打っている。打った後、ビデオで何回もホームランを打った場面は、放送される。テレビのニュースでも映る。でもそれでは私は満足しない。実際にうった瞬間を観たいのだ。ホームランなんて自分では打ったことないくせに、要求だけは一人前だ。
   大谷選手がエンジェルスにいた時は、エンジェルスの大谷選手以外の選手にも親近感をおぼえて応援した。今はエンジェルスの試合に全く興味がない。変わってドジャースの選手に親しみを感じる。特にベッツ選手とフリーマン選手の凄さに舌を巻く。マンシ―選手も好きだ。
   先週ベッツ選手が足の指を傷めて欠場した。真っ暗な中を歩いていて、つま先をぶつけたという。ベッツ選手ほどの選手が、夜中につま先を何かにぶつける。私も夜中にトイレに起きて、真っ暗な中でモノにぶつかったり、つま先をテーブルの脚にぶつけることがある。私がどこを何かにぶつけても問題は、私自身の問題でしかない。ベッツ選手は違う。球場に試合を観に来る何万人もの観客、テレビ中継を観ている何千万人ものファンが活躍を期待して観戦する。ベッツ選手は、「これからは懐中電灯を持って危険は避けたい」とコメントした。大スターであっても、私たちと生活において変わりがないことがちょっぴり嬉しかった。

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足の裏の痛み

2025年06月04日 | Weblog
  5月31日の土曜日午後6時からのBS日本テレビの『イタリアの小さな村』を観た。今回はカンパニア州の小さな村コンカ・ディ・マリーニだった。そこに住む92歳の男性。妻に先立たれ、一人で暮らす。息子が同じ家の違う階に住んでいる。でも息子があまりにも彼の事を心配し過ぎて、いろいろ口出しするので、彼は息子をうっとうしく思っている。息子のパートナー(私が思うに結婚していないが一緒に住んでいる内縁関係か?)も頻繁に彼の様子を見に来てくれる。介護もしてくれる。彼は息子のパートナーを信頼していて、何でも話す。ある日彼は息子のパートナーに「夕べ、足の裏が痛くて痛くて眠れなかった」と訴えた。
  彼は92歳。私は喜寿老の77歳。でも私も足の裏に違和感を持って10年以上経つ。痛くて眠れないことはないが、常に足の裏にブリキ板を張り付けたような感覚がある。医者は糖尿病の合併症だという。薬も治療法もない。よく糖尿病は治らない一生付き合う病気だといわれる。イタリアの92歳の男性が、糖尿病かどうかはわからない。夜中の足の裏の痛みがあったと聞いて、同病相憐れむのような感じ。92歳と聞けば、私はすぐあと15年かと考える。とてもその年まで生きていられるとは思わない。
  昨日長嶋茂雄さんが亡くなった。89歳だった。あと13年先。長嶋さんは、脳の病気で68歳の時、半身不随となった。21年間病気と戦いながら生きた。長嶋さんの身体能力からいえばそれも可能だったとはいえ、長嶋さんの生きようとする強い気持ちがそうさせたに違いない。長嶋さんの現役時代、日本中の子供たちが巨人・大鵬・卵焼きに夢中だった。私もそうだった。巨人といえば、長嶋茂雄と王貞治。今のアメリカ大リーグのドジャースの大谷翔平選手のようだった。
誰でも歳をとる。長嶋茂雄さんのような凄い野球選手でもだ。イタリアの小さな村で暮らす92歳の老人もあそこが痛いここが痛いと言いながらも自分の力で生きようとしている。彼が住むコンカ・ディ・マリーニ村は、有名な観光地アマルフィの近くに位置する。アマルフィのように断崖にある。92歳の男性は、階段だらけの村でずっと暮らしてきた。自分の力で100段の階段を1日99回上り下りして家を建てる資材を運んだという。散歩で少し勾配がきつくなると息を嫌えるやわな私とは違う。名もなく静かに田舎で暮らす92歳の男性のたくましさに私はひるむ。
  それでもいい。あと何年生きるにしても散歩して漢字パズルで時間をつぶす。退職していつも一緒の妻といろいろ言い合いながら、食事の用意を台所で並んでしている。目が悪く耳も遠く脚も弱った。テレビは長く観られない。妻の言う事も私への賛辞以外ほとんど聴き取れない。聴き取れないというのか、脳がAIのように作動して自分の都合の悪い音を遮断してくれていると思いたい。足の裏の違和感もどうすることもできない。
  私が今こうしてまだ生きていられるのは、医学の進歩のお陰だ。往々にして私はそれを忘れて、身勝手な思いや行動をしてしまう。罰当たり極まりない。こんな私だが良く介護してくれる妻とできるだけ長く一緒にいられるように努力して生きたいものだ。

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水無月

2025年06月02日 | Weblog
  もう6月。この間正月を迎えたと思ったら、すでに5カ月が過ぎてしまった。6月を和風月名で水無月という。“無”が入っているので、水の無い月とまるで乾季の月のようだが、この“無”は、“の”を意味するらしい。水の月とすれば、納得できる。アフリカのセネガルに2年間ほど暮らした。来る日も来る日も太陽がギラギラ照り付け、空気が乾燥していた。どこもかしこもちょっと風が吹けば、砂埃が舞い上がった。雨は降らなくてもいい所で災害を起こすほど降る。雨を必要とする所では、一滴も降らずに旱魃をもたらす。なかなか人間の思うとおりにはいかない。それでも日本は、水資源に恵まれている。
 6月8日は、家の前の川の鮎釣りの解禁日である。すでに1カ月ほど前に鮎の稚魚が放流された。今朝も妻と散歩して、鮎が水面を跳ねるのを見て来た。今の時期、この鮎の飛び跳ねを観るのが二人の楽しみになっている。6月になるとサハリンで釣りをしたことを思い出す。私がサハリンで釣った魚は、サクラマス、ヤマメ、イワナ、ウグイ(ジンケン)だ。
 サハリンで私に釣りを教えてくれた人がいた。その人は、リンさんという妻の運転手の父親だった。サハリンの治安や交通事情が悪かったので、領事館館員は、車持ち込みの運転手を雇うことが奨励されていた。リンさんは、黒澤明監督の映画『デルスウザーラ』の主役のように、山野や海や川の自然に溶け込んでいるようだった。リンさんにサハリンの釣りのカレンダーを教えてもらった。
1月から12月まで1年中イワナ、アメマス。(鮭を釣るつもりだったが、遡上した鮭が産卵するとイワナやヤマメが鮭の卵を素早く食べてしまう。釣りの餌がイクラなので、面白いようにイワナやヤマメが釣れた。大きさは40㎝超えが多かった)2月から4月は、キュウリウオ、川タラ、カンカイ。3,4月がニシン。4,5月シシャモ。(一度海面を黒く染めて産卵のために海岸に押し寄せるシシャモを釣りの師匠と網で獲った。)5,6月サクラマス、本マス。(鮭を釣ることはできなかったが、一匹だけ私はサクラマスを釣った。今でもあの強い引きと釣り上げた時の感動を忘れていない。)9~12月ベニマス、アキアジ。(この期間厳しく禁漁となっていて、川監視と海監視が巡回している)
 釣りの師匠に聞いた。「一番欲しいモノは何ですか?」 正直私は答えに「金」を想像していた。答えは「モノはない。魚釣りをする時間が欲しい」だった。私は自分が恥ずかしかった。私:「どうして釣りが好きなのですか?」師匠:「魚がグイグイ引く感覚が、何とも言えず面白いです」私:「釣りで忘れられない思いでは?」 師匠:「36キロのイトウを釣ったことが忘れられません」 私:「一番美味しいとおもう魚は何ですか?」 師匠:「イワナが1番。イトウがその次。」(ある日市場で禁漁のはずのイトウが売られていた。買って食べてみた、確かに美味しい魚だった。)
 素晴らしいリンさんという自然をよく知る師匠のお陰で、日本ではなかなかできないことをサハリンで経験させてもらえた。釣りの他にも、山菜採り、キノコ狩り、蟹獲り、貝拾い、シマエビ捕りを経験できた。喜寿老になった私は、釣りも山菜やキノコ狩りももうすることができない。巡りくる季節の折に触れて思い出を辿るのが今。

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買ったことがないのは米だけか?

2025年05月30日 | Weblog
  何十年も前にある自称偉い人に「海外へも自分の金で行くようじゃ…」と言われたことがある。今回の江藤前農林水産大臣の「私は米を買ったことがない」発言であの自称偉い人の「海外へも自分の金で行くようじゃ…」と言われたことを思い出した。江藤前農林水産大臣に関して何か語る気もしない。あまりのレベルの低さに意気消沈するのみである。
 私費と国費。国費は、言い換えれば税金である。日本では、お上は民間人より偉いという暗黙の縛りがある。私は、妻が外務省の医務官になって同行して海外に長く住んだ。大使館の職員との付き合いの中で、彼らが使う「民間人」という言い方に抵抗を感じた。公僕という自覚はないように思った。人は、いったんどんな権力であってもそれを持つと、どうしても傲慢になるようだ。一時期「上級国民」という表現を頻繁に目にした。私のような上級国民でない者のやっかみであるにしても、言い得ている。私は、人生のほとんどを私費で生きてきた上級国民でない民間人である。
  喜寿老(77歳)になった今、ささやかな年金で暮らしている。米は、自分の金で買う。エンゲル係数が高い家計だが、そんな中でも米は贅沢させてもらっている。海外で長く日本米のように自分で好きな美味い銘柄を選ぶことができなかった。やっと米の味がわかるようになった。炊飯器の進歩もあるが、米の銘柄で味が変わることも知った。終の棲家に定住した。近所に玄米を精米して売る店を見つけた。住み始めてからずっとその店で、5㎏ずつ三分つきの精米してもらって買っていた。その店の女将が年老いて店を最近たたんでしまった。美味い米が食べられなくなることに、砂漠で迷子にされたような不安を感じた。米屋の女将の紹介で、県内の米屋を紹介してもらい、定期的に三分つきの米を買えることになった。白米は美味い。団塊世代なので戦後、米が配給制だった時が食べ盛りだった。白いご飯に憧れた。米の代替だったウドンやスイトンは、白いご飯への想いを助長させるだけだった。
  米に関する政策などの難しい詳細はわからない。私が育ってきた過程で、時にして感じていたことがある。父も母も貧しい農家に生まれた。私は子供の頃から、祖父母の農作業を手伝っていた。父は次男で父の兄が農業を引き継いだ。母の実家は母の弟が継いだ。しかし両家とも途中で農地を売却してしまった。士農工商などいってまるで農業が武士の次であるかのように言いながら、実際は重労働がゆえに後継ぎが途絶え始めた。加えて教育においてまるで士農工商時代の再現のように、中学から高校への進学の際、普通科>実業科>農業科の選別が始まった。あの状態で農業の将来に期待が持てるわけがなかった。少子化も米問題も日本経済の衰退も初期の政策の過ちだ。民間人の責任である。なぜなら世襲などの旧態依然のしがらみで国会議員に投票して彼らを当選させてきたからである。
  江藤前農水産大臣は「米は買ったことがない」と言った。私は質問したい。金を払ったことがないのは米だけですか?交通費は。秘書の経費は。通信光熱図書費は。議員宿舎家賃は。女性議員の子供の託児所代は。
 どうやら上級国民とは、税金つまり国費公費を貪る国民らしい。私は違う。一民間人だが、すべて私費でやりくりしている。国費も公費もいただけない。そのことに誇りを思う。

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子供用英英辞書

2025年05月28日 | Weblog
  岩波書店の第7版の『広辞苑』が10年ぶりに改訂出版された。これまで出版された広辞苑の厚さはすべて8㎝だという。収容語数は改訂のたびに多くなっている。なぜ厚さを同じに保てるのか。不思議だった。使う紙の進化だという。インクが透けない紙でギリギリまで薄い紙を開発にすることによって、厚さ8㎝を可能にした。
 辞書と言えば、今夫婦でハマっているギリシャのテレビドラマ『カリートス 地中海の犯罪辞典』(アマゾンプライム)がある。内容にうるさい妻が、一話観終わると、「お願い、続きも観せて」という程だ。ドラマの中で必ず数回、主人公の刑事が辞書の言葉の引用をする。その引用が事件解決の鍵となる。
 映画『博士と狂人』は、サイモン・ウインチェスター著『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』を映画化したものだ。メル・ギブスンとショーン・ペンが主演している。日本映画でも三浦しをん著『舟を編む』を松田龍平主演で映画化されている。
 辞書と図鑑の存在は、私の人生の中で大きな役割を果たしてきた。辞書に触れるたびに、辞書を氷山のように感じる。水の上に出ているのは、ほんのわずかで水中深くまで全体の90パーセント以上が沈んでいる。私が引く言葉や項目も、その水の上の一部分である。一生の間にどれだけ私が理解できる量はしれたものだ。辞書の編纂にどれだけの時間や労力が必要かは、映画『博士と狂人』『舟を編む』を観ればわかる。オックスフォード英語辞典や広辞苑に触れて、その厚さを感じるだけで、編纂に関わった人々の熱意と忍耐と犠牲を偲ぶことができる。
 私は、子供用の英英辞書で英語を学んだ。私は語学に造詣が深いわけではない。一介の英語塾の講師であった。高校の英語の成績も悪かった。カナダに留学できて、初めて英語が話せるようになって、英語を好きになった。日本の受験英語と違って、実際に生活の中で使う英語は、自分の存在を周りに発信できる手段となる。
 英語の教科書や参考書や問題集で英語を学ぶのも悪くはない。書店や通販サイトにはごまんという種類の出版物がある。そんな中で子供用の英英辞書を使うことを私は勧めたい。入手方法は書店で買うことも可能だが、置いてある種類が少なく自分に合うものを購入することが困難である。アマゾンで検索して自分でも使えそうな辞書の購入がいい。英英辞書を手に入れたら、まず品詞の名詞・代名詞・動詞・副詞・形容詞・前置詞・冠詞・間投詞などを引いてみる。名詞Noun:A naming word とある。普段生活の中でどんなに難しい自分で理解できない言葉と遭遇しても、心配無用。英語が国語や主要言語である国でなら、周りの人に自分が理解できない言葉を説明してもらえばいいのだ。人の賢さを知る方法は、難しいことをいかに相手に分かりやすく説明できるかだと聞いた。自分の周りにそのような賢い人がいれば幸運なことだ。ではそういう環境にいないならば、どうしたら良いのか。子供用英英辞書である。難しい英語の単語の壁に囲まれても、ひるむことはない。分からない単語があったら辞書を引く。私は、オックスフォード英語辞典という氷山のような辞書を読むことはできない。でも子供用の英英辞書なら全部読むことができた

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チュニジア ミントティ

2025年05月26日 | Weblog
  友人宅に招かれた。友人の畑には、ミントが植えられている。他のハーブ類と違って、世話が簡単で、良く育つという。畑に行って見ると、確かに良く育っていた。友人が「好きなだけ採って持って帰って」と言ってくれた。お言葉に甘えて、袋にいっぱいのミントを採らせてもらった。
  ミントといえば、チュニジアで暮らした2年間を思い出す。チュニジアの市場でミントは、キロ単位で売られていた。日本のスーパーでも近年いろいろなハーブが年間を通して売られている。嬉しいことだ。でも数本のハーブが小さな包装に入れられて200円前後で売られている。チュニジアでは1キロ買っても100円前後だった。
  友人の畑でミントを採っていて、キロ単位でミントを市場で買っていた時のような気分になった。チュニジアに戻ったようだった。帰宅して早速ミントティを淹れることにした。いろいろな淹れ方があるようだが、私は、鍋に湯を沸騰させて、ザルに入れたミントに湯を注ぐ。チュニジアでは、中国産のガンパウダーという種類の茶葉を使うけれど、私は、日本茶を使う。チュニジアでは、砂糖をたくさん入れるので甘すぎた。ミントの抽出液と日本茶は、違う容器で冷蔵庫に入れて冷やす。飲む時にグラスに好みの量のミントと茶を注ぐ。私の場合、砂糖は使わない。暑い夏でもこれがあると、清々しい気分になれる。
  アフリカのセネガルで暮らした時、現地の飲み物に「ビサップ」という真っ赤な飲み物があった。ハイビスカスの一種の花を煎じて作ると聞いた。暑さに強くなれるのか、甘ければ甘い程現地の人は好んで飲んでいた。私はビサップの色が好きだった。乾燥した暑い日に冷えたビサップは、最高の飲み物だった。現地で飲んでいた時は、ビサップはハイビスカスの花を乾燥させたものだけを抽出したものだとばかり思っていた。ビサップにもミントが入っているとずっと後になって知った。チュニジアのミントティもセネガルのビサップもミントがいい仕事をしている。気候風土に適した飲み物だった。セネガルの市場で山のように積まれた乾燥させたハイビスカスの花、チュニジアの市場でもキロ単位で売られるミント。どちらも日本では、見られない売られる方法だ。その風景が懐かしい。日本でセネガルのハイビスカスは手に入れることができないが、友人のお陰でミントは入手できる。せいぜい今年の夏は、ミントティを冷やして飲んで、熱中対策にしたい。
 チュニジアには喫茶店が多い。どこの喫茶店も男性客ばかり。失業率が高く、若い世代ほど職に就けなかった。地中海式気候で年中過ごしやすかった。観光客も多く、観光地は、外国人旅行者も多かった。喫茶店にはコーヒーもあったが、ミントティを飲む客が多かった。店によってミントティの淹れ方が違った。日本のチュニジア大使館が勧めるミントティの淹れ方を付記する。『1:500mlの沸騰したお湯にティースプーン2杯の茶葉を15分間入れておきます。2:煎じ出し、茶葉を取り出します。3:砂糖を入れ、中火で沸騰させます。
 4:お好みで、生のミントの葉をティーポット又は、カップに直接入れ、数分たったら取り出します。5:小さなグラスにお茶を注ぎ、お好みで松の実を入れます。』

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グッドタイミング

2025年05月22日 | Weblog
 時の巡りあわせは、神がかっている気がする。それを運命といえば大げさだと思う。偶然で片づけてしまうのは、味気ない。日常生活で時々起こる予期せぬ巡りあわせは、平凡な生活に思わぬ喜びや感動を与えてくれる。
 私はこのところの日中の真夏日気温を避けて、朝早く散歩をする。川沿いを歩いていると、多くの鳥を見る。バードウオッチングといえるものではないかもしれない。カワセミを見た日には、一日中宝くじでも買ってみようかの気分で過ごせる。アオサギ、シロサギ、セキレイ、カワカラス、オシドリ、カモなども散歩の足を止める対象となる。鮎釣りが6月初めに解禁になる。毎年5月になると町の漁業組合が、小学校の生徒を招いて鮎の放流をする。魚を餌にする鳥は、その直後から狂ったように放流されたばかりの鮎を捕える。その景観が散歩途中の私を喜ばせる。捕らえられる魚にとっては悲劇である。せっかく放流された鮎もその数を減らす。
 放流された鮎は、川に慣れてくると遡上を始める。私はサハリンで鮭の遡上を見た。圧巻だった。感動で言葉がでなかった。水量も少なくなる上流まで体をボロボロにして上がる。一匹のメスに何匹ものオスが追随する。あの様は、子孫を残す行動の神々しさ以外の何もでもなかった。サハリンで見た鮭の遡上のような壮大さは、今住む町の川では見られない。妻は散歩中、川面を見ながら「魚いないね」とよく言う。妻は、ある意味トロイ。目が狩人の目でない。動いているモノを目で追うのが苦手。そんな妻にも鮎が放流された直後から、川面で跳ねる鮎を見つけられるようになる。妻は、鮎が水面から跳ねて、光る魚体を見て喜ぶ。
 このところ散歩に出るたびに、川面で跳ねる鮎を見る。放流されてもう1カ月になる。この川には堰が多い。堰には魚道がついている。サハリンで見た鮭の遡上する川には、堰がない。自然のままだった。私が住む町の川は、ほとんど100メートルごとに堰がある。災害防止用なのか、水流の勢いを和らげているのかはわからない。そんな急流の川にも淀みがある。鮎はそこでたくさん餌を食べて大きくなって力を蓄えているのであろう。川面を跳ねるのは、ジャンプ力をつけるための訓練かもしれない。この数週間毎日川面で次から次へと鮎が跳ねる。私は土手でその光景をじっと見入る。カメラで跳ねた鮎を撮ろうとするが、うまく撮れない。鮎は訓練を終えたのか、この数日堰の段差2メートルの水の勢いが強い場所を飛び越えようとして飛び上がる。ほとんどの鮎が強い水の流れに押し戻される。何度も何度も挑戦する。上手く堰の上に上がる鮎に私は賞賛を送り目頭を熱くする。
 そんな折も折、何とこの川に一羽のカワウがやって来た。カワウは、川に潜ってしばらく水から出てこない。観察が面白い。初めてこの川でカワウを見た夜、NHKテレビの『ダーウィンが来た』が放送された。3千羽まで日本全国で減少したカワウが今では何万羽にも増えたという。番組のお陰でカワウのことが学べた。それにしてもグッドタイミングであった。岸辺でかっこよく羽を大きく広げるカワウ。カワウの羽は水をはじかない。早く泳ぐためだという。だから潜っては、しばらく羽を乾かす。

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SDGs英語学習

2025年05月20日 | Weblog
  オーストラリアに長く駐在した商社員だった友人に聞いた話だ。彼は自分の子供がなかなか泳げるようにならなかったので、現地の人にどうすればいいか相談した。するとそのオーストラリア人は、「子供をプールに入れて、そこへワニの赤ん坊を放し入れれば、すぐ泳げるようになる」と言ったそうだ。実際に友人がワニを放したかどうかは、聞いていない。
 英語を話せるようになるには、オーストラリアのワニの話と同じ様に英語で生活する英語で何かを学ぶ環境に入る事だ。これが一番の方法だと思う。私自身カナダの学校に留学したことで英語を話せるようになった。
 英語が母国語である国へ留学する、あるいは暮らすことが出来なければ、どう英語を学べば良いのか、私の提案を紹介する。
  • ①映画を何度も観て、セリフをすべて書きだす。私はディズニーの映画が好きだ。『ダンボ』のビデオを買った。そして1年かけてセリフをすべて書き取った。この事を思いついたのは、NHKの大河ドラマで勝海舟が徹夜して他の人から借りた外国語の辞書を書き写したのを観たのを思い出した時だった。書き写すというのは、単調な作業である。ましてや勝海舟の時代に今あるコピー機など存在しなかった。筆と墨。辞書を借ることができる時間が限られていた。徹夜で作業を進めた。写し終えてから、疲れで勝海舟は眠ってしまう。雨が降った。雨漏りで苦労して書き写した辞書が濡れてしまった。墨は水に濡れると滲んでしまう。勝は再び書き写しをする。感動した。私が生きる時代は恵まれている。辞書も借りて写す必要もない。多種類の辞書や出版物も手軽に買える。
  買ったビデオは、何回でも繰り返し観ることができる。聞き取れなかったセリフは、機械を止めて巻き戻してまた聞く。大変だけれど勝海舟の苦労と比べたらはるかに楽だ。最初は聞き取れず何度も止めて巻き戻す連続だった。何をやっても長続きできない私だったが、この作業のお陰で我慢強くなった。時間ばかりかかって先に進まぬ作業にイライラが募った。しかし勝海舟と違って、私の好きなディズニーの映画『ダンボ』を観ながらの作業だった。画像、音声は役に立つ。繰り返して観て聴く。加えてセリフを真似して自分の声で言えるようになってくる。「門前の小僧習わぬ経を読む」「読書百遍義自ずから見る」 最初苦痛だった作業が、時間と共に苦痛でもなくなった。半年くらいになると書き写しも軽快にすすむようになる。『継続は力なり』を実感できる。観て、聴いて、書き写す。体全体を総動員しての学びとなる。1本の映画のセリフのすべてを文字に起こすことができれば、違う映画を観ても、理解度が向上する。英語力がつく。分かっていても出来ない。学ぶ方法はいくらでもある。要は、するかしないかである。
 SDGs(持続可能な開発目標)という言葉を良く聞く。世界中で使われている。持続可能とは、何かを継続することである。英語を話せるようになるための自分だけのSDGsを持つ。目の前に『ダンボ』のセリフの書き取りのコピーがある。A4で全部で37ページある。あの1年間に渡る苦労がよみがえる。あの苦労があってこその私の人生だった。
 
 注意:映画には著作権があり、いかなる方法でも映像・音声・脚本内容を許可なく使用できないので、個人での使用に留める。

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タイムカプセル 500円玉

2025年05月16日 | Weblog
  昔、曽呂利新左衛門という豊臣秀吉の家来がいた。ある時、新左衛門が秀吉を喜ばせる進言をした。秀吉がいたく感心して、新左衛門に褒美を取らせようとした。何が欲しいかと尋ねられた新左衛門は、「一日目に米一粒、二日目に米二粒と増やしていただいて一カ月間前日の倍の米をいただきたい」と答えた。秀吉は、そんなことで良いのか、とその時は思った。いとも簡単にその願いを聞き入れた。ところが二週間後でも8192粒の米で済んだが、一カ月では5億3000万粒になった。5億3000万粒というと米俵で200俵になる。秀吉は、時間が経つにつれて、米の数がだんだんとてつもない数になると気が付いた。そこで秀吉は、新左衛門に褒美を変えてくれるよう頼んだ。私はこの話が好きだ。1日目 1⇒2日目 2⇒3日目 4⇒4日目 8⇒5日目 16⇒6日目 32⇒7日目 64⇒8日目 128⇒9日目 256⇒10日目512⇒11日目1024⇒12日目2048⇒13日目4096⇒14日目8192⇒15日目16384⇒16日目32768⇒17日目65536⇒18日目131072⇒19日目262144⇒20日目524288⇒21日目1048576⇒22日目2097152⇒23日目4194304⇒24日目8388608⇒25日目16777216⇒26日目33554432⇒27日目67108864⇒28日目134217728⇒29日目268435456⇒30日目536870912
  この話にヒントを得て、私は孫たちに500円玉の貯金本をアマゾンで購入した。新左衛門の米のようには行かないが、1歳の誕生日とお年玉に500円玉一個、2歳で2個の500円玉を誕生日とお年玉にと増やしていった。私の金持ちの知り合いに、家族全員にお年玉を年齢と同じ額を一万円で上げるという人がいた。15歳なら15万円、28歳なら28万円というぐあいに。私はとてもそんなことはできない。私の孫の一人に今12歳の子がいる。生まれた時に500円玉貯金本を贈ってありました。7月の孫の誕生日で貯金本がいっぱいになったと知らせてきました。2冊目は両親がアマゾンですでに買った。一冊で10万円になります。新左衛門の米粒のようには増えないが、孫たちにジイジの置き土産として、少しずつでも倍々の凄さを体験してもらえれば、嬉しい。
  500円玉貯金本の入手法:パソコンでアマゾンのホームページを開く。検索で『ホーム・キッチン』を入れ、『500円玉貯金本』と打つ。すると「ディズニー ブックスタイル貯金箱」「節約の裏技をまなびながら」「日本一周旅行をすると」などとタイトルが出てくる。孫にどんなことを伝えたいか考えて500円玉貯金本のタイトルを決めるのも楽しい。
  私は孫にこの表を紙に書き写させてみた。孫が「これがお金だったら…」と。孫は「凄い!たった30日で5億!」。孫はこのとんでもない増え方に興奮した。どんなに小さなことでも続けると大きなことになると学んだようだ。
 私は、待てない人だった。何でもすぐに結果を求めた。急がずにただ持って待っていれば、大きな財を築けたかもしれない。目の前の事ばかりに気を取られ、5年先10年先20年先を見ることができなかった。こんなことは私ひとりで終わらせたい。

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