時の巡りあわせは、神がかっている気がする。それを運命といえば大げさだと思う。偶然で片づけてしまうのは、味気ない。日常生活で時々起こる予期せぬ巡りあわせは、平凡な生活に思わぬ喜びや感動を与えてくれる。
私はこのところの日中の真夏日気温を避けて、朝早く散歩をする。川沿いを歩いていると、多くの鳥を見る。バードウオッチングといえるものではないかもしれない。カワセミを見た日には、一日中宝くじでも買ってみようかの気分で過ごせる。アオサギ、シロサギ、セキレイ、カワカラス、オシドリ、カモなども散歩の足を止める対象となる。鮎釣りが6月初めに解禁になる。毎年5月になると町の漁業組合が、小学校の生徒を招いて鮎の放流をする。魚を餌にする鳥は、その直後から狂ったように放流されたばかりの鮎を捕える。その景観が散歩途中の私を喜ばせる。捕らえられる魚にとっては悲劇である。せっかく放流された鮎もその数を減らす。
放流された鮎は、川に慣れてくると遡上を始める。私はサハリンで鮭の遡上を見た。圧巻だった。感動で言葉がでなかった。水量も少なくなる上流まで体をボロボロにして上がる。一匹のメスに何匹ものオスが追随する。あの様は、子孫を残す行動の神々しさ以外の何もでもなかった。サハリンで見た鮭の遡上のような壮大さは、今住む町の川では見られない。妻は散歩中、川面を見ながら「魚いないね」とよく言う。妻は、ある意味トロイ。目が狩人の目でない。動いているモノを目で追うのが苦手。そんな妻にも鮎が放流された直後から、川面で跳ねる鮎を見つけられるようになる。妻は、鮎が水面から跳ねて、光る魚体を見て喜ぶ。
このところ散歩に出るたびに、川面で跳ねる鮎を見る。放流されてもう1カ月になる。この川には堰が多い。堰には魚道がついている。サハリンで見た鮭の遡上する川には、堰がない。自然のままだった。私が住む町の川は、ほとんど100メートルごとに堰がある。災害防止用なのか、水流の勢いを和らげているのかはわからない。そんな急流の川にも淀みがある。鮎はそこでたくさん餌を食べて大きくなって力を蓄えているのであろう。川面を跳ねるのは、ジャンプ力をつけるための訓練かもしれない。この数週間毎日川面で次から次へと鮎が跳ねる。私は土手でその光景をじっと見入る。カメラで跳ねた鮎を撮ろうとするが、うまく撮れない。鮎は訓練を終えたのか、この数日堰の段差2メートルの水の勢いが強い場所を飛び越えようとして飛び上がる。ほとんどの鮎が強い水の流れに押し戻される。何度も何度も挑戦する。上手く堰の上に上がる鮎に私は賞賛を送り目頭を熱くする。
そんな折も折、何とこの川に一羽のカワウがやって来た。カワウは、川に潜ってしばらく水から出てこない。観察が面白い。初めてこの川でカワウを見た夜、NHKテレビの『ダーウィンが来た』が放送された。3千羽まで日本全国で減少したカワウが今では何万羽にも増えたという。番組のお陰でカワウのことが学べた。それにしてもグッドタイミングであった。岸辺でかっこよく羽を大きく広げるカワウ。
カワウの羽は水をはじかない。早く泳ぐためだという。だから潜っては、しばらく羽を乾かす。
