備前焼 やきもん屋 

備前焼・陶芸家の渡邊琢磨(わたなべたくま)です。陶芸、料理、音楽、路上観察……やきもん屋的発想のつれづれです。

2009-01-10 20:22:28 | 陶芸
電柱を登ろうとするアイビー。結構茂ってきたので、刈り取り。この時期に剪定して良いのか…は問題でなく、気が向いただけ。

結構長くて、次々に引っ張り出していると、唐草模様のことが頭によぎる。先日から新しい透かし模様を考えていたから頭によぎったのだろうけれど…。世界を横断してバリエーションがある模様。「自分の唐草模様を作ろう」。

こうなると折角始めた作業もそっちのけで、左手に蔓、右手に鉛筆を持って図案化作業へとお流れ。描き出すと在来の唐草模様が気になって参考資料を引っ張り出す。たちまち仕事場にいろんなものが散乱し、鉛筆はどこかへ行き、本を読みふけり出す。取り留めない読書に日暮れの気配を感じて、再び気を取り直し、鉛筆も取り直し作業再開。
『模様から模様を作らず』の心意気で…。

出来上がってみると、唐草と言うよりも草文という方が的確なデザインに。

何故、唐草が草文となるのか。

自分の性格と仕事ぶりを考えてみる。
精密な計算とパターン化されたデザインも悪く無いけれど、自分で作るのはそうでないものが多いという事。ライブ感と再現性の狭間での精度や、少しピンボケも含まれるニュアンス。そんな感覚の仕事が多いしむしろ好き。
(磁器の人から見ると精密さは欠けるけれど、備前焼の人から見ると結構精密な方だと思っているけどね)

同じ楽譜の演奏でも、奏者によって表現が異なるという差。
同じ落語の演目でも、演者によって笑いが異なるという差。
それを楽しむ事が好きという事が、同じ事を繰り返しても、いつも違うという結果を生むのだろう。
これが繰り返し模様の唐草を続けられない理由か。または、まだ自分が唐草模様を欲していないのかも知れない。



『工芸にライブ感を持ち込む感覚』って逃げなのか攻めなのか。
逃げとすれば、緩さ、甘さ、鷹揚さ…
攻めとすれば、発展性、創造性、表現・技法の進歩…


自分の中で『差』を感じていることは大事なんだと思う。

それが『唐草なのか草文なのか』の差ではなく、
自分の『やりたい事と出来ている事』の差を見るということ。


片手に蔓一本持って、言い訳がましく青臭い事を考えてしまったなぁ。
今日はそういう日なんだろう…。

メランコリックな曇り空がそうさせているのかもしれない。




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