降臨している方々を、懐かしいな、と思う人々がね。
必要なんだな。
一昨日の法事を経て、そんなことに思い至り。
つまり、天孫降臨というのは、ご先祖様がた、ということなんだけど。
思えば、そこに降臨なさる、という仕組みでもあり。
そこが、そのことによって、笑いの、和やかな渦となれば、それはそれでいいし。
しめやかな、静穏に包まれても、それも一つだしね。
いずれにしても、目に見える、手に触れられる世界だけが、単独で存在しているのではない。
ということがね、実感として、感じられれば、そこに青い鳥がいる。
あのあと、わが家にやってきたいとこが、何十年と経って、思い出して、話題にしてくれる人がいなければ。
なんて言っていたんで、そうか、それで、50回忌ともなると、神様になる、なんて言い方。
残されているんだな、と。
集合知とでもいうのか、長く続いている習俗には、それなりの意味があるんだろうね。
昨夜のせごどんは、また、泣きながら観ていた。
討幕派として勇みたつ、弟や有馬新七たちを前にしたシーン、刀を外して彼に渡し、俺を切れ。
みたいなのね。
国父久光の逆鱗に触れ、またあれで、沖之永良部島へ流されるのか。
なんてこと、味わいつつの時間だった。
神話、ドラマ、ストーリー、虚構、なんていうのか。
鹿児島では、どんな風に、あの大河、観られているのかな、なんて思うね。
なにせ、かの地の方々は、西郷さん、好きだもんね。
わが駿河、清水の地も、ついこの間までは、次郎長さん、だったんだけど。
いつの間にか、エスパルス、ちびまる子ちゃん、になっちゃったな。
渡世の義理なんての、流行らなくなっちゃったからね。
それも仕方ないか。
そんな具合に、ご当地の英雄を、挙げ奉り、というので神社なんかの御祭神、となるのか。
さて、今朝は新聞が休みだ。
朝の5時前から、新聞屋さんを待っている、わが同級生の御仁は、こんな時、どうするのか。
なんてこと思いつつ、この辺で。