のは、南方熊楠。
東京予備門、と言ったか、東大の前身とでもいうのか。
同窓生には、夏目漱石や正岡子規。
その5年後、明治の23年に生まれたのが、古今亭志ん生。
さらに5年後、28年に、わが祖母、おすえさんが、駿府の地、二丁町近くに生まれた。
そんな時系列なんだけど。
僕が、ブレイクスルーというセミナーで、出産体験をした時に、かすかに聞こえてきた。
すえ、すえ、という音、その呼びかけられた主が、おすえばあさん、というわけだ。
自宅での、産婆さんによる出産だったので、その傍らで、お湯を沸かしたりなんやらと。
忙しく立ち働いてくれていたんだろうね。
そのすえさん、母親が40歳だったか、なんとかの二つ子、ということで、一旦捨て子としないと、成長できない。
のか、幸せになれないのか、そんな迷信、あるいは、信心、で、どこかの家の前に捨てられた。
もちろん、筋書きがあって、その家の養女になった次第。
そのお宅が、教育熱心だったらしく、教員養成所へも通わせてくれて、晴れて教師となった。
そのあたりで、わが祖父に見初められ、結婚。
その頃にしては珍しい恋愛結婚だそうで。
その嫁ぎ先が、僕の住んでる高橋村、そこには、若くに連れ添いを亡くした孟母と書くのか。
猛母と書くのか、そんな姑のおみなさん、こちらは慶応生まれだ。
明治の女どころの騒ぎしゃなく、江戸の女だ。
ムラウチでは、砂糖屋と呼ばれていて、家紋も島津の、丸十だから、いわゆる。
暮らした家、なんで、そりゃ、嫁さんは、大変だったんだろうな。
そのおみなさんの産んだ子供達が、7人くらいか、姑小姑、とね。
おすえさん、そりゃ、なかなか、自由気ままとはいかず、胃腸が弱かったので、僕の子どもの頃にも。
梨、それはよく噛んで汁を飲んだら、吐き出しなさい、みたいな薫陶を受けたもんだけど。
だいたい、ネガティヴな感情というのか、エネルギーというのか、みぞおちのあたりに溜まる、なんて話もあるから。
胃腸が弱い、と診断されるけど、その実、家庭内の空気をそこへ吸い込み、ってのは、ありだな。
なんて家庭で育てられたのが、わが母親たち、幼くしてなくなった長男を含め、5人。
さらに、5人に育てられたのが、僕を入れて、何人になるのか、ざっと10人までいかないか。
なんて具合に、家族というのか、家というのか、キャラクターが出来上がり、って次第で。
今に至る、わけだ。
ほぼほぼ、明治の中頃、南方熊楠は、その後、アメリカからキューバへ。
志ん生は、飲む打つ買うの三拍子揃いつつの噺家修行。
おすえさんは、僕のような立派な孫を残し、って。
南方は、実家が和歌山でも名うての豪商だったそうだけど、後継の長男が、これまた、よくありがちな。
極道というのか、で、家運は傾き、キューバからイギリスへ渡った頃は、送金も途絶え、貧乏の極みとなり。
馬小屋の二階で、刻苦奮励、粘菌の採取を整理したり、「ネイチャー」へ論文を投稿したり、と。
志ん生は、13だったか、そのくらいで家を飛び出て、これまた、貧乏の極み。
しかも、落語家としては売れず、長いドサ回りを繰り返し、売れ出したのが、40歳過ぎ。
この3人の空気を吸った時代の、50年くらい前か、せごどんは、奄美大島で、愛加那との間に。
二人の子どもをもうけ、自身は政治のシーンに没入していく。
そうそう、わが曽祖母おみなさんの生まれた慶応という元号にも多少の関係があるのか、徳川慶喜さん。
正妻には子が恵まれず、というんだけど、愛妾が11人いたんだってね。
そのうちのお二人が、それぞれ、11人ずつ、子どもを産んだ、ってんだから。
実は、世が世なら吾輩が、なんて言いそうな方々が、それだけいらっしゃるわけで。
さらには、そこから、何十人かに枝分かれし、みたいな話ね。
なんて考えると、途方も無い話になっちゃうね。
そのお一人お一人に、それぞれ独自の歴史が、物語があるんだから。
なんて書いてきたら、長くなっちゃったな。
さて、月曜日を始めるとするか。