と前置きして、お父上が、仕事の中でやってくるような。
そんな時がある、そうで。
それは、困りに困り、窮地に至る、そんなような時らしく。
と言うのが。
夕べ、お会いした女史、少林寺拳法じゃなく、なんだったっけかな。
なにしろ、武術の衣類なども販売している、そんな方なんだけど。
しかも、中国の大学にいたらしく、もちろん、ぺらぺらの中国語を操る、らしい。
今はなき、お父上が、製紙の機械を発明したりする方だったか。
そんなあとをついだ彼女の話。
そういえば、三保でのカヌー教室での後、そのお父上所有の、木製のクルーザーと言うのか。
見せていただいたことがあった。
オカルト、と言う言葉が出てきたので、それは、リアルにお父様がやってきているんだと思うよ。
と応えた。
だって、どうやら、その通りなんだろうな、と言う、昨日の続きじゃないけれど、予感がね。
あるからね。
そもそも、浮かんでくる考えや感情って、誰のもの?どこからやってくるの?ってなもんで。
いかな科学が発達・発展しても、なかなか、そのあたりは、解明できない。
と言うのは、たぶん、地震予知が難しい、と言うか、あてにならない、と言えば、失礼になるかも。
だけど、似たものではある。
思考や感情なんてのは、地震みたいなもの、とも言えるからね。
こんなところで、こんな思考がやってくるはずないんだけど、と言いつつ、そうそう。
そこには中央分離帯、じゃなく、なんだっけ、そんな裂け目がある、歪みがある、と言うわけだ。
また、新たな発見、みたいなね。
おっと、言いたいことは、降りてくるのはお父上に相違ない、ってことで。
そんな具合に、人は生きているわけで。
決して、独りで生きているんじゃない、と言う話にも繋がるんだけどね。
むしろ、独りでは生きられない、いや、寂しいからじゃなく、どうあがいても。
どなたか、あるいは、多くのどなたか方との共闘、共生、ってことだと思うんだよね。
この世界的には、どなたか、なんてネーミングと言う分離の仕組みのようだけど。
このあたり、たぶん、認識構造、あるいは、認識の仕方という認識そのものが。
そりゃ、この時代のこの地のこの社会の、だけで通用するものかもしれず。
ってわけだ。
なにせ、100万年生きる、という宣言者としては、どうしてもそんな解釈になっちゃうんだな。
そうだ、夕べ、くだんの女史じゃない、60歳ちょっと前の女史、彼女がいうには。
健康年齢があと何年だから、ああしてこうして、なんておっしゃるので。
もうね、こちらの大得意なパターンでしょ、なので。
そりゃ、洗脳されているに過ぎず、そもそも、健康年齢なんて言葉がまかり通っているけど。
それすら、誰かがたまたま言って、どこかの学者さんがたまたま分析し、くらいの言葉で。
そんなことより、今日、この日を単に生きる、くらいの方が、いいんじゃない?なんて応じた。
のだけれどね。
どうも、この頃、世に流通している言葉を疑う、というか、言い換えるクセがついっちゃっていて。
解釈を変えると、世の中、薔薇色にも灰色にもなるわけで、ま、どちらもいい色だけどね。
さて、今日は安全パトロール、行ってくるとしますか。