まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

あまりに太陽が眩しいので

2018年06月19日 | Weblog

今朝のルーティンを変えた。

カミュの「異邦人」じゃないからね。

太陽、富士山、青い空、白い雲。

三拍子も四拍子も揃った朝だった。

陽光を、眉間、第三の目から松果体へ、と算段しながら。

ついでに、ではないけれど、骨ストレッチだ。

今朝の珈琲は、「コロンビアのシェラネバタ農園」、だ。

今晩のコロンビア戦にちなみ、ちょっと、洒落てみた。

味?

ちょっと酸味の薄い、割とありがちな珈琲かな。

このところ、ストレートが多いんだよね。

ところで、この間、北海道の女史からいただいた、メタトロン、という、なんていうんだったか。

こんなんですが。

 

ついでに、コーヒーカップとマックも入れといたんだけど。

この金色の絵柄の上に水をほんの少しの時間、置いとくと。

とてもまろやかな味になるんだよね。

神聖幾何学というらしいんだけど、例えば、雪の結晶、あんな感じかな。

江本勝さんという方、本だしていたな。

水に対して怒ったり、酷い言葉を投げつけた後の水の結晶は、形も乱れ、なんだけど。

祝詞とか愛ある言葉、ありがとう、とかね、すると、とても綺麗な形を表す。

なんて話、あるよね。

水は記憶する、というわけだ。

しかも、その記憶を伝播する、と。

伝播、まで試してないけど、コップ一杯の水をお風呂に入れると、温泉みたいになる。

なんて言ってる人もいるから、今夜、試してみるか。

なんでも、自分で体験、体感、してみないと始まらないからね。

明らかにまろやかになった水を、昨日は、何杯か飲んだ。

もうね、人の言う事はどうでもいいから、自分の体感だな。

体感、直感、遠くから聞こえる声、とかさ。

それとか、人から聞いたこと、あるいは、見たことのなかに、あれ、って残っていること、などなど。

それらが、ひょっとしたら、昔から言われている、天使のささやき、なのかもしれず。

黛ジュンは天使の誘惑、と言ったか、って、あれはちょっと違うけど。

昨日も、お昼、久々にコメンテーターのtoshさんとご一緒して、彼が。

昔、狐ヶ崎の、今は、ヤングランド、いや、イオンになっているけど、遊園地だった頃。

金網の穴から無料で入ろうとするときには、お尻から入るんだ、と。

彼、そのオチ、うやむやになっちゃっていたんだけど。

その後、車で、米朝、シャレじゃないけど、会談じゃないほうの米朝、いつものようにyou tubeでね。

聴いていたら、芝居小屋の入場料のランク、なんて前振りの話で。

穴の空いた壁を、お尻から入ろうとすると、こらこら、そんなところから出ちゃ、いかん、と叱られ。

中へ戻る、つまり、入場する、なんて笑い話が出てきて。

これ、言う人に言わせればシンクロ、ってなもんだけど。

と言うこともあったり、なのでした。

さて、いつもだと、このあたりで、ルーティンに入るとしますか、で〆になるんだけど。

今朝は、新聞へ行きます。

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食べすぎると疲れる

2018年06月18日 | Weblog

土曜日のことだけど、ビュッフェスタイルね。

食べたいだけどうぞ、という。

その誘いの言葉に乗っかり、表題のごとくで。

帰りの車中は、ちょっと、眠気もやってきて、休憩を多めに、というわけだ。

よく言われるように、消化のために胃へ血液がなだれ込み、他への供給が不足する。

なんての、まんまの症状だったな。

今更ながらに、血液の力、あるいは、過ぎたるは及ばざるが如し、ってことを、体感したわけだ。

いつだったか取り上げた、「静」という治療法、痛いところを揉まない、というね。

秦の始皇帝によって裏世界に閉じ込められた、とでも言えるか、そんな施術のマスターがいうには。

痛いのは、重力による歪み由来で、少し歪むと、そこが滞る。

つまり、血液の流れが。

なので、全体の流れをよくする、というのが、その治療法の眼目、ってことらしい。

なぜ歪むか、というと、重力を天から地へ、うまい具合に通電させてない。

上から下への力をそのままに下へ伝えていない、とも言えるか。

これね、目に見えるカラダだけじゃなく、心のありようもそんな感じなんだろうな、と思い至るわけで。

心は歪むんだね、綺麗な言葉で言えば、なんだろう、ま、とにかく、それによって。

滞る、というわけだ、と思うんだよね。

言ってみれば、ただ、それだけのことに、時には、向精神薬みたいな薬であったり、診断であったり。

大枚のお金、叩いたりもするわけだ。

星占い、なんての、あるけど、あなたの生年月日からすると、なんとか座のなんとかで。

みたいなの。

あれ、それぞれの星の重力、というのか、力の受け具合が、微妙に違うんだろうな、と。

魂、というのか、生命、というのか、そんなものが、この地上に降りてくるときの。

星の配置具合に影響を受けて、それが、歪み、となって、心の形になる、なんてね。

だから、もともと、一筋縄ではいかない心の形を、それぞれの人が持っているんだけど。

ほら、中沢新一じゃないけど、ヨーロッパの思想は、分裂病を押し込んでしまう、とか言ってたでしょ。

解放するんじゃなく、押し込める、と。

だから、無理があるんだな、きっと。

あるものを見て見ぬ振りをする思想、とも言えるかも。

「アーロン収容所」で、会田雄次が書いてたけど、彼、つまり、日本軍が捕虜、支配するのはイギリス軍。

あるとき、英軍将校のご婦人が水浴していた。

捕虜たる会田雄次たちが、それを眺めながら歩いても、そのご婦人、なんの恥ずかしさも見せず、水浴び。

ところが、英国人がきたら、思わず、きゃっ、と恥ずかしそうに、という逸話。

あんな感じかな。

階級意識なんてのも、そういうことだな。

ことほどさように、各人各様で、金子みすゞじゃないけど、みんな違ってみんないい。

お後がよろしいようで。

 

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今朝は冷気が、いや、涼気か

2018年06月17日 | Weblog

窓からの便りは、表題のごとくで。

ショートステイから、ほんの数日のご帰還の母親。

それに伴い、妹も帰還。

おじおば会。

昨日は、加茂荘花鳥園へ。

ハナショウブが、泥田のなかに綺麗に咲き誇っていた。

その合間を、鴨なのか、人馴れした風情で、ゆっくりと水の上を泳ぎ。

無料のエサを、お客さんからもらうのも、慣れたもので。

なんて風景に、おばたちが混じり。

嬌声をあげていた。

お昼は、このところ、デフォになりつつある、ららぽーと磐田のビュッフェ。

オーガニックというウタイの「ぶどうの丘」だ。

以前にも書いたかも、だけど、自分の食べたいものを食べたい量だけ、という選択ができる。

ということで、ビュッフェスタイルが、ストレスなくていいんだよね。

なので、西ではここ、東では朝霧のフードパーク、とあいなり。

甲斐・信州では、そうもいかないか、ひょっとしたら、あるのかも、だけどね。

伊豆方面では、伊東の道の駅、回らない回転寿司かな。

どこへ行ったか、というだけの記憶をたどるより、何を食べたか、が入ると。

鮮明さが増し、そうだったね、となるんだよね。

頭での記憶だけでなく、カラダ、わが身に染み付く記憶というのか、思い出だ。

食への欲があって、味や香りへの感覚があって、あとは、たぶん。

ららぽーとの喧騒の聴覚、触覚かな。

つまり、全身で味わう時間と空間、ということになるか。

そこへ、この世には存在しないことになっている、彼女たちの父や母、あるいは、他の係累の。

思い出につながる人々。

そう言った記憶を呼び覚ましつつの時間。

中島みゆきじゃないけど、縦の糸と横の糸が織りなす、そんな時間なんだよね。

70兆の細胞たちは、この社会の、一応はルールみたいなものに添いつつ、そこに縛られない。

そんな世界に浸ることで、活性するんだろうな。

近くで、鳥の鳴き声が、あれ、なんていう名前なのか、なんて思いにふけっていたら。

遠くで汽笛が、じゃないけど、銅鑼の音ならぬ、なんていうのか。

船の、が、聞こえたり。

ビターマイルドをいただきながらの日曜の朝、ベランダのスイカも一回り大きくなっているし。

そこここで、いろんなことが起こっているわけだ。

そうそう、昨夜のテレビで、砂漠をゴミで緑化する、なんて番組あったけど。

砂漠の砂は粒子が細いので、雨が降るとドロドロ、乾くと固くなり、植物が根を張れない。

なんてコメントがあり、なにかとアナロジカルだ、なんて思ったんだった。

このカタカナ文字の多用ね、南方熊楠に叱責されちゃいそうだけどね。

は、ともかく。

何と似ているのか、忘れちゃいましたが。

さて、日曜日を始めるか。

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雨の降りだす前に散歩

2018年06月16日 | Weblog

といった風情で、今朝は、早くから。

巴川べりを歩く方々の声が聞こえてくる。

雨模様のおじおばの会、厳密に書くと、おじ、はカッコつきになるんだけどね。

(療養中)みたいな。

でもね、車中でも会話の端々に、出ることはでるわけで、そこに存在しているんだ。

もちろん、おじは、存命中なんだけど、そうでない、疾うの昔に黄泉路へ旅立った方々も。

キャスティングされているのが、このおじおば会でもあり。

この会に限らず、どこでも、そんな感じで、南方熊楠的にいえば、幽冥界が現出している、と。

まるで我一人で生きてきたような、ってのが、デフォになりがちではあるけれど。

その、我、の後ろ側に無数の、キャラクターを携えた方々の存在がね、ある、というわけだ。

さらに、その我が、未来のどこかへ繋がって行き、血縁のみならず、地縁、であったり。

後なにかな、芸の縁、職の縁、言い出せば数かぎりない縁の連鎖。

それを持って、我、と単に呼び習わしているに過ぎず。

ま、現在の代表選手、とでもいうか。

食や色や異性への好み、なんての、あるけれど、明らかに、あれ、自分の創造したものじゃ、ないよね。

もちろん、育った環境なんてのも一因、という言い方できるけれど、それだけでは。

とてもおぼつかないもので。

残念ながら、今のところ、DNAを分析しても解明されていない、んだよね。

たぶん。

なんて書いてくると、DNA教の教祖、なんて宣っていた大将、思い出すけど。

いずれにしても、見える世界と見えない世界の両方を結びつける、融合。

なんてことが、大事なことでもあるんだろうけど、ともすると、目の前のリアル現実。

ってのに、占有されがちではあるね。

この事務所に引っ越して何年になるか、5年か、6年か。

昨日、朝礼時にラジオ体操やりながら、天井と壁の境を見るとはなく見ているときに。

ひょっとしたら、そこらあたりに、前の方々がいらっしゃるのかも、なんて思ったんだ。

もちろん、喜んでくださっている、という気分で、なんだけど。

わが神棚の榊、ほんとに、ご長寿で、未だに青々としいる彼ら、そろそろ、一年になるんじゃないかな。

半年、ってこと、ないからね。

元気で、若芽まで出し始めちゃって。

毎朝の水換えが、彼らとの交流の時間で、秘密をバラしちゃうと。

愛と光の交歓の場、でもあって。

なんて後に、今朝は、イフニさんのビターブレンド。

さて、こちらも雨の降りだす前の、わがカラダとの対話に入るとするか。

1000歩ほどのウォーキングも、頭を使わない、というか、五感から六感、七感などなど。

それにはもってこいの時間で、それこそ、メッセージ来臨のお時間で。

わが至福の時でもある。

どうも、このところ、至福の時間があちこちにあるようで、めでたきことの限りなり、って。

今朝は陽光は拝めそうもないけれど、雲の向こうは晴れ、って具合で。

太陽の光、エネルギーは、雲を突き抜け、わが方へやってくるわけで。

松果体へのエネルギー供給の時間でもあるな。

70兆?わがカラダを構成する、一つ一つの生命たる、細胞への供給でもあり。

そりゃ、彼らも、元気溌剌、ってことだ。

そこへ、Joyが混じれば、こいつぁ春から縁起がいいわい、ってなもんだ。

 

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分裂病を押さえる思想

2018年06月15日 | Weblog

中沢新一が、「猫楠」という南方熊楠の一代を描いた漫画の。

作者、水木しげるとの対談で言ってるのが。

表題で、その思想ってのが、ヨーロッパがつくってきた思想なんだ、と。

現在のグローバリズムやら経済至上の、効率優先の思想にいたると思えば、なるほど。

と深くうなづきたくなるもので。

西欧由来の、組織論しかり、経営論しかり、と大雑把にくくっちゃえば、乱暴すぎかも、だけどね。

理智界と幽冥界、その両方を生きた熊楠、半分に割いても平然とその生を貫ける大サンショウウオ。

そんな大妖怪は、明治以後、わが大和島には現れぬ、と同じく、あとがきで書いてるのが。

いかにも、熊楠の生まれ変わりみたいな荒俣宏で。

そう、分裂病的なもの、昨日アップした流れでいけば、ネガティブな空気でさえ。

その中でたゆたふ、というような。

そんなところにも合い通じ、どこか他のところ、別のところが、もっと素敵な場所なんだ。

というような、とにかく、行動、行動、というのと違い、この今を味わい尽くす。

とでも言えるか。

今しかない、とも。

もっとも、そんなヨーロッパの思想が、水洗トイレやら電化製品やらを生み出した。

のも、間違いではなく。

どちらがいい、とも簡単には言えないのだけれど。

あとは、好みの問題か。

いずれにしても、このグレゴリウスの暦に洗脳された状態では、分裂は、悪!と断罪されそうだよね。

そこにあるだけでOK!なんてことが、悠長で、効率悪く、なんて言われそうな。

そんな空気の中では、「自分のふり」をして過ごさざるを得ないのだけど、それが、諸悪の根源。

みたいな言い方をしていた、女装した教授、安冨歩さん。

あんまり詳しく、彼のこと、知らないんだけど、最近読んだ小文が。

腑に落ちた次第で。

他人に眺められた自分、という位置関係ね。

それが自分である、との勘違い、そんな大合唱、ってのが、学校をはじめとした。

旧来の組織の在り方で、あるいは、そんな組織の中でうまく生き延びるための術、みたいな。

そんなことを書いていたな。

例えば、いじめられている子どもたちに、学校なんか捨てちゃえ、というメッセージを投げかけろ。

というような、穏やかな言い方のゲキ、だったな。

ふりをした自分からの解放、まるで、尾崎豊の、この支配からの、卒業、って歌みたいだけど。

 

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三木助で「宿屋の仇討ち」を聴いている

2018年06月14日 | Weblog

くどいけど、you tube、ってのは、便利なもので。

車を運転しながら、Bluetoothってわけだから、線も繋がずに、iPhoneの画面をタップするだけ。

なんだよね。

わざわざ、三木助で、とタグをつけたのも、以前、図書館で借りたDVDを、それこそ、借りまくり。

なんて時期があって、そこには、三木助だと。

だいたい、「芝浜」、「鼠」、「三井の大黒」くらいだったか。

もともと、床屋さんだったそうで、あの頃は、職人の世界で、カタギじゃない。

というカテゴリーに入るんだとかで、志ん生みたいに、博打大好き、というね。

ネイティブの江戸人、みたいな語り口。

もっとも、ネイティブの、なんて人、どんなだか、知らないんだけど。

隅田川で取れるシラウオを、醤油につけると、スーッと、醤油色になる。

それがうまいんだ、なんてサワリから入る「芝浜」が、好きだった。

談志のもいいけど、どうもね、僕は、こちら、三木助の「芝浜」をとる。

なんて書いてきても、落語、ご存知ない方は、はいはい、そうなんですか。

ってなもんだけど。

この間中、気に入っていた「志ん生一代」を書いた結城昌治さん、そこへ行くと、うまいもんで。

落語の筋を、一筆書きで、ちゃっちゃと、紹介していてね。

だったんだけど、当方、そんな芸はなく、なので、端折っちゃってます。

そう、上記、醤油、なんだけど、もちろん、三木助は、違った言い方だったんだけど、忘れました。

今朝は、この表題で、というのが、あったんだけど、それ、思い出せなくて。

仕方なく、三木助が、みたいなものになっちゃってるんだけど。

なんだったかな。

割と、面白そうなネタのはずなんだけど、記憶というのは。

宇宙規模の大きな楕円軌道を描いていて、今ここにあったと思ったら、その軌道に乗って。

遠くの、悠遠のかなたに飛んで行くそうだから、今度やってくるのはいつになるのか。

って次第で。

ま、待ちましょうか。

「待つ」、という本を書かれていたのが、飯田の上の、恵那だったか、違うか、伊那か、そこらあたりの住人。

加島祥造さんだったな。

短兵急に、結論を求めず、くらいの話だったか。

最近、密かなマイブーム、ネガティブ・ケイパビリティ、って奴にも似ていなくもない。

その場を逃れるような、納得の仕方とか、結論の出し方とか、手打ちとか、そんな所へ行かず。

待つ、あるいは、その場にたゆたふ、とかね。

すると、大きな宝物が手に入りますよ、くらいの話なんだけど。

もともと、イギリスの詩人、キーツが言い出したらしいけど、シェークスピアもそのデンだった。

なんてことらしい。

ま、名うての芸術家なんてのは、そうなんだろうな。

さて、涼やかな空気を吸いながら、かつ、朝日を浴びながらの骨ストレッチに向かうとするか。

朝日を浴びながら、ってのは、松果体へのエネルギー供給になるそうで。

 

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香川が点をとった

2018年06月13日 | Weblog

昨日のビッグニュースは、そういう事で。

パラグアイ戦での得点シーン、後半の残り少ない時間帯だった。

あれは、10年くらい前なのか、日本代表に初招集、初出場の時の。

左サイドからの左足でのシュート、覚えてるんだな。

そのころの代表、形を作るのは好きだけど、最後のシュートを打つ。

エゴイスティックに、という文化がない中、彼は、たしか、10代だったけど、そのシーン。

以来、ヨーロッパへ行っても注目していたんだけど、そんな彼も。

20代の終わりに近づきつつある、そんな年月の流れの中。

ってわけだ。

スペインで活躍する乾も二点とったし、果たして、コロンビア戦での布陣やいかに、ってとこだ。

ビッグニュースといえば、昨日は、やっぱり、米朝会談。

この、米朝、と書くと、どうも、桂米朝、と繋がり、あの賑やかな上方落語を思い出しちゃうんだけどね。

声というのか、独特な、ああ言った声は、なんて表現したらいいのか。

艶がある?色気がある?華やか?

どれも違うような気もするけど、猥雑なやかましさとも違うな。

なんて事なんだけど、そう、こちらは、トランプとキムの物語。

テレビの放映、それへの反応、なんての、心得ているんだろうね。

テレビ+SNSという合わせ技、一本、って感じだ。

いずれ、歴史は、言ったもん勝ち、囁かれたもん勝ち、それに、学者さんたちが、後講釈を上手につけて。

って風情で。

面白かったのは、あの時間帯、会談が終わったね、欧米のどこかのメディアが、合意書を大写しにして。

1から4までの、合意事項を発表したのを受けて、日本でも翻訳されて、各局、報じるんだけど。

英文から翻訳された文面から、専門家と称する方々が、例えば、拉致の解決に向けて言及してますね。

なんてやったり、英文を見る限り、米兵士についてはそうだけど、拉致ということについては。

どう読んでも読み取れません、なんてのが、あったり。

ま、いずれにしても、大きなニュースであることは間違いないね。

ついこの間まで、例えば、関ヶ原でもいいけど、あんな時には、下々の、一般ピープルは。

どんな具合に、ニュースを受け取っていたんだろうね。

客観報道、なんて事象、なかったんだろうし、それぞれがそれぞれの生活のシーンから。

覗き見していたんだろうから。

それを、劇作家、とか、あの頃は、軍艦奉行、じゃなく、記録係みたいな方々もいらっしゃったのだろうけど。

それにしたって、リアリズム、って文化、手法があったのかなかったのか。

忖度の限りを尽くし、とか、世論喚起のために、とか、兵法の一つとして、そんなんだっただろうね。

こちらは、歴史家ではなく、素人研究家とでも言えるか、そんな立ち位置なんで。

面白おかしく、それらのことごとを、感受すればいいんだけどさ。

さて、今日も行きますか。

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七夕に安全大会

2018年06月12日 | Weblog

毎年、この時期になると、安全大会開催、となるんだけど。

今年は、うっかりと、7日に設定してしまったわけだ。

七夕さん。

グレゴリー暦に、すっかりと洗脳されて、空いてる日々埋めていく、という作業に。

なっちゃってるんだよね。

困ったもんだ。

なかなか賑やかなお祭りに、協力業者さんたちが輪をかけて集まる。

無粋な、ということになるな。

しかし、これはこれで、なんらかの意義、意味があるんだろう。

牽牛と織女が一年に一回、会う事になる七夕。

子供の頃は、短冊に願い事、書いたりしたんだったか。

普通に生きていると、イベントが後から後から押し寄せ、というか、自分で引き寄せ。

とも言えるか。

古来の習俗は、知らぬ間に過ぎ去り、なんてわけで。

おじおば会の車中、母やおばたちの話を聞いていると、一つ一つのイベントに対する。

思い、というのか、大事にする、その仕方に畏れ入りもするんだけど。

そういうことは、真似したいもんだ、と思うのです。

が、ままならず、と。

ちょっと、ゆったりゆっくり、というのがいいかな。

とはいえ、深奥から湧き上がる思い、それへのリスペクトを考えると。

ま、どちらでもいいか、ともなるんだけど。

今朝も青空。

ベランダにスイカが実をつけ始め、夏が来ぬ、って次第。

子供の頃は、スイカが大好きで、まさに夏の風物詩。

縁側で、冷えたスイカ、というのが定番で、冷蔵庫も小さかったか、なかったか。

風呂桶へ貯めた冷水につけて、なんて感じだったのは、いつ頃までの話か。

話といえば、こちらの噺。

you tubeというのは、大したもんだね、円生、志ん生、志ん朝、談志、小三治、三木助。

なんでもありで、聞いた事のない噺が満載。

このところ、それを楽しんでいる。

さて、今日を始めるか。

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天孫降臨するにはなくてはならないものがある

2018年06月11日 | Weblog

降臨している方々を、懐かしいな、と思う人々がね。

必要なんだな。

一昨日の法事を経て、そんなことに思い至り。

つまり、天孫降臨というのは、ご先祖様がた、ということなんだけど。

思えば、そこに降臨なさる、という仕組みでもあり。

そこが、そのことによって、笑いの、和やかな渦となれば、それはそれでいいし。

しめやかな、静穏に包まれても、それも一つだしね。

いずれにしても、目に見える、手に触れられる世界だけが、単独で存在しているのではない。

ということがね、実感として、感じられれば、そこに青い鳥がいる。

あのあと、わが家にやってきたいとこが、何十年と経って、思い出して、話題にしてくれる人がいなければ。

なんて言っていたんで、そうか、それで、50回忌ともなると、神様になる、なんて言い方。

残されているんだな、と。

集合知とでもいうのか、長く続いている習俗には、それなりの意味があるんだろうね。

昨夜のせごどんは、また、泣きながら観ていた。

討幕派として勇みたつ、弟や有馬新七たちを前にしたシーン、刀を外して彼に渡し、俺を切れ。

みたいなのね。

国父久光の逆鱗に触れ、またあれで、沖之永良部島へ流されるのか。

なんてこと、味わいつつの時間だった。

神話、ドラマ、ストーリー、虚構、なんていうのか。

鹿児島では、どんな風に、あの大河、観られているのかな、なんて思うね。

なにせ、かの地の方々は、西郷さん、好きだもんね。

わが駿河、清水の地も、ついこの間までは、次郎長さん、だったんだけど。

いつの間にか、エスパルス、ちびまる子ちゃん、になっちゃったな。

渡世の義理なんての、流行らなくなっちゃったからね。

それも仕方ないか。

そんな具合に、ご当地の英雄を、挙げ奉り、というので神社なんかの御祭神、となるのか。

さて、今朝は新聞が休みだ。

朝の5時前から、新聞屋さんを待っている、わが同級生の御仁は、こんな時、どうするのか。

なんてこと思いつつ、この辺で。

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大気圏外にいると骨粗鬆症になるらしいね

2018年06月10日 | Weblog

つまり、重力圏外だ。

腰痛やら肩こり、などなどの痛み、その大元を辿ると、重力なんだ。

というわけだ。

言われてみれば、なるほど、そうかもね、と。

無重力であれば、骨もいらない、筋肉もいらない、という具合に。

わがカラダくんたちは、判断をはじめ、それらのものが退化し始め。

というのが、最近、DVDまで取り寄せた、「静」という施術教則、今までは。

口伝で、5000年、伝えられた、なんておどろおどろしい副題も付いたりね。

そんなやつ。

秦の始皇帝が、あまりにも強力ゆえに、裏へ押し込めた、なんていかにも。

というウタイなんだけど。

なんてこと、見たり聞いたりすると、宇宙旅行なんてのは、至難の技、というか。

むしろ、無謀な、とも言えるか。

そもそも、この重力、この認識力で旅をしても、深い旅はできない。

ホリエモンなんかは、それでも宇宙への夢やまず、みたいに頑張ってるけどね。

そうそう、先週末、呑みの前の前、ぶらぶら歩いていると古本屋さんに巡り会い。

しばし、そこに佇み、と、面白い本、たくさんあるんだよね。

店内放送が流れ、テキパキ感のある、今風の古書店とは違い、昔ながらの。

オヤジが所在なさそうに、の店番、という。

オヤジがお兄さん、でもあったけれど。

起業精神旺盛の方々が、どんな商売でも、改革、革新、イノベーション、ということで。

あっという間に、まったく新しいビジネスモデルに様変わりさせ、というのが。

現代のシーンなんだけど。

そこだけ、時代の進化から離れ、あるいは、取り残され、みたいな風情は。

たまには、刺激的でいいもんだ。

もう一つの、わが世界、南方熊楠なんだけど、あれ、NHKの大河ドラマにしたら、それこそ。

刺激的で、面白いものになるんだろうな、と思いつつ、読んでいる。

豪放磊落とも違う、奇人変人とも括られてしまうか、そんな熊楠なんだけど。

アメリカへ6年、イギリスはロンドンへ8年、帰国するのが明治の30年。

18か国語を操り、「ネイチャー」への多くの寄稿、などなど、を経て。

そのタイミングで、夏目金之助、漱石だね、彼がイギリスへ旅立つ。

わがおすえさんが、二つか三つの幼児の頃だ。

昨日は、半分はそのおすえさんから始まる末裔たちが集まり、叔父の法事。

払いの席では、わがテーブルが盛り上がり、笑いの渦に包まれ、時折、その叔父の話題にもなり、で。

今まで存命した、この何年かで黄泉の国へ旅立った方々が。

そのテーブルの上に降臨。

まさに、天孫降臨、ってなもんだ。

心してみれば、そこここに、彼ら彼女らの名残は留まっていて。

異次元の世界が交わる瞬間、時間というのが、ああした法事でもあり。

長い長い人類の年月が創造したイベントだな、と思えるのだけれど、徐々に簡略化していく。

なんて話を聞くんだけど、その大元にあるのは、一体なんだろうね。

それほど、こちら側の生活が忙しいのか、それとも、他に何か理由があるのか。

重力によって、今この現在の骨格が出来上がったように、諸行無常。

いつだって、ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず、ってわけだ。

どんな骨格の社会になっていくのか、ってことだね。

上記の古本屋さんで買ったのが、「三亀松」、談志が最後の芸人とか言ったのかな。

まだ読むに至らないので、詳しくはわからないんだけど、「志ん生一代」が面白かったので。

その流れで買っちゃった、という病がまた出てしまったのです。

さて、雨になるという日曜日、その前にボール・ウォーキングをするか。

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