中沢新一が、「猫楠」という南方熊楠の一代を描いた漫画の。
作者、水木しげるとの対談で言ってるのが。
表題で、その思想ってのが、ヨーロッパがつくってきた思想なんだ、と。
現在のグローバリズムやら経済至上の、効率優先の思想にいたると思えば、なるほど。
と深くうなづきたくなるもので。
西欧由来の、組織論しかり、経営論しかり、と大雑把にくくっちゃえば、乱暴すぎかも、だけどね。
理智界と幽冥界、その両方を生きた熊楠、半分に割いても平然とその生を貫ける大サンショウウオ。
そんな大妖怪は、明治以後、わが大和島には現れぬ、と同じく、あとがきで書いてるのが。
いかにも、熊楠の生まれ変わりみたいな荒俣宏で。
そう、分裂病的なもの、昨日アップした流れでいけば、ネガティブな空気でさえ。
その中でたゆたふ、というような。
そんなところにも合い通じ、どこか他のところ、別のところが、もっと素敵な場所なんだ。
というような、とにかく、行動、行動、というのと違い、この今を味わい尽くす。
とでも言えるか。
今しかない、とも。
もっとも、そんなヨーロッパの思想が、水洗トイレやら電化製品やらを生み出した。
のも、間違いではなく。
どちらがいい、とも簡単には言えないのだけれど。
あとは、好みの問題か。
いずれにしても、このグレゴリウスの暦に洗脳された状態では、分裂は、悪!と断罪されそうだよね。
そこにあるだけでOK!なんてことが、悠長で、効率悪く、なんて言われそうな。
そんな空気の中では、「自分のふり」をして過ごさざるを得ないのだけど、それが、諸悪の根源。
みたいな言い方をしていた、女装した教授、安冨歩さん。
あんまり詳しく、彼のこと、知らないんだけど、最近読んだ小文が。
腑に落ちた次第で。
他人に眺められた自分、という位置関係ね。
それが自分である、との勘違い、そんな大合唱、ってのが、学校をはじめとした。
旧来の組織の在り方で、あるいは、そんな組織の中でうまく生き延びるための術、みたいな。
そんなことを書いていたな。
例えば、いじめられている子どもたちに、学校なんか捨てちゃえ、というメッセージを投げかけろ。
というような、穏やかな言い方のゲキ、だったな。
ふりをした自分からの解放、まるで、尾崎豊の、この支配からの、卒業、って歌みたいだけど。