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銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

1999NYArt修行記ー5 プラダを着てベンツを乗り回す女性不動産屋は、貧乏人と有色人種は決定的に無視した

2025-06-24 14:58:08 | 文化、芸術、書物

 私はね、文章を書くときに、これを将来は、一冊の本にしようねと、思いながら書いているわけではないのです。その日の頭脳の赴くままに書いています。その形式をよく神様が書かせてくださっていると、言っています。で、それ等の、群落するエッセーを、似たもの同士集めていくと、あれ、是って、一冊になるはずよと考えるのです。今回は、たった二週間の、膨大なお手紙のやり取りを、後から、1999年ニューヨーク修行記として、一冊にまとめることを思いつくわけです。しかし、計画的にやり取りしたわけではないし、あまりにも大量なので(そうですね。丁寧に分類したら、五冊できるでしょう。)、時系列的に探すのが無理で、これは、第二回か、、第三回として、置くべきものでした。まあ、単独のエッセーとして読んでおいてくださいませ。

副題1、『Nラインの終点の不動産屋は、如何にもクイーンズ、スタインウエイらしい、庶民的な不動産屋で、社長を見ていると、オペラフィガロの結婚を思い出した。しかし、これが優しく見えて、実は、手ごわい存在だった。』

 百合子は、1999年と、2000年の滞在中、四軒の、不動産屋を訪ねた。どれもチェーン店化は、していない独立系不動産屋だった。

 特に1999年に暮らした猫と坊やが、かわいそうだったマンハッタン島内の、シェアルームが、現地の不動産屋へ向かわせたのだった。ここは早急に出るべきだと考えたから。

 日本で、五嶋節さんの著書を読み、節さんと、みどりさんがニューヨーク入りして最初に住んだ家は、フォレスト・ヒルズにあると、覚えていた。で、フォレスト・ヒルズにでかけていった。

 散歩中の親切な外人のご夫妻に出会い、高価なオレンジジュース(天然のオレンジを絞ったもの)をレストランで、ごちそうになったが、物件探しはうまくいかなかった。

 で、ニューヨークの地下鉄駅で、タダでもらえる路線図を丁寧に、読んでみて、ディトマス・アストリアという駅に狙いを変えた。それはNラインという路線の終点の駅なので、不動産屋が絶対にあるだろうと、想像したが、ぴったりと当たっていた。

 そこには、1999年と2000年に、訪問した合計四軒の不動産屋の中で、最も元気で、賑やかな店があった。社長の雰囲気がオペラで有名なフィガロを思わせた。で、お客さんが、待つ時間を楽しくするために、ベンチが二つもおいてあり、そこにVOGUEなどの雑誌がおいてあり、まるで美容院だった。

 しかもお客さんがそのサービスに気がつかないでいると、自分で立ってきて、それを、読むように薦める。スマホが普及していなかった時期に、このサービスは、ありがたいものだった。  

 彼は統括者であり、他にレベルの違う、社員が、5人居て、前の方の小さな机で女の子が、受付を兼ねて、担当者を割り振っている。  

 百合子はナンバーツーにコンクリート製のマンションの三階の一室で、950ドルの物件に案内してもらった。彼が車を使わなかったので、これは、駅からの至近距離にある物件で、本当はとても良い話だった。部屋は北向きだったが、まるで海が見えそうな丘の上の環境で、抜群だった。「ここは南欧の感じがするわね」と百合子は、その子に行った。彼は何も答えなかったが、それは、当たっていて、実はここは、マリア・カラスなどを生んだ、ギリシャ系移民の多い町だったのだ。だから白づくめの部屋が、貸間になっていたのだった。白いじゅうたん、白いソフトな皮でできたふわふわの二人掛け用のソファー。最新式のテレビ。ギリシャには白い家が多い。

 ただ、1999年の百合子は、クレジットカードを使わない主義であり、三か月分の現金を持っていなかった。そのうえに、『この部屋で、絵を描く事が、じゅうたんが白くて毛足が長いので、上等すぎるからこそ、無理だ』と考えたので、即決をしなかった。次の日に、現金を2000ドル以上持って再訪をしたのだが、目の前で、二人の若い日本人女性にその物件を取られてしまった。 それで、即断即決が大切だと学び、はるかに格下の、連棟式のアパートの半地下の物件を、そのひの内に、借りたのだった。駅から、15分は歩くが、このアストリア地区は、大体安全なので、夜遅く帰っても、大丈夫だから、それでよかったのだ。   

 だが、タイミングとして、たった、10分ぐらいの差で、その日に初めて、その店に来た、若い日本人女性二人組に好物件をとられてしまったので、それは、もしかすると、自分が50代であるせいだろうかと、いささか、悩んだ。女性にとって、若いということは、一種の勲章なのだった。

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わあ、本当に興味深いお話ですね!ユリコさんのニューヨークでの旅は魅力的です。彼女の決意、自信、そして彼女が直面した課題が、彼女の旅をとても感動的なものにしています。 揚げ物店の詳細、人々とのやり取り、彼女が遭遇した人間関係の複雑さはすべて、彼女の体験を鮮明に描き出しています。彼女がその間ずっといかに強く、順応性があったかがよく分かります。

これは、例のフェイスブック友達からきている長い長いお手紙のホンの、一部分を、ここに置いている。関連があると私が思っているので。

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副題2,『ここで、どうしても、2000年に契約を交わした不動産屋に飛びたい。女性社長なのに、その手ごわい事、人種差別の強い事。そして、貧乏人を無視する程度は、ひどかったから、とても印象が濃いので』

 ここで、2000年の、9月第一週のルーズヴェルト・アヴェニューに戻りたい。仮寓の家を管理人同然に使っている、若い女性・・・・・日本での医者との婚約を破談になった、女性・・・・・との、関係が悪くなったので、「おや、おや、1999年と、同じことになりましたね。だが、今度は即断即決をしましょう」と、考えた百合子は、ルーズヴェルト・アヴェニューから、幹線道路を西に向かって歩いて行った。   

 幸いなことに路面店(不動産屋)を見つけた。入ってみると、デスクが一つだけあって、社長らしき女性が座っていた。プラダと、見える上等な、かつ、オーソドックスな形の、クリーム色のスーツを着ていて、プラチナブロンドの、髪には、緩いウエーブがかかっていて、長さが、まことに適切にカットされていた。   

 百合子より、背は、5cmは低くて、157cmぐらいの身長で、体重が、55キロぐらいと見えた。  

 百合子は、パリでも、ニューヨークでも、アーチストばかりと、付き合っているので、初めて接する、純粋なビジネスウーマンだった。  彼女は、「適切な物件がありますよ。貸主は、すぐ、こちらへ来ると思いますので、ここで、待っていてください」といった。 貸主は、サラリーマンだったが、会社は、休みの日だったのだ。彼は地下鉄に乗って、やってきた。くるまを、もっていなかった。あとで、わかるのだが、日系企業の、経理マンを、している、インド人で、非常に賢く、堅い人物だった。  

 その大家の、到着を待っている間、物件を見ないで、賃貸の契約書にサインして、大家を待った。三か月だけだから、少々の不満があっても我慢をするべきだと、思ったのだった。   

 社長は、おおやが、あらわれると、白いベンツを裏側から、店舗前に出してきた。そして、三人は、西へ向かって、車を走らせた。すると、前方、300mぐらいのところに、緑の林が見えた。

 百合子が、1999年に住んだディトマス・アストリアは、後発の、移住者の街であり、はっきり言うと、貧乏人の街だった。今度住むことになる、スタインウェイも、同じ区部に属し、どちらかというと、貧しい地域だった。だが、連投ではなくて、一戸建ての家が多い。それは、ケネディ空港とマンハッタンを結ぶ幹線道路ぞいだから、だろう。しかし、フォレストヒルズより、格が落ちるらしくて、各一戸建ての庭が狭くて、植木類が見えない一帯だった。 

 で、百合子は、その2000年9月7日に見た300m先にある緑を、非常に珍しいものだと考えた。  

 で、目の前で、ベンツを運転している女性社長に向かって、「あの緑は、何なのですか?」と質問をした。「なんとか、公園です」という返事を期待しての質問だった。ところが彼女は無言だった。  

 ともかく、軽蔑されている模様だったが、今のところ、百合子は、顧客である。プラチナ・ブロンドの、女性社長は、純粋な白人である。一方の百合子は、黄色人種の、しかもおばさんだ。でも、大家が到着するまでの、30分間英語で、やり取りをしたわけで、百合子が、英語ができることを彼女は知っている。   

 なのに、どうして無視するのだろう。と、いぶかしく思った。百合子の英語は学校での学習だけ・英語だが、イントネーションも発音も素晴らしいと、外人から、いわれている。どうして、軽蔑されるのかが、わからない。だが、右隣に座っている大家も黙っているので、百合子も黙った。  

 だが、後日理由が分かった。そこは貧しい人たちの住む公営住宅だったのだ。

 しかし、然しなのだ。その白人女性社長が、軽蔑しきった、公営住宅で、私が、大変よく知っている、ペルー人の、版画家が、2001年の、八月に、孤独死した。2000年の版画工房で、最も長い時間一緒に、過ごした間柄のホアレス。五冊目の自著【黄色いさくらんぼ】の中の、二人目の重要人物で、それを再販できたら、そちらに、大量の新原稿を入れようと、思っているが、ペルーから、来た、多分、不法移民で、従って、なんの社会保障も、受けられず、ガスも水道も止められた中で、飢え死にをしたのだった。

   黄色いさくらんぼの中ではエドゥアルドという仮名で、呼んでいるが、本名を、ホアレスと言い、ロートルで、前から、語っている、学資ローンに苦しむ青年ではない。そちらは親が医者だと言う事と、白人の血が入っているので、美形だった。が、ホアレスは、現地人系が強く出て、顔は、茶色のおじさんというだけで、美形ではない。その上、露悪家で、しかめっ面ばかりしているし、時々は百合子をだまそうとしたので、百合子は、先住の日本人であり、工房を牛耳っているミミに同調して、ホアレスを、劣等な悪人だと、思い込んだまま、1999年と、2000年のニューヨークを去った。

 今、入院中で、、黄色いさくらんぼの、原稿が、無いので、ホアレスに、ついて、詳しいことを、語れないのだが、、、、彼は、一時期、日本人女性と、同棲していて、さつまいもいりの、蒸しパンを、持ってきていた。それが、かれの、24じかんを、もたせる主食だったのだ。それさえも買えなくなって餓死したのだった。しかし、百合子は、彼のそんな事情には気が付きもせず、毎日、毎日、韓国じん経営の、おそうざいやさんに、行き、朝と夜は、自分の家で食べるから、ここでは、外食ですと、決めて、十時間以上過ごす、版画工房では、目一杯、ハドルから、十ドルたべていたのだった。ああなんと、残酷なことを、してしまった事かと、いまでも、眼がじーんとして来る。

 しかし、それほど、貧乏であったホアレスの実情を知らないでいた時期、彼と、初めてソーホーで出会って、彼が百合子が使うNラインに乗り込んできた日の話を語りたい。 

 ここでは、日本版画協会の、封筒が重要なアイテムとなって来る。

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副題3、「フジテレビの幹部が、午後四時から、午前一時まで、リンチ的質疑応答にさらされたと、言うニュースを見て、また、次になんとか、なぎさという女子アナが、フォトエッセーとかを出し、マスコミにちやほやされているのを見て、おー。おー。これも、日大フェニックス殺しと同じ伝で、作られいる部分があるニュースですねと、思い至る。なんとか渚という女子アナは、日大の宮川泰介選手と同じ、道具なのだ。誰の?と問えば、日本を牛耳っているやみの勢力だ。

百合子は中居何とかのペニスが、なんとか渚のワギナに入ったのだろうと思う。それが、被害なのだろうと思うが、そこに至る前に、20段階ぐらいの逃げるチャンスがある。それらの段階に応じた優雅なやり取りを使えば、100%逃げられると思うが、逃げられなかったらしい。でも、おかしい。不思議だ。

 これは、結局のところ、フジテレビが報道番組内で、右翼的論を展開する人物を画面に登場させているので、それを罰して、会社を潰そうとする狙いがあると思っている。

 で、男性からの、セックスを断るやり方だけど、ここで、百合子が、1999年に使った手法を語らせていただきたい。

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 ホアレスとは、ソーホーの日本人経営の画廊のオープンぐパーティで出会った。26年後の今考えると、そこで出てくる、サンドイッチやら、カナッペも、ホアレスにとっては、重要なたんぱく質補給源だったのだろう。

 そのオープニングパーティ中、ホアレスは、百合子にくっついて来て、カバンの中身を取り出し、或る封筒を取り出して見せた。しかし、洋封筒とは、宛名と同じ面に、差出人名も入っているので、百合子はそこを凝視した。すると、英訳はされているものの、日本版画協会が出した封筒だった。

 百合子は内心では、なあーんだ。ばかばかしいと思う。こんなものは日本版画協会が、出品したいとメールなどで、申し込んできた人、すべてに送る、多数同じものがアメリカにはあるはずで、大した価値のないものだった。もしホアレスがその展覧会で、受賞をしたなどとなっていたら、彼は、その手紙本文を見せるだろう。

 百合子はすぐさま、「ばかばかしい。こんなものを偉そうに見せつけるなんて、この人の頭って、50%はバカですね」と思うが、そんな顔つきは一瞬だって、他人には見せない。大げさに驚きもしないが、否定もしない。すると、ホアレスは、効果が無かった、その封筒をしまった。次に百合子が興味を引きそうな話題を次から次へと出してきた。画廊を出てからしばらく歩くと、ビジネス街へ、到達し、立派なビルが現れたが、そこにベンチ風なでっぱりのあるビルがあった。そこへ百合子を誘い込み一緒にすわり、更に彼は、話をつづけた。

 百合子はすべての話題に、応答的な会話を返すことはなかった。典型的な、中年日本人女性風に「ヒアリングはできますが、スピーキングはできません」と言う感じで、対応をした。なぜ、そういう態度をとり続けたかというと、ホアレスが画廊内のほとんどすべてのアーチストとあいさつを交わしていたので、なかなかの実力者らしい。こういう人を敵に回したら大変だと、思ったからだった。それでも、決して興に乗らなかったのは、洋服が古いことがわかっていたからだった。百合子は、洋服の値段で、ひとを差別することはない。だけど、洋服の質については、母の教育のせいで、子供時代からの目利きであり、どんな繊維でできているか、また、ケイ年数等もわかるのだった。ホアレスの洋服なすでに、20年は着古されているものだった。で、威張りかえっているが、この人の社会的地位はそれほど高くないだろうと思って、はしゃがなかったのだ。だが、失礼な態度はとらなかった。

ホアレスは、その後百合子をNラインのどこかの駅にいざなった。Nラインは、終点が、ディトマスアストリアだと言っていたが、驚いたことに、2025年に、ぐぐると、ディトマス・ブールヴァードという終点名になっていた。ともかく、入院中で、紙の資料を見ることができないので、ちょっとしっかりした、結論は出せないが、ニューヨークも百合子の過去ブログを否定する方向で、地名変更がなされているのだった。

 ともかく、ホアレスは、百合子がNラインで、かえると聞いて、一緒に帰りましょうと言って、 どこかの駅にいざなった。その駅は、マンハッタン島の、南にある駅。で、十分に空いていたので、二人で並んで椅子に腰かけた。

 しかし、夜8時ごろ、そこから、順に北へ登って行くうちに電車は、サラリーマンたちで、満員になりった。この路線は、マンハッタン島を出ると、地上を走る。で、電車内は静か。

 で、彼は、「あなたは、終点で降りると言っていたでしょう。そこから歩いて何分?」とか聞いて来る。百合子は怒った顔もしないけれど、にこにこもしないで、「うーん。何分かなあ」と答える。

 「まだ、計ったことは、ないのよ」なんて、続けない。

 そんなことを、言うのは、相手の術中にはまる事に繋がると、知っている。

 次に、「ねえ、君の版画見せてほしいなあ? さっき、版画家って言っていたよね」と、続く。でね。おお、本丸に近寄って来たな?と思うが、「うーん。まだ、荷物、ほどいていないのよ」と、答える。

 これは、百合子の方が嘘をついている。ソーホーの画廊の夜六時から開かれるオープニングパーティに参加するなんて、1999年の10月半ば過ぎでしょう。にゅーよーくにまだなれていない9月には、オープニングパーティまでは、参加していない。

 でも、彼には、自分が今、プラットという美大の大学院に通っている最中だなんて話は、一切しない。もし、話が進行したら、「一週間前に来たのよ」というぐらいに、嘘を重ねてもいいと考えていた。そうこうしているうちにホアレスがあきらめた。 39st という駅で彼が下りると、目の前に立っている乗客が、「ほら、傘!」と言った。その人が指さす方向を見ると、百合子とホアレスが座っていた場所に彼の折り畳み傘が残っていた。

 百合子は座ったまま、まだ、空いていたドアに向かって、「ホアレス。ほら、傘、傘!」と叫んだ。そして、ポーンとドアから、傘を投げた。ホアレスも、百合子の声に気が付いて、電車の後尾に向かって、姿勢を直したので、きっと傘は、拾えたはず。

 さて、安心して、ほっと、一息つくと、なんとない視線を感じるので、眼を上に向けると、乗客みんなが百合子の方を見ていた。その時、百合子は57歳でホアレスも同じ年。  

 二人の57歳が、これから、百合子宅へ行って、セックスをするかどうかの微妙極まりない会話を続けた最後に、「かさ、かさーっ」と、百合子の方が叫んだ子供っぽい終着。それをみんながほほえましい事だったと、考えてくれていることがわかった。頬があかくなると言う感じを、久しぶりに抱いた。  

 こんな笑い話で、終わらせながら、百合子は今でも、眼に涙がにじむ。ホアレスの事を知るにつけ、彼に、サツマイモ入りの蒸しパンの作り方を教えた、最初の日本人妻の、二代目をホアレスが必死で探していた事に気が付くからだ。百合子は、肌が白い。そして、顔はおかめ系で優し気に見える。だから、ホアレスは意気込んだ。「この女と一回セックスをしてしまえば、あとは俺の自由自在さ。ともかく、一回寝てしまえばいいんだ」と、考えたホアレスの必死さ。それが、性欲から生まれたものっではなくて、彼の極端な貧しさ・・・・つまり、三年ぐらい、サツマイモ入りの蒸しパンだけで生きていて、その材料さえ買えなくなって、飢え死にした人生を思うと、毎日、毎日、8ドルから10ドルの、ランチを同じ場所で、食べていた自分がどれほどに、残酷なことをしていたかに思いが至る。アーティストなんて、ほとんど収入がない。ホアレスに、スリを、頼む友人たちも無名であり、高く版画がうれるわけでもない。そうすると、スリ代も高くない訳で、

 ホアレス、ごめんね。生きている間に、あなたの本当の気持ちやら、本当の気高さを理解してあげられなくて。あなたの露悪家ぶり、あなたの、しかめっ面、すべて、あなたが、自分の本当の状況=極限の貧しさを隠す小細工だったのですね。  ごめんね。ホアレス。生きている間に、ただしく、理解をしてあげられなくて。ほんとうにごめんね・・・・・

  25-6-25  雨宮舜(本名、川崎千恵子)

 

 

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1999 NY修行記プラットー4  実力オジ≒小遣いさん・ゲーン VS 名門出身教授ケイ 二人は何と違っていた事だろう

2025-06-24 00:02:19 | 文化、芸術、書物

 さて、今の私は、興が乗っているので、二つ目のテーマに入ります。つまり、プラットインスティテュート*の中に入っていきます。しかもですね。意外なお話に入っていきます。ドラマチックだぞー。尚、黒字は、フェイスブック原文、紫色の部分は、今回私が入れた補追です。

 また、午後二時半に、この中の重要な二か所に、個人的に頂いたコメントを入れてあります。それは、登場人物たちにも、私にも助けとなるからです。

 *アメリカの美大、すべての大学を混ぜた、総合順位で、24位の単科大学、。ブルックリンに、美術学部、マンハッタン島に、経理等を教える学部がある。百合子は無論、美大の方へ行こうとしているところだが、銀座でアメリカ人女性に質問をした際に、大学へ入りたいとは、言っていないので、おしえてもらったここが、工房のつもりで、地下鉄に乗っている。住所は、最初のシェアハウスの大家夫人の友達の一人が、日経新聞ニューヨーク支店の仕事をしていたので、すぐわかった。当時パソコンもスマホも使っておらず、日本からはその大学の住所さえ知らないで、渡航をしている。

副題1、『版画の学部で、非常に信頼されている実力者ゲーンに出会った。すべての幸運はゲーンが招いてくれたものだった。ゲーンは階級としては、所謂小遣いさん扱いだろうが、プラットという美大の版画部は、ゲーンによって持っていると言ってもよかった。だが、ゲーンは大学院の方には一切関与しない。その大学院で、百合子が陥った不幸が生まれる、のだが、この章ではまだそこまではいかない』

 百合子は、どこでも、海外でなら、それがパスポートになる、自分の油絵(小品)三点ぐらいと、版画五枚ぐらいをバッグに入れて、訪問をしたのですが・・・・・あ、チャー、大学だったと、門を入って、そうそう、理解をしました。「まずいかなあ。日本の卒業大学に関する書類は何も持ってきていないよ」と、感じました。

 しかし、たった一年強の修行とはいえ、私の、版画に関する知識は豊富です。で、版画教室とは、絶対に一階にあるはずだと、判断をしました。版画には、各種の薬を使います。たいてい800倍から1000倍に薄めて使うのですが、それでも、ゴム手袋をして扱います。その原液を、誰かが、ふざけて、三階のまどから、下へ、たらしたりしたら、それこそ、救急車を呼ばないといけません。

 で、広い芝生の中庭に沿って、建っているいくつかの棟の中に、一階の窓が、ひときわ多い建物を見つけ、あ、あそこでしょうと、判断をして、その中に入っていきました。版画は、ガスも出るので、窓を、大きく開けて換気をするのだと、思います。

 入ると、思った通り、窓際に腐食用の薬の入った、大きなトレイが並んでいる版画教室が、表れ、それも、いくつもあることも知りました。後で、わかるのですが、これは大学一年生から、四年生までが使う教室でした。

 このおじさんのことを仮名、ゲーンと、これから、名付けます。このおじさんと、1時間以上、個人的な会話を交わしたことが、プラットのすべての門が開くきっかけとなりました。百合子は結構人懐っこいのです。政治的裏が無ければどんな人とも仲良くなれます。

 午後3時過ぎなので、あたりには誰もおらず、百合子は、丁寧に、丁寧に、観察しながら、たてもの内を歩いていきました。

 すると、特別に変わった部屋が現れまし。主は、大きな安楽椅子に座って北側を向いている男性です。彼は気難しそうでした。彼が、廊下側の開いているドアの外をみて居なかったので、百合子はそれを幸いとして、あいさつを交わさない段階で室内を観察しました。

 そこには、床から天井まで、棚がありそこに、これでもか、これでもかというほどの薬、紙、へら、刃物、インクなどが、詰まっていました。その部屋は、四畳半ぐらいで、奥に暗室があると見えました。フォトエッチングという工法があり、それをやりたい学生を、この男性が指導 もしくはサポートをしているのだと判断をしました。

 百合子は、東大に勤めていたことがあり、文系ではない科目では、こういうおじさんを雇っているのを知っていました。東大卒ではないのだけれど、実力満々の人。

 このおじさんのことを仮名、ゲーンと、これから、名付けます。このおじさんと、1時間以上、個人的な会話を交わしたことが、プラットのすべての門が開くきっかけとなりました。

 ゲーンは、日本でも、まだ、いるかもしれない、ふるいタイプのまじめなおじさんで、物事を見る目がまっすぐでした。で、百合子の作品、油絵と版画を見るなり、高い実力がある、本物のアーチストとして認めてくれました。で、そこから先の会話ですが

 百合子の方が、「へいたーという特殊な工法の版画をやっていて、銅板を深く、腐食させる必要があり、塩化第二鉄・原液2リットル入りを買いたいのだけれど、東京でも、パリでも、専門店にしか売っていなくて、NYでも、パールペイント(世界堂に似ているお店)でも、売っていなかったのです。どこで、買えるか教えてください」というと、「ああ、ぼくが取り寄せてあげるよ。僕にお金を払えばいい」と言ってくれました。後で、わかるのですが、アメリカ本土、ニュージャージー州のド田舎に、大きな倉庫を六棟も持つ、世界最大の、美術用品卸店、レンブラントがあり、そことの縁が出来たのもゲーンのおかげです。

 そうこうするうちに、ゲーンは、つっとたって、「僕についておいで」と、言いました。ついていくと、美麗な壁紙やら、美麗な猫足の、そして絹張りの椅子が置いてある・・・Fine Art Office ・・・という部屋に到達し、私は、上品な紳士である学部長に紹介をされました。そして、学部長は私を美大大学院の学生として、入学許可させてくれたのです。そこから、小説五冊分ぐらいの、面白いお話が展開します。どうか、お待ちいただきたく存じます。

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副題2、『その新しいフェイスブック紙上の友人を信頼しきっているがために、一般社会向けのブログ等では絶対に書かなかったであろうことまで、書き始めていた。

 上の節の最後の二行はこの新しいフェイブック紙上のお友達へ向けて言っています。親切な人なので、信頼しきってこう言っています。

 それから、パールペイントというのは、中華街、Canal streetに存ったお店で、1999年には新宿の世界堂が、今ほど大きくなっていなかったので、私は、こちらの店の商品の種類の多数さに驚きました。五階建てだったと思います。真珠というのは、珠江飯店などと言う中華料理屋がある様に経営者の出身地を指していると思います。

 ところがこれが消えているのです。あれほど、大きなお店が破産するわけがなくて、政治的弾圧の一つとして消えたのです。誰に対する弾圧、無論雨宮舜(本名川崎千恵子)に対する弾圧です。だからこの親切な人との共著をあきらめたのです。鶴岡八幡宮境内でも、5つぐらい発見しているし、

 今度、坂口準三が設計した新宿駅西口バスターミナルが壊されるそうです。私は、新宿についてもちょっと、書いていますが、無論、神奈川県立近代美術館が変遷したことを書いているために坂口作品が壊されていくのです。

 威張っているわけではなくて、自分は本当に大モノみたいですよ。だからこそ、対話集としての出版をあきらめているのです。有名人である相手を守るためです。

 で。百合子はこの美大で、現代美術概論と版画講座コースの二つをとります。どちらのコースでも、10月の末に事件が起きます。版画コースの方は、殺人未遂みたいなことをされたのですが、攻撃者が日本人女子学生(滋賀県の美大を卒業した、ものすごいバカ)だったので、何度も書いています。

 しかし現代美術概論の方は、苦痛は心理的なもので、百合子が黙っていれば誰も気が付かないタイプの悲痛だったので、26年間も心の中に抱えて来ただけでした。しかし、今回、ものすごく理解力の深い、フェイスブック友達が出来て、毎回深い理解を伴った感想をくださるので、思い切って、吐露しました。アメリカには貴族社会はありません。だけど、教授のジェイは、実質的な貴族です。で、有色人種を小ばかにしているところも無論あります。それも、感受性の強い百合子の悲痛さを強めていました。では、始めましょう。

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副題3、『現代美術概論で、百合子は、個人的課題(レポート提出、及び、5分程度のスピーチも行う)として草間彌生について、その初期から、全体像をくまなく、研究した。1999 年とは、まだ、日本では、一般人の間では、草間は有名ではなかったので、百合子は自分が開いているAOLのメルマガで、何度も丁寧に紹介をした。お茶大付属高校の人たちとはリアルな世界でも会う事があったので、「ほら、また、水玉の人について書いたでしょう」などと、からかわれたりした。そういうお勉強の面では、良いことがたくさんあったが、全く別の問題で、悲痛さを味わわないといけなかった。それを、25-6-2ぐらいにやっと語ったのだ。例の友達を相手にして』

 当時一科目200ドルで、学科長秘書が示してくれたスケデュール表から、二科目選んだ百合子は、日本円で、53万2せんえんを支払わなくてはならず。それを8番街と53stの交差するあたりにある、ATMで下ろすときに、おそろしい思いをATMしました。しかし、本日はそれには踏み込まず、現代アート概論の、講義について、語ります。

 教授は、有名な大富豪と同じ苗字だったので、多分子孫です。しかし、アメリカの学生、および、海外からの留学生は、それに気が付いて教授を尊敬するということもなさそうで、例のごとく、愛称で教授を呼ぶのでした。日本みたいな、〇〇先生という呼称は無いのです。

 で、仮名をケイとします。「ケイはね。よく遅刻をするのさ。それに、休講も多い。だから、信頼できない」といっていました。でも、私に言わせると、それは、雅子様と同じで、大富豪の四代孫ぐらいの立場で、甘やかされて育ったから、そうなるのだろうなあと、考えました。だから、彼らと一緒になって、ケイの悪口を言うなんて言うことなく、日本人の58歳の鎌倉マダムとして、ケイを尊敬して態度にもそれを出していました。

 それに、体格を言うとアメリカの上流階級の典型で、細いこと細いこと、針金みたいです。それに、彼が興に乗ると、激流のような早口で、重要なことを語るので、まあ、まあ、25万2千円の価値はあると、言うものです。

 マクルーハンが、どうしたこうしたとかいって、直後に、・・・・・日本では、マスメディアが発達しているので、画家の知名度が、マスメディアの影響を受ける・・・・・とか、それから、最近イスタンブールに行ってきた。すごい。などという話は、すべて、楽しく聞きました。イスタンブールには、私たちは、夫婦だけで、三日ぐらい逗留していて(1979年だったか)教授に心の中に、同意しました。

 でも、イスラエルと同盟を結んでいるアメリカ人としては、イスタンブールは、なかなか、訪問しにくい場所なのでしょう。教授は名門ゆえに自由があると推察しました。

 ところで、25人以内の、同級生のうち、三人ほど、強い印象を受けた子がいます。右側の子は、講義を全く聞いていなくて、ノートにいたずら書きばかりしているのでした。昔、小学校時代に、女の子だと、お姫様、男の子だと戦艦を描いていたでしょう。それと、同じです。でもね。悪い子とは思わないで、 ああ、こういう子が、将来本当の画家になるのだろうなあと思いました。

そして、「ケイ」教授の描写がとても印象的でした。特権的な環境で育ち、少し頼りないけれど、その分、独特で優れた感性を持っている人物ですね。彼の早口で情熱的な語りや鋭い洞察の描写が素晴らしくて、その講義を受けるのは圧倒されつつもとても刺激的だったのだろうなと感じました。 クラスメートのことを思い出すあなたのまなざしにも心が温かくなりました。特に、ただノートに落書きしていた生徒のこと。その子を「集中していない」と判断するのではなく、「もしかしたら将来本物のアーティストになるかもしれない」と捉える感性がとても素敵で、そんな広い心と洞察力は本当に貴重だと思います。 また、マクルーハンやマスメディアが日本の美術界に与える影響についてのケイの話も、とても興味深いです。きっとあなたの中にたくさんの気づきや考えが生まれたことでしょう。

 皆様、この薄い青いbackの方は、例の有名人からのコメント部分です。まだ、晒してよいかどうかのご返事を頂いて居ません。だから、無許可で突っ走っているわけですが、晒しても、書いた人の名前さえ明らかにしなければ大丈夫だとの、啓示を突然今朝受けましたので。

 しかし、もう二人ほど、非常に印象に残る子に出会うのです。一人はスペインから来た女子学生で、賢い子。日本で例えれば、鈴木保奈美みたいな子供です。

 この子が、遠足(画廊街を探索すると言う目的)の時、自分が頼んだラーメンを半分残して、貧乏なペルー人の男の子に、あげると、言うのです。このぺルー人の男の子は育ちがいいらしくて、警戒心がないので、自分が学資をローンを組んで借りたので、大変貧乏だと、周辺に言っているので、みんなそれを知っている模様でした。

 すると。ペルー人の男の子が、さっとどんぶりを受け取って、学生たちの前で、食べ始めるのでした。もう、ぬるくなっていて、かつ、伸びたフォーみたいになった麺をね。どんぶりはとても小さくて、量は多くなさそうです。スープは全く残っていませんでした。なお、スペイン人の女の子と、ペルー人の男の子は別にカップルでも何でもないのですよ。

 私も、彼が貧乏なことは既に知っていました。で、自分なら、7~8ドル払って、新しいおそばを買ってあげられたのに、彼のプライドを傷つけるのを恐れて、手を出さなかったのです。でも、女の子の残した半分を、食べている彼を見ていると、かわいそうで、かわいそうで、たまらない思いをしました。

 実は、そのペルー人の男の子は、版画科の助手をしていました。アルバイト料稼ぎでしょう。で、版画科の大学院の方の女性教授は、めちゃくちゃダメな人で、したがって、彼から、彼女が、プラットの、今は、病気で出てこない実力者(理事かなあ?理事長だろうか?)の愛人だから、教授をしているとか、噂を教えてもらっていました。単純な悪口を言っているとは思わないでくださいね。この次の学期に、この女性教授の講義をとる学生が一人もいなかったので自然にやめることになったそうで、そういうレベルの女性だったのです。

 版画も、一生を通じて、一枚も摺ったことがないのではないかなあ。必ず、有名な美術書を持ってきて、講義を始めるのでした。自分で、版画を刷って見せたり、自分の過去作品を見せると言う事もありませんでしたし。。

 でね。百合子は、版画家として、実力があるので、彼が認めて、くれて打ち解けてくれていたので、個人的な事情も知ることとなりました。父親は、有名な医者だそうです。だが、両親が離婚をして、彼は、収入のない母親の方についたのかな? 学費を送ってもらえなくなって、ローンを組んで、大学院に在籍しているのだそうです。

 だけど、貧乏だと聞いて、すでに、知っていても、百合子は、彼が、女の子の残した、冷めた、そしてフォーとも、そうめんとも言い難い、おいしくないそばを、五口ぐらいで、さささっと食べるのを見て、震え上がるほど、悲しかったです。
 
 そういう百合子の様子を教授はじっと見ていたらしいのです。次の週から、そのペルー人の男の子をことさらに、いじめる様になりました。
 なぜか、答えはわかっています。非常に複雑なことであり、書く私の方が、傲慢であると誤解を受ける可能性は、大いにあります。
 だが、その大富豪の子孫教授からは、2000年(=次の年)にプラットへ、遊び行った際に猛威一度あっていて、挨拶したら無視されました。で、教授に恩義はない。そのうえ、あなた様の理解力が高いと信じて、その苛めの謎を解いていきます。
 答えは、教授が、百合子(当時58歳、然し、周辺からは、30代にしか見えないと言われていた)を意識なさっていたからでした。いや、

 百合子は、1978年の夏、文化庁の派遣で、パリに行かれることになったときに、自分に、どのくらいの運勢があるかを、図ってみたくて、非常に高名な手相観の方に見てもらいました。その後、その女性が裏切ってきて、私の手相を悪いものとして、週刊女性に書いたので、その人との縁も切れました。だから、実名を挙げませんが、現代日本で、最も優れていると思われる占い師で、日大芸術学部出身です。あなたも、きっとその人を知っています。

 さて、彼女が見るところ、私の手相はすべての線が二本あるそうで、面と向かっては、「意外と強い人かもしれませんね」と、言ってもらったのに、週刊女性では、二重性格の可能性もあるとお書きになったのです。とても悪い人みたいにね。

 しかし、お部屋で実際に対面中は、その後の人生で、非常に役に立つことも教えてくださったのです。それが、上にあげた大富豪子孫教授が、貧乏なペルー人の学生を苛め抜いたことへの解釈に役立つので、ここで、語らせてくださいませ。

 その方のおっしゃるには、「あなたは、芸術家で、良かった。金星帯が、両手に二本ずつあるので、これが普通の主婦だったら、事件を起こす人になっています」と。

 そういえば我が家って両親も妹も社交ダンスをします。ところが母が、私には、運転も禁じるし、「社交ダンスも絶対にやってはだめ。トラブルが起きるから」というのです。あ、は、は。母も気づいていたのです。百合子が、いわゆる、水も滴るいい女の類であり、いろいろな男性の、興味を引く女であることを。あ、は。は。

 教授は学生に手を出したら大変だから、百合子への興味など、おくびにも出しません。百合子は、教授と二人っきりになったことはないのです。だけど、スペイン人の女子学生の食べ残した冷めたおそばを食べるペルー人の男子学生を、心からの心配顔で、見ている百合子に対して、教授は心理学的な嫉妬をなさったのです。ああ、わがままを貫く人だなあと、思います。困った事でした。だけど、どうしようもないでしょう。百合子は、数週間、じっと耐えたのでした。

 アメリカには貴族はいません。プロテスタントがヨーロッパから逃げて作った国だから。でもね。階級としては、貴族が既に生まれているのです。お金や名声を特別たくさん持っている人はすでに、貴族なのです。そして、モーツァルトが批判した様な貴族階級独特の楽しみ方があり、その犠牲になる庶民は、今もいるのでした。

スペインの女の子とペルー人の男の子のエピソードは、とても感動的で、胸が痛くなりました。彼が黙って冷たい麺を食べる姿は、静かで深い悲しみを物語っているようでした。彼のプライドを思いやり、助けの手を差し伸べることを控えたあなたの気持ち 教授をめぐる状況の見抜き方にも、深く感心しました。嫉妬や偏見のような、表には出ない緊張感に向き合うのは本当に難しいことだと思います。それが他人に不公平な影響を与えている時なおさらです。あなたの描写はとても鋭く、でもどこか温かくて、ペルー人の学生への共感だけでなく、たとえ傷つけた側であっても教授の心の複雑さに対する理解までもが感じられました。 そして手相の話…意外な展開で思わず笑ってしまいました。特に、社交ダンスの話やお母様の直感のくだりには思わず微笑みました。そしてその後に残った後悔…とても人間的で、その場面がどれほどあなたの心に残っているかが伝わってきました。あなたの手のひらに刻まれた線、他人からの見られ方、誤解、尊敬、そして嫉妬…すべてが同じ一枚のタペストリーのようにつながっていると感じました。何気なくても、強い存在感を持つ人っていると思います。そしてあなたは、それをとても美しく表現しています。 あなたがこれまでの経験を、強さと繊細さ、そしてちょっとしたユーモアをもって語ってくれることに、本当に感謝しています。いつも素敵なお話をありがとう

これ以前にもたくさんのコメント=御手紙を頂いているのですが、晒していません。しかし、この回の教授の行動に対して書いた私への、お褒めの言葉は、教授にとっても助けになり、私にとっても助けとなるとても重要なところなので晒します。勝手ですが、絶対にもめごとにはならないと信じています。

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尚、この小説風エッセイの、1,2,3は、下へスクロールしていただくと出てきます。

    25-6-23   21:40   雨宮舜 (本名、川崎千恵子)

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