私はね、文章を書くときに、これを将来は、一冊の本にしようねと、思いながら書いているわけではないのです。その日の頭脳の赴くままに書いています。その形式をよく神様が書かせてくださっていると、言っています。で、それ等の、群落するエッセーを、似たもの同士集めていくと、あれ、是って、一冊になるはずよと考えるのです。今回は、たった二週間の、膨大なお手紙のやり取りを、後から、1999年ニューヨーク修行記として、一冊にまとめることを思いつくわけです。しかし、計画的にやり取りしたわけではないし、あまりにも大量なので(そうですね。丁寧に分類したら、五冊できるでしょう。)、時系列的に探すのが無理で、これは、第二回か、、第三回として、置くべきものでした。まあ、単独のエッセーとして読んでおいてくださいませ。
副題1、『Nラインの終点の不動産屋は、如何にもクイーンズ、スタインウエイらしい、庶民的な不動産屋で、社長を見ていると、オペラフィガロの結婚を思い出した。しかし、これが優しく見えて、実は、手ごわい存在だった。』
百合子は、1999年と、2000年の滞在中、四軒の、不動産屋を訪ねた。どれもチェーン店化は、していない独立系不動産屋だった。
特に1999年に暮らした猫と坊やが、かわいそうだったマンハッタン島内の、シェアルームが、現地の不動産屋へ向かわせたのだった。ここは早急に出るべきだと考えたから。
日本で、五嶋節さんの著書を読み、節さんと、みどりさんがニューヨーク入りして最初に住んだ家は、フォレスト・ヒルズにあると、覚えていた。で、フォレスト・ヒルズにでかけていった。
散歩中の親切な外人のご夫妻に出会い、高価なオレンジジュース(天然のオレンジを絞ったもの)をレストランで、ごちそうになったが、物件探しはうまくいかなかった。
で、ニューヨークの地下鉄駅で、タダでもらえる路線図を丁寧に、読んでみて、ディトマス・アストリアという駅に狙いを変えた。それはNラインという路線の終点の駅なので、不動産屋が絶対にあるだろうと、想像したが、ぴったりと当たっていた。
そこには、1999年と2000年に、訪問した合計四軒の不動産屋の中で、最も元気で、賑やかな店があった。社長の雰囲気がオペラで有名なフィガロを思わせた。で、お客さんが、待つ時間を楽しくするために、ベンチが二つもおいてあり、そこにVOGUEなどの雑誌がおいてあり、まるで美容院だった。
しかもお客さんがそのサービスに気がつかないでいると、自分で立ってきて、それを、読むように薦める。スマホが普及していなかった時期に、このサービスは、ありがたいものだった。
彼は統括者であり、他にレベルの違う、社員が、5人居て、前の方の小さな机で女の子が、受付を兼ねて、担当者を割り振っている。
百合子はナンバーツーにコンクリート製のマンションの三階の一室で、950ドルの物件に案内してもらった。彼が車を使わなかったので、これは、駅からの至近距離にある物件で、本当はとても良い話だった。部屋は北向きだったが、まるで海が見えそうな丘の上の環境で、抜群だった。「ここは南欧の感じがするわね」と百合子は、その子に行った。彼は何も答えなかったが、それは、当たっていて、実はここは、マリア・カラスなどを生んだ、ギリシャ系移民の多い町だったのだ。だから白づくめの部屋が、貸間になっていたのだった。白いじゅうたん、白いソフトな皮でできたふわふわの二人掛け用のソファー。最新式のテレビ。ギリシャには白い家が多い。
ただ、1999年の百合子は、クレジットカードを使わない主義であり、三か月分の現金を持っていなかった。そのうえに、『この部屋で、絵を描く事が、じゅうたんが白くて毛足が長いので、上等すぎるからこそ、無理だ』と考えたので、即決をしなかった。次の日に、現金を2000ドル以上持って再訪をしたのだが、目の前で、二人の若い日本人女性にその物件を取られてしまった。 それで、即断即決が大切だと学び、はるかに格下の、連棟式のアパートの半地下の物件を、そのひの内に、借りたのだった。駅から、15分は歩くが、このアストリア地区は、大体安全なので、夜遅く帰っても、大丈夫だから、それでよかったのだ。
だが、タイミングとして、たった、10分ぐらいの差で、その日に初めて、その店に来た、若い日本人女性二人組に好物件をとられてしまったので、それは、もしかすると、自分が50代であるせいだろうかと、いささか、悩んだ。女性にとって、若いということは、一種の勲章なのだった。
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わあ、本当に興味深いお話ですね!ユリコさんのニューヨークでの旅は魅力的です。彼女の決意、自信、そして彼女が直面した課題が、彼女の旅をとても感動的なものにしています。 揚げ物店の詳細、人々とのやり取り、彼女が遭遇した人間関係の複雑さはすべて、彼女の体験を鮮明に描き出しています。彼女がその間ずっといかに強く、順応性があったかがよく分かります。
これは、例のフェイスブック友達からきている長い長いお手紙のホンの、一部分を、ここに置いている。関連があると私が思っているので。
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副題2,『ここで、どうしても、2000年に契約を交わした不動産屋に飛びたい。女性社長なのに、その手ごわい事、人種差別の強い事。そして、貧乏人を無視する程度は、ひどかったから、とても印象が濃いので』
ここで、2000年の、9月第一週のルーズヴェルト・アヴェニューに戻りたい。仮寓の家を管理人同然に使っている、若い女性・・・・・日本での医者との婚約を破談になった、女性・・・・・との、関係が悪くなったので、「おや、おや、1999年と、同じことになりましたね。だが、今度は即断即決をしましょう」と、考えた百合子は、ルーズヴェルト・アヴェニューから、幹線道路を西に向かって歩いて行った。
幸いなことに路面店(不動産屋)を見つけた。入ってみると、デスクが一つだけあって、社長らしき女性が座っていた。プラダと、見える上等な、かつ、オーソドックスな形の、クリーム色のスーツを着ていて、プラチナブロンドの、髪には、緩いウエーブがかかっていて、長さが、まことに適切にカットされていた。
百合子より、背は、5cmは低くて、157cmぐらいの身長で、体重が、55キロぐらいと見えた。
百合子は、パリでも、ニューヨークでも、アーチストばかりと、付き合っているので、初めて接する、純粋なビジネスウーマンだった。 彼女は、「適切な物件がありますよ。貸主は、すぐ、こちらへ来ると思いますので、ここで、待っていてください」といった。 貸主は、サラリーマンだったが、会社は、休みの日だったのだ。彼は地下鉄に乗って、やってきた。くるまを、もっていなかった。あとで、わかるのだが、日系企業の、経理マンを、している、インド人で、非常に賢く、堅い人物だった。
その大家の、到着を待っている間、物件を見ないで、賃貸の契約書にサインして、大家を待った。三か月だけだから、少々の不満があっても我慢をするべきだと、思ったのだった。
社長は、おおやが、あらわれると、白いベンツを裏側から、店舗前に出してきた。そして、三人は、西へ向かって、車を走らせた。すると、前方、300mぐらいのところに、緑の林が見えた。
百合子が、1999年に住んだディトマス・アストリアは、後発の、移住者の街であり、はっきり言うと、貧乏人の街だった。今度住むことになる、スタインウェイも、同じ区部に属し、どちらかというと、貧しい地域だった。だが、連投ではなくて、一戸建ての家が多い。それは、ケネディ空港とマンハッタンを結ぶ幹線道路ぞいだから、だろう。しかし、フォレストヒルズより、格が落ちるらしくて、各一戸建ての庭が狭くて、植木類が見えない一帯だった。
で、百合子は、その2000年9月7日に見た300m先にある緑を、非常に珍しいものだと考えた。
で、目の前で、ベンツを運転している女性社長に向かって、「あの緑は、何なのですか?」と質問をした。「なんとか、公園です」という返事を期待しての質問だった。ところが彼女は無言だった。
ともかく、軽蔑されている模様だったが、今のところ、百合子は、顧客である。プラチナ・ブロンドの、女性社長は、純粋な白人である。一方の百合子は、黄色人種の、しかもおばさんだ。でも、大家が到着するまでの、30分間英語で、やり取りをしたわけで、百合子が、英語ができることを彼女は知っている。
なのに、どうして無視するのだろう。と、いぶかしく思った。百合子の英語は学校での学習だけ・英語だが、イントネーションも発音も素晴らしいと、外人から、いわれている。どうして、軽蔑されるのかが、わからない。だが、右隣に座っている大家も黙っているので、百合子も黙った。
だが、後日理由が分かった。そこは貧しい人たちの住む公営住宅だったのだ。
しかし、然しなのだ。その白人女性社長が、軽蔑しきった、公営住宅で、私が、大変よく知っている、ペルー人の、版画家が、2001年の、八月に、孤独死した。2000年の版画工房で、最も長い時間一緒に、過ごした間柄のホアレス。五冊目の自著【黄色いさくらんぼ】の中の、二人目の重要人物で、それを再販できたら、そちらに、大量の新原稿を入れようと、思っているが、ペルーから、来た、多分、不法移民で、従って、なんの社会保障も、受けられず、ガスも水道も止められた中で、飢え死にをしたのだった。
黄色いさくらんぼの中ではエドゥアルドという仮名で、呼んでいるが、本名を、ホアレスと言い、ロートルで、前から、語っている、学資ローンに苦しむ青年ではない。そちらは親が医者だと言う事と、白人の血が入っているので、美形だった。が、ホアレスは、現地人系が強く出て、顔は、茶色のおじさんというだけで、美形ではない。その上、露悪家で、しかめっ面ばかりしているし、時々は百合子をだまそうとしたので、百合子は、先住の日本人であり、工房を牛耳っているミミに同調して、ホアレスを、劣等な悪人だと、思い込んだまま、1999年と、2000年のニューヨークを去った。
今、入院中で、、黄色いさくらんぼの、原稿が、無いので、ホアレスに、ついて、詳しいことを、語れないのだが、、、、彼は、一時期、日本人女性と、同棲していて、さつまいもいりの、蒸しパンを、持ってきていた。それが、かれの、24じかんを、もたせる主食だったのだ。それさえも買えなくなって餓死したのだった。しかし、百合子は、彼のそんな事情には気が付きもせず、毎日、毎日、韓国じん経営の、おそうざいやさんに、行き、朝と夜は、自分の家で食べるから、ここでは、外食ですと、決めて、十時間以上過ごす、版画工房では、目一杯、ハドルから、十ドルたべていたのだった。ああなんと、残酷なことを、してしまった事かと、いまでも、眼がじーんとして来る。
しかし、それほど、貧乏であったホアレスの実情を知らないでいた時期、彼と、初めてソーホーで出会って、彼が百合子が使うNラインに乗り込んできた日の話を語りたい。
ここでは、日本版画協会の、封筒が重要なアイテムとなって来る。
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副題3、「フジテレビの幹部が、午後四時から、午前一時まで、リンチ的質疑応答にさらされたと、言うニュースを見て、また、次になんとか、なぎさという女子アナが、フォトエッセーとかを出し、マスコミにちやほやされているのを見て、おー。おー。これも、日大フェニックス殺しと同じ伝で、作られいる部分があるニュースですねと、思い至る。なんとか渚という女子アナは、日大の宮川泰介選手と同じ、道具なのだ。誰の?と問えば、日本を牛耳っているやみの勢力だ。
百合子は中居何とかのペニスが、なんとか渚のワギナに入ったのだろうと思う。それが、被害なのだろうと思うが、そこに至る前に、20段階ぐらいの逃げるチャンスがある。それらの段階に応じた優雅なやり取りを使えば、100%逃げられると思うが、逃げられなかったらしい。でも、おかしい。不思議だ。
これは、結局のところ、フジテレビが報道番組内で、右翼的論を展開する人物を画面に登場させているので、それを罰して、会社を潰そうとする狙いがあると思っている。
で、男性からの、セックスを断るやり方だけど、ここで、百合子が、1999年に使った手法を語らせていただきたい。
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ホアレスとは、ソーホーの日本人経営の画廊のオープンぐパーティで出会った。26年後の今考えると、そこで出てくる、サンドイッチやら、カナッペも、ホアレスにとっては、重要なたんぱく質補給源だったのだろう。
そのオープニングパーティ中、ホアレスは、百合子にくっついて来て、カバンの中身を取り出し、或る封筒を取り出して見せた。しかし、洋封筒とは、宛名と同じ面に、差出人名も入っているので、百合子はそこを凝視した。すると、英訳はされているものの、日本版画協会が出した封筒だった。
百合子は内心では、なあーんだ。ばかばかしいと思う。こんなものは日本版画協会が、出品したいとメールなどで、申し込んできた人、すべてに送る、多数同じものがアメリカにはあるはずで、大した価値のないものだった。もしホアレスがその展覧会で、受賞をしたなどとなっていたら、彼は、その手紙本文を見せるだろう。
百合子はすぐさま、「ばかばかしい。こんなものを偉そうに見せつけるなんて、この人の頭って、50%はバカですね」と思うが、そんな顔つきは一瞬だって、他人には見せない。大げさに驚きもしないが、否定もしない。すると、ホアレスは、効果が無かった、その封筒をしまった。次に百合子が興味を引きそうな話題を次から次へと出してきた。画廊を出てからしばらく歩くと、ビジネス街へ、到達し、立派なビルが現れたが、そこにベンチ風なでっぱりのあるビルがあった。そこへ百合子を誘い込み一緒にすわり、更に彼は、話をつづけた。
百合子はすべての話題に、応答的な会話を返すことはなかった。典型的な、中年日本人女性風に「ヒアリングはできますが、スピーキングはできません」と言う感じで、対応をした。なぜ、そういう態度をとり続けたかというと、ホアレスが画廊内のほとんどすべてのアーチストとあいさつを交わしていたので、なかなかの実力者らしい。こういう人を敵に回したら大変だと、思ったからだった。それでも、決して興に乗らなかったのは、洋服が古いことがわかっていたからだった。百合子は、洋服の値段で、ひとを差別することはない。だけど、洋服の質については、母の教育のせいで、子供時代からの目利きであり、どんな繊維でできているか、また、ケイ年数等もわかるのだった。ホアレスの洋服なすでに、20年は着古されているものだった。で、威張りかえっているが、この人の社会的地位はそれほど高くないだろうと思って、はしゃがなかったのだ。だが、失礼な態度はとらなかった。
ホアレスは、その後百合子をNラインのどこかの駅にいざなった。Nラインは、終点が、ディトマスアストリアだと言っていたが、驚いたことに、2025年に、ぐぐると、ディトマス・ブールヴァードという終点名になっていた。ともかく、入院中で、紙の資料を見ることができないので、ちょっとしっかりした、結論は出せないが、ニューヨークも百合子の過去ブログを否定する方向で、地名変更がなされているのだった。
ともかく、ホアレスは、百合子がNラインで、かえると聞いて、一緒に帰りましょうと言って、 どこかの駅にいざなった。その駅は、マンハッタン島の、南にある駅。で、十分に空いていたので、二人で並んで椅子に腰かけた。
しかし、夜8時ごろ、そこから、順に北へ登って行くうちに電車は、サラリーマンたちで、満員になりった。この路線は、マンハッタン島を出ると、地上を走る。で、電車内は静か。
で、彼は、「あなたは、終点で降りると言っていたでしょう。そこから歩いて何分?」とか聞いて来る。百合子は怒った顔もしないけれど、にこにこもしないで、「うーん。何分かなあ」と答える。
「まだ、計ったことは、ないのよ」なんて、続けない。
そんなことを、言うのは、相手の術中にはまる事に繋がると、知っている。
次に、「ねえ、君の版画見せてほしいなあ? さっき、版画家って言っていたよね」と、続く。でね。おお、本丸に近寄って来たな?と思うが、「うーん。まだ、荷物、ほどいていないのよ」と、答える。
これは、百合子の方が嘘をついている。ソーホーの画廊の夜六時から開かれるオープニングパーティに参加するなんて、1999年の10月半ば過ぎでしょう。にゅーよーくにまだなれていない9月には、オープニングパーティまでは、参加していない。
でも、彼には、自分が今、プラットという美大の大学院に通っている最中だなんて話は、一切しない。もし、話が進行したら、「一週間前に来たのよ」というぐらいに、嘘を重ねてもいいと考えていた。そうこうしているうちにホアレスがあきらめた。 39st という駅で彼が下りると、目の前に立っている乗客が、「ほら、傘!」と言った。その人が指さす方向を見ると、百合子とホアレスが座っていた場所に彼の折り畳み傘が残っていた。
百合子は座ったまま、まだ、空いていたドアに向かって、「ホアレス。ほら、傘、傘!」と叫んだ。そして、ポーンとドアから、傘を投げた。ホアレスも、百合子の声に気が付いて、電車の後尾に向かって、姿勢を直したので、きっと傘は、拾えたはず。
さて、安心して、ほっと、一息つくと、なんとない視線を感じるので、眼を上に向けると、乗客みんなが百合子の方を見ていた。その時、百合子は57歳でホアレスも同じ年。
二人の57歳が、これから、百合子宅へ行って、セックスをするかどうかの微妙極まりない会話を続けた最後に、「かさ、かさーっ」と、百合子の方が叫んだ子供っぽい終着。それをみんながほほえましい事だったと、考えてくれていることがわかった。頬があかくなると言う感じを、久しぶりに抱いた。
こんな笑い話で、終わらせながら、百合子は今でも、眼に涙がにじむ。ホアレスの事を知るにつけ、彼に、サツマイモ入りの蒸しパンの作り方を教えた、最初の日本人妻の、二代目をホアレスが必死で探していた事に気が付くからだ。百合子は、肌が白い。そして、顔はおかめ系で優し気に見える。だから、ホアレスは意気込んだ。「この女と一回セックスをしてしまえば、あとは俺の自由自在さ。ともかく、一回寝てしまえばいいんだ」と、考えたホアレスの必死さ。それが、性欲から生まれたものっではなくて、彼の極端な貧しさ・・・・つまり、三年ぐらい、サツマイモ入りの蒸しパンだけで生きていて、その材料さえ買えなくなって、飢え死にした人生を思うと、毎日、毎日、8ドルから10ドルの、ランチを同じ場所で、食べていた自分がどれほどに、残酷なことをしていたかに思いが至る。アーティストなんて、ほとんど収入がない。ホアレスに、スリを、頼む友人たちも無名であり、高く版画がうれるわけでもない。そうすると、スリ代も高くない訳で、
ホアレス、ごめんね。生きている間に、あなたの本当の気持ちやら、本当の気高さを理解してあげられなくて。あなたの露悪家ぶり、あなたの、しかめっ面、すべて、あなたが、自分の本当の状況=極限の貧しさを隠す小細工だったのですね。 ごめんね。ホアレス。生きている間に、ただしく、理解をしてあげられなくて。ほんとうにごめんね・・・・・
25-6-25 雨宮舜(本名、川崎千恵子)
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