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銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

トラス英元首相の辞任について私見 + あれっ、横浜切っての、超お嬢様、カメの写真が見つかったぞ。

2022-10-22 03:55:41 | 政治

 下の文章ですが、二日目の22日の夜加筆をして行きます。その部分は、色付き文字とか、アンダーライン付き文字で、書きます。

このブログは最近、写真を冒頭に置くことにしています。あればですが、本日はありました。横浜切っての名家のお嬢様カメダタカコ子さんと、私が二人だけで、写っている写真です。高1の時の(中学時代の友達だけ・先生はいない)同窓会キャンプでのスナップで、場所は、裏磐梯です。説明は、副題1に置いておきます。

 

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 私の敵さんたちは、前報の続きを書かなかったので、「逃げたあいつ!」と考えた模様です。ご近所様の動き、と、鶴岡八幡宮の動きで、それが分かります。あいつ、逃げたから、気が弱っているのだ。ここで、盛大に、畳みかけて、いじめてやろうではないかと、敵さんたちは考えているみたいです。相変わらず、単純至極ですね。だって、本当は、逃げたわけではなくて、トラス元英国首相に対する感想が頭に浮かんだから、寝床の中で、その骨子を書いただけなのです。(お、ほ、ほ)

 その証拠として、ご近所様は、光・・・・・特にカーテンを開けた二階の、裸電球(オレンジ色)を煌々と照らすという攻撃をしてくるので、判るのです。鶴岡八幡宮は、大太鼓を、参殿者の、お参りが、済んだ時に打つのより、長い間打つと、言う形で、いじめてきます。

 しかし、後者の方は、ある時点で(*a)で、私が、軽トラの上で、長い間打っている人間を見つけました。或る時点というのは、観光客を苛め抜いた流鏑馬の日です。側溝(幅、1.2mぐらいで、深い上に、道路との間に、人が落ちない様に防ぐための柵がないのです。かつ、道路=鎌倉街道との間に、ガードレールもないのです。鎌倉街道は、そこらあたりでは、とても、狭く、一車線で、その東側・車が南へ向かって、通るところには、人間用の、ガードレールがないのです。・・・・・そういう恐ろしい道を通らせて、北側から、やっと、流鏑馬の、おこなわれている、舞殿に近いところに出られるのですが、その日は、観光客に対して、「歩みを止めては、いけない」と、命令されていたのでした。あれに懲りた人は、次の年からは、八幡宮には来なくなったと、思いますよ。でね、軽トラの上にのって、大太鼓を打っていた人間は、いわゆるCIAのブルーカラー部門として、動く、警察官だったと、思います。私服でしたが、そうでしょう。

 だから、その後も、彼らが、脅かしとか嫌がらせのために打っている可能性があるのです。2022-10-22に、14回打ってきた、人間も、それだったかもしれないのです。

 昔、見た、正面(=三の鳥居)から、人を入れない、流鏑馬の日に戻ります。そういうひどい日のこと・・・・・たまたま買い物帰りで、その様子を見てしまった私は、驚いて、自宅へ買い物を置いたら、すぐ、人々の間に入って、観光客の流れを追いました。

 それが、・・・・・武部聡志が、伊藤玄二郎に命令されて、朝早くから、ぷわーん、ぷわーんと言う異様な音を、ミキサーで、出して、「マイクの試験中です」と、繰り返すこと・・・・・を、私が、・・・・・それは、わたくし狙いの嫌がらせだ・・・・・と、書いたことへの、一般観光客をターゲットにして、かつ、巻き込んだ復讐だったのです。そう思ったから、一般客に交じって、一キロ以上も余計に歩かされる苦行に付き合いました。

 私は当時、本を作っていました。文学部を出たわけでもないし、美術大学のデザイン科を出たわけでもないのです。国際基督教大学の、教養学部卒、化学・専攻生でしかない。それなのに、たった一人で、本を作り上げます。そして、行き先まで、案出し、一人で、努力して配り歩きます。

 印刷前ですが、本の決まり事である、8の倍数で、頁設定をして、各章の始まりは、奇数頁になる様に算数を駆使し、かつ、挿絵を書いて、それを挿入し、頁ノンブルのフォント数とデザインを考察し抜き、目次などはヘッダーに飾り罫を入れます。文章も全部自分で書いたもので、表紙(または、カバー)のデザインも自分一人で、創作します。最後の蛇足のところで、書きますが、たった、20部程度が流通しているであろう五冊目【きいろいさくらんぼ】(ニューヨークでの私の三か月×二回にわたる版画修行記、カラード・アーチストの悲しみや、苦労、そして、死が表記されている)が、アマゾンで、10年以上、一万円以上で取引をされていると、言う、ご褒美を神様から、いただいています。原価は5000円ぐらいは、かかってますが、売値は、謙虚に1680円とつけてありました。だけど、向こうからお金を送ってきてくださる方以外には、売ったわけでもなくて、献呈だけなのですが、美術関係者の間で、互いに、貸し借りがあって回し読みしているうちに、一部が古本屋に回ったのだと推察しています)

 私は、自宅での、重要な仕事をするときに、パソコンに、システム異常を起こされて、仕事にならないので、外の喫茶店とかレストランとか、ネットカフェで、仕事をします。だから、莫大な、費用が掛かっているのです。それに本って、少部数で、作るほど、原価が高くなる仕組みがあります。印刷屋さんが悪いのではないのですよ。そういう仕組みが、元来あるのです。複製の仕組みを利用しているものだから、大部数を刷るほどに、一冊当たりの原価が安くなるのです。

 で、その種の複雑極まりない仕事をしている時だから、ハッキングをして、それを知っている敵方は、八幡宮様を動かして、長い時間(時には、20分以上)、大太鼓の音を響かせて、邪魔して来ます。ただ、私が、・・・・・八幡宮様の、ご近所住民が、「この頃、八幡宮ってうるさいよね」と、うわさしあっている(これは、事実ですよ。わたくしが住んでいる、たった実動15軒の山の人の間ではなくて、平地の人々(200軒ぐらいのご近所様があるはず)の噂です・・・・・と、ブログに書いてから、やっと太鼓の音量が、小さくはなりました。

  今は、22日の夜11時ですが、この流鏑馬が何年の秋だったかを探しています。ので、待っていてくださいませ。NHKが報道する様な殺人事件ではないので、その年度だけ、流鏑馬が観光客をいじめていたなどとは報道はされません。で、探すのに、時間がかかりますので、お待ちいただきたく存じます。

 ところで、今、その調査中にとんでもない写真が見つかったので、ここに置きます。

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副題2、『カメと私が二人だけで、写っている写真が見つかった。この時のカメの素敵だったこと、素敵だったこと。皆さんに素顔を見せたいぐらいだ』

 カメは、家族の中で、私が出会ったことがないお父さんの方に似ているのだと、推察しています。お姉さんは、お母さんそっくりです。お父さんは、軍医時代に、宮田重雄(週刊朝日に、よく挿絵を連載していた)に、肖像画を描いてもらったそうで、それが、玄関に飾ってありました。でもね。今、念のために、宮田重雄のウィキペディアを、探ると、宮田重雄も、慶応の医学部卒ですって。だから、二人は、同窓だったかもしれないし、もしかすると、同期卒だったかもしれません。いや、もし同期だとすると、カメは、末っ子ですが、父親が、42歳の時のお子さんだと、なります。これは、不思議ではない年齢です。

 わたくしが右側で、左が・カメダタカコ・さんです。今は、結婚をしていて、お子さんが三人もいる女性ですから、本当の苗字は違います。そこは、私が抑えて、書かないで、いるところです。或る程度以上の仲の良さがあったと、信じているから。

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副題3,『大久保忠春君の死に謎がある』

 ところで、この写真をだれがとったかが問題です。私はカメからもらっただけなので、撮影者を知りません。先生は、同行していません。で、もしかしたら、大久保忠春君ではないかと、思います。大久保忠春君って、毎日現代展の常連でした。そして、ギャラリー山口で、個展をする常連でもあり、ギューちゃんたちとも、知り合いだったと、思います。

 あ、ここで、ちょっとわきにそれます。今、鶴岡八幡宮は、旧近代美術館をグーグルなどの検索でも、それで、出てくる様にして、【鎌倉殿の、13人館】と、名付けておられます。でも、鎌倉時代って、暗い時代ですよね。お正月の特番で、井上章一氏が、「鎌倉は、怖いとこどすなあ」とか、「北条政子は、極道の妻と考えると、良いのですよ」とおっしゃったとおり、明るい場面の少ない時代です。ドウセ、今期の大河ドラマも、伊藤玄二郎と、いまだ、生きて地下潜航をしている、井上ひさしが、原案の企画者でしょう。

 一方で、近代美術館の時代は明るかったですよ。ぎゅーちゃんのアクションペインティングの日なんか、普通なら聞こえてこない山の下の騒音が聞こえたので、慌てて、降りて行ってぎゅーちゃん(篠原、有司男)人気の高い人であることを知りました。彼が大きなキャンバスに描いている現場で知ったのです。

 ここで、大久保忠春君に戻ります。大久保君は、中学時代からカメラ通で、すでに、写真雑誌の写真が掲載されるほどでした。上の写真には、どこか、芸術的香りがあるので、大久保君が撮影者ではないかと推察しています。大久保君は、九州の美大の、教授になり、その後、いつとも、私には、判らない形で、暴走老女の車にひかれて、亡くなったそうです。わたくしは、一種の他殺だと、推察しました。というのも、これが、東京では、報道をされなかったからです。

 で、羅針盤(画廊の名前)で、その噂を知った私は、びっくりして山口千里さんと、高田弘子さんに電話をかけて、詳細を聞きました。千里さんが、九州で、野見山暁次さんの秘書をする前の東京暮らしだったころは、大久保君が、野見山さんの、実質的秘書をしていたから、それを質問をすると、「違います」と否定をされました。非常につれない態度を、大久保君の死、および、彼自身に対して、示しました。それは、ギャラリー山口のオーナー、みつ子さんが、2010年の、一月、17日に亡くなって、31日に、実質的お葬式(=しのぶ会)を行う予定だったのに、たぶん、野見山さんの根回しで(実際には、千里さんが、各方面に電話をかけて)つぶされたことを、他殺だからと、私に確信をさせるキエンになったほどです。

 実は、大久保忠治さんの死についての疑問は、付属中学卒業生の間で、生徒たちの間の情報通でもあり、一種の女帝でもある、高田弘子さんにも問い合わせました。こちらも、ひどく冷たい説明の仕方でした。大久保君に妻がいないとか、お子さんがいないということは、ここで確認をしました。

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副題5,『大学同期卒の塩見和子さんが、日本財団理事長として、古楽器の貸し出しを一手に握っている。ということは、大金持ち(クラシック音楽をたしなむのは、お金持ち一族が多い)を支配しているということです。

 一方で、高田弘子さんは、日本美術刀剣協会の、事務長か何かをやっていて、日本刀を保持する富裕層を、牛耳られているわけで、そういう会の二次会で、悪いうわさをばらまかれたらアウトです。でも、すでに、そうなっているかなあ。ただね。弘子さんの夫である高田忠道君も、同期生で、その葬儀の時には、弘子さんも、上品に接遇をしてくれました。その時に、二人の間のお孫さんが、まるで、絵本の中の王子様、王女様にそっくりな、かわいいお子さんであることには、驚かされました。だが、上級国民の典型の弘子さんも、大久保君に対する冷淡さは、彼女らしいと思い、大久保さんが、一種の謀略として、殺された、と、私が判断をするのは、推察以上の真実味があると、思っています。

 弘子さんは、付属から、普通は、高校での編入を認めていないフェリスの高等部に進学し、フェリス時代にAFSに合格し、大富豪家をホストファミリーとして、フェリス卒業後、ブラウン大学へ、通学する援助をしてもらっています。アメリカの当時は、名門女子大でした。今は、共学となっているらしい。クローズアップ現代の司会を長らくやっていた、国谷裕子さんも卒業した大学です。弘子さんは、CIAの中枢に接している人なので、メディアには、登場をしません。ひっそりと生きていますが、日本社会の中の、特に富豪たちの間での、大実力者です。

 そして、塩見和子さんです。この人については、いっぱい説明をしたいことがあります。1978年、北久里浜で水道山をめぐる実質的な大詐欺事件(しかし、書類上は、地積変更届となっていて、犯罪では無い)が起きた、1978年に、日本財団へヘッドハンティングをされているので、まさしく、CIA側人事であり、寸鉄人を指す様ないじめを受けています。何度も。本日は、もうすぐ午前6時になるので、それを書き表しません。ただし、私が過去に書いたことが全部真実だから、有名画廊、ガレリアグラフィカが、しーん(?)と改名しました。栗田玲子さんも、あれこれ、塩見和子さんと結託をして、私をいじめたからです。私のブログをつぶすために、自分の画廊名を捨てたのでした。

 彼女は、帰国子女なので、同期といっても、国際基督教大学内では、受講するコースが全く違っていたので、一度も、肉声で、会話を交わしたことがありません。だから、こそ、あれほど、ひどいことができるのだと、言う・・・・・事を数多くやられています。

 弘子さんの方がまだましです。中一の時=1955年には私の日吉の実家を訪問をしてくれていますし、別の時期、たぶん1956年には、保土ヶ谷の、谷を利用した傾斜地ながら、広大な敷地(多分ですが、300坪から、500坪の間。全部は見渡せない広さ)のある、彼女の家に招かれてもいます。付属中学時代、五、六人ぐらいの、・・・・・お母さんの方が、つよく、印象に残った・・・・・お友達がいますが、弘子さんの母君も、強烈な印象を私に与えました。反対にうちの母は、弘子さんにはどう見えたのだろう?

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副題7,『冒頭の写真に写っている美少女、カメだたか子さんに戻ります。彼女が、もし、高校生の時に、大交通事故に被害者として出会い、四か月も入院するということがなかったら、塩見和子クラスの有名人になっていた可能性があります。それほど、美しくて才気煥発です。ただし、末っ子ゴロちゃんだから、物事を面白がる傾向はあります。それが、1966年の日比谷公会堂と、日比谷花壇を利用した罠に、私をひっかける作業を伊藤玄二郎から、教唆されたら乗ってしまう一番の理由だったと思います。お姉さんは、圧倒的にまじめなのですが、カメは、ちょっと違うから』

 私が最近書いている、1966年か1967年かに、ひっかけられた罠に、たぶん、この友達が関与しています。そのいきさつを書いた文章がまだ完成していません。しかし、平沼高校きってのお嬢様であるカメと、一期下の、これまた、エネルギッシュで、有名だったらしい伊藤玄二郎とは、必ず、平沼高校内で、何らかの接触があり、したがって、この写真から、8年後に、罠に私をかける様に頼まれた(実際には、日比谷公会堂で、行われた、音楽会へ誘うというきれいな形の罠でしたが)ので、その通りに動いたのだと、感じています。文芸部とか、新聞部とか、放送部とか、生徒会などで、一緒だった時期があるはずです。

 後注1に、その罠について書いたリンク先を置きます。青山敦子弁護士が問題で、青山弁護士がなぜ、私を助けてくれないのかと、言う疑問に関して、カメ(愛称)が、登場するのです。あと注1の、Bの中にカメの実家が、どれほど、文化レベルが高い家だったかを語っている部分がありますので、そこを、再び、ここにコピペします。

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昨日書いた文章の中に登場する、あだなカメという友人は、横浜で、一族で、病院を経営する家のお嬢様でした。彼女にとっての、いとこの子供が、Koh Gabriel Kamedaというフライブルグで生まれた、美形のバイオリニストです。そちらは、男のいとこ(多分お医者さん)の、息子ですが、そちらの家では、娘は、ほとんどがフェリス出身です。しかし、長男系統の、カメと、その姉君は、平沼出身です。ただ、亀の姉君は、横浜では、非常に有名な人で、ブラタモリが、第一回目として、横浜を訪問をした時の案内人が、亀の姉君でした。二人とも、女性なので、今の苗字は、違います。だが、姉君は、この2022年に82歳で亡くなった模様で、朝日新聞で、特集記事が出ました。

 カメのお宅の子供用図書室の素晴らしいこと、10畳か、八畳の角を落とした八角形でね。床は鉄平石で、庭と、同水準です。天井高は、3m、八角形の一面は、母屋との連絡ドア、後三面は、フランス式、掃き出し窓で、細かく区切られた鉄枠の中に、小さなガラスが、はまっています。後の、4面が書棚です。

 ジョルジュ・サンドとかバーネット女史が描く物語の世界に出てくる様な家です。そんな上流階級なのにある政党に、所属している男性と結婚をしました。一種のお見合いだと、思う。政治的お見合いだと、思う。その政党は下部組織の人間に対しては、奴隷風の労働を迫る党で、上部の人間は、富裕です。超富裕です。習近平などとも同じです。で、上部の人間は、CIAと、つるんでいます。統一教会が、トップ連中は、CIAの方針に協力していますし、新左翼諸派もそうです。旧型左翼政党とみなされている、カメの結婚相手が、党員だった党も、最上部では、CIAと、結び付いています。というわけで、私って、本当に孤立化しています。ただ、ただ、神様を頼るだけです。神様には愛されていると、信じる出来事がいっぱいありますから、それは、疑いもなく、信じています。:::::::::::

 もう一つ別の日に、政治とは、まったく関係のない感慨として、北畠八穂(深田久弥の妻であり、ゴーストライターでもあったが、深田が若い愛人の元へ去ったのち、それを公表した。したがって、深田久弥は、休筆ののちに、日本百名山というエッセーに逃げ込んだ)の【悪たれわらしポコ】をカメのお姉さんが、あの立派な子供用書庫から、一冊として選び出して「これを読みなさい」と、勧めてくれた話を書いていると、思います。それは、もっと膨らますことができるのですが、何しろ、徹夜明けなので、今は、書きません。

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副題8、『以下は、普段のブログとは、突然に、ニュアンスが変わった短文となっている。したがって、例の敵さん連中が、逃げたな!と、考えて、大攻撃をNHKニュースほかを使ってかけてきた。しかし、逃げたわけではない。以下に書いたことが、ユニークな発想なので、ほかの人が同じことを言い始めるのよりも前に、発表をしたいと思っただけだ』

 ここいかが、21日の夜に布団の中で、書いた部分です。

 今は、布団の中で、スマホを使って書いています。だから、短いです。

この方を、辞任をなさったが、ゆえに、私は、きゅうにですが、尊敬をし始めて居ます。

  まあ、首相になりたがる様な人は、慎重な人ではない事は確かです。

 彼女は、最初から、女優と言うか、タレントみたいな雰囲気があって、誰もが、ちょと、危なっかしいわね、と思って居たと推察します。

  でも状況を、見極めて、ここは身をひくべきだと考えて、さっと身を引くのは、尊敬ができます。

 このニュースを聞く以前には、何の関心も無かった人でしたが、すっかり、見直して居て、再度どこかで、偉業を達成なさる事を望んでいます。別に国会でなくても、良いでしょう。立派な仕事、人のために成る仕事とは、大きい事が、必要条件ではありませんから。

  2022-10-22    雨宮舜  本名  川崎千恵子

リンク先は後で、示します。

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