銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

故・樹木希林、、、侘助(北鎌倉)、、、故・瓜南直子、、、竹屋画廊(鎌倉小町通り)、、、桐村茜

2019-12-01 21:55:08 | 政治

副題0、『この文章を書くにあたって』

 私は、実は今迷っております。一杯、迷う方向があります。まず、本日新しいものを書くかどうかを、迷って居ます。心血を注いだ、前報を、読者様に、3日間ぐらいの間、読んでいただきたいと、思う気持ちがあって、そのためには、新しいものを公開しない方がいいのです。なら、「下書きの状態で、保存をして置けば」とおっしゃる向きがあるでしょう。特に、ネットで、投稿をなさって居る方に、そういわれる可能性を感じています。しかし、私の場合は、そういう風にしておくと時々ですが、文章が消えてしまいます。「では、microsft word で、書いて置いて、パソコンと、メモリーチップの二か所に、保存をして置けば」と、おっしゃる向きもあるでしょう。ところが、其れをやりますと、ワードで、4680文字だったものが、こちらでは、「3万2千字」です。と、表記されて、「本文は、3万字以内にとどめておいてください」などと、管理人から言われるのです。

 こういう状況は、古村浩三君などの、熟練したシステムエンジニアが、その時に応じて、随時、執り行う、妨害ですが、私の方にしてみれば、いつ何が起きるのかがわからないと、言う形で、言論弾圧を受けているので、ともかく、公開をしてしまった方がいいと、今では、考えております。脳から、発想が出た途端に、それを、自分のノートパソコンに定着させ、それをすぐ、NTTのスパコンにあげてしまうと、言う手法です。
 でもね。本日はあまりにも時間がないのです。台風被害の後始末をせねばならず、明日の夜も、ブログをかけないと、言う見込みが出てきました。其れは、本日ある書留を受け取った結果、急に起きたことなので、色々な、約束を反故にしていく事になったのですが、それをどうかお許しください。
 で、前報の、続きの様な、難しくて、しんどい事ではなくて、もっと、わかりやすいことを、書きます。本日登場する人たちは、ご近所住まいではないので、私としては、気軽に文章を書くことができる人物たちです。接触したいときは、接触する。でも、接触したくないときは、接触しないで、済む人たちです。
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副題1、『樹木希林さんが、大変、持ち上げられているが、何故だか、皆様は、ご存知ですか?』

 樹木希林か、瀬戸内寂聴かというほどの、頻度で、鎌倉エージェントは、この二人を大衆の前に、露出させます。瀬戸内寂聴さんの方は、私が度々、批判めいた文章を書いています。だから、敵の敵は、味方だと、言う形になるので、大量露出があるのだと、考えております。
 ところで、樹木希林さんについては、私は、別に、文章を書いていません。しかし、私もそれを知っているが、鎌倉エージェント側もそれを知っていると、言うエピソードがあって、それを使えば、私がノイローゼになるはずだと、推察され、多大な、レベルで、アゲアゲ状態です。

 まあ、瀬戸内寂聴さんよりも、樹木希林さんの方が好ましい人物ですが、私が、これから、先、書く事が、真実であるという証拠に、今、先程、この後に、大量の余計な文章が、挿入されたのです。其れは、今、切り取って、ワードにコピペしてみると、22頁にもなりました。もし、私が気が付かなかったら、読者の皆様は、「読めない。何を言って居るのか、わからない」と、お考えになったと、思います。どうして、それほどに派手な、言論妨害が起きたかというと、前報に、登場する、前田祝一とか、渡辺賢司と、言うような、人物を、読者の皆様は、ご存じないでしょう。しかし、樹木希林については、その顔、声、家族の事、住まいのこと、仕事ぶりの事、その思想や、哲学の事、すべて、よくご存じです。

 そうすると、私が、これから、書くことへの理解が容易になります。とっつきやすいです。それが、鎌倉エージェントには困るのです。ともかく、私に人気が出たら困ると、考えています。まあ、まあ、それはそうですかと、言っておきますが、

 樹木希林が大露出をするのは、まず第一に、彼女が、横浜桜木町駅、最寄りの、居酒屋(又は、レストラン)の、お嬢さんだからです。そして、彼女の、親戚(甥、姪、いとこ、または、はとこ筋にあたるだろう)が、経営している支店が、北鎌倉駅前に在り、【侘助】と、言う看板を挙げております。

 ここからは、まず、瓜南直子さんへ、飛びます。瓜南直子さんは、2011年のどこかで、・・・・・【侘助】の看板を描いた・・・・・と、FBに投稿をしています。これが、また、私を傷つける投稿だったのですよ。

・・・・・彼女は2011年の7月から、11月にかけて、大量の投稿で、私を傷つけたので、天からのおしかりを受けるという形で、命を縮めた・・・・・と書いていますが、一般の方、特に直子さんの、ファンにとっては、ちんぷんかんぷんの、文章だと、わかってはいます。でも、ひっこめるつもりは、毛頭ないです。

  ところで、侘助の存在を知ったのは、2011年よりも前です。或る紳士の紹介で、出入りする様になりました。しかし、そこのおばちゃんが、私の胸ぐらをつかんで、お店の外へ、突き出した夜があったので、行かなくなったのです。そう言う過去があるので、直子さんの投稿が、私を傷つけると、言うわけです。侘助という名前は、聞きたくもないというほどの、恐ろしくも嫌な経験でした。ただ、伊藤玄二郎が、その時も、裏にいたのかもしれません。スマホの盗聴でです。その直前、私は、同席の人が、「伊藤玄二郎って、大変な悪人ですよ。鎌倉の人間だったら誰もが知っている」と、話すのを聞いていたからです。

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副題2、『1998年以来、私は、ウールのロングコートというものに、社会階層の、表現を感じ取っているのだった』

 この章では、侘助を、中心にして、其の一点だけでも、解説をしていきたいと、思います。ここで、突然ですが、北鎌倉から、一旦、京橋へ飛びます。というのも、侘助への導入を果たしてくれた紳士とは、最初の出会いが、京橋だったからです。だから、京橋の、ギャラリー山口へ飛びます。其れは、7月だったと、記憶しているのですが、異様に寒い日で、あいてが、薄手の、ウールのロングコートを着ています。そういうお客から、ギャラリー山口内で、声をかけられました。

 私は、実家が、裕福だったので、父が冬の部屋着は、大島紬で、(それを、二つぐらい、着まわしていた)、外出には、ウールのロングコートを着ていたのを覚えております。父は、合いの(という事は薄手ウール)の、ロングコートも持っていました。それらの生地は、7本ぐらい、日吉のご近所のテーラーさんに、自宅にもってきてもらって、中から、一つを選んで、オーダーメードで、仕立ててもらって居たし、和服の方も、雪ガ谷か、奥沢の和服店が、風呂敷に包んで、反物をもってきてもらっていたのです。

 ところが、1998年の秋に、パリに、文化庁の在外研修生で、行った時に、ほとんどの人が、化繊のアノラック風のものを着て、ウールのコートを着ていないことに、びっくりしたのでした。私はマレ地区という、富裕な人が住んでいることで有名な、地域の、サンポール駅そばに、日本人の、有名な画家が持っているアパルトマンを借りていたのですが、その各階に、二戸だけあるアパルトマンの、住人は、地方の大学の学長のお嬢さんとか、その他、大変知的レベルの高い人達だったのです。真向いの男性は、アラフィフで、独身です。その人が、ベージュいろのウールのロングコートを着ていたのです。ある日パン屋で、同時刻に、列に前後して並ぶと、言う現象が起こりました。で、二人で、英語で、話していたのです。そのパン屋は、日本のパン屋組合の人が、ツァーを、組んで、見学に訪れるほどの、おおきなパン屋で、そこのお嬢さんはわがままいっぱいで、私を毎日虐めるのです。人種差別ってあるのです。今でも。教養の高い人は、押さえて、隠していますけれどね。ところが、その同じ彼女が、お隣の紳士をうっとりとして眺めるのです。その紳士ですが、大変上品で、のこぎりを借りた日に分かったのですが、学者か、物書きのどちらかです。ただ、普段は、乱暴な、態度のパン屋のお嬢さんが、まるで、夢見るがごとくで、とろけているのを見て、ウールのロングコートが、どれ程に、富裕層とか、上流階級の、持つアイテムであるのかを知りました。しかし、この当時、丸の内では、男性は、すべて、ウールのロングコートを着ていた時代であって、日本では、そういう差別を感じたことがなかったのですけれどね。

 ただね、そういう認識を持って帰ってきた、私は、京橋で、話しかけてくる相手が、ウールのロングコート(しかも、合いのもの)を着ていることに、すっかり、度肝を抜かれて、「川崎さん、そこらで、お茶しましょうよ」と、言うお誘いに乗りました。かれと私は、既にどこかで知り合って居るのです。だから、彼は、私の名前を知っているのですが、以前は、私の方は、相手を、『難しい人だなあ』と、思って、好きではなかった、人物です。

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副題3、『私は、40年間、銀座を回っているが、昼間、誰かと二人だけでお茶をした事は、三度しかない。前の二人は、国画会の人で、事前に、よく知っている間柄の人だった。あまり、よく知らない、このウールのロングコートの紳士のお誘いに乗ったのは、ある、心理学上の、興味を抱いたからだ。・・・・・この人は、以前とは、全く違う。何が彼を変えたのだろうか・・・・・と、そこが不思議だったから、お誘いに乗った』

 私はのっけから、正直に、「以前とは、全く違った印象を受けます。何かがあったのですか?」と、聞いた。すると、かれは、非常に正直に、かつ、子供っぽく「病気をしましてね」といった。この紳士の名前を、このブログの中では、出さないのは、彼が、その第一の、病気の後、また、大病を二度目として、するからだった。気の毒なところのある人なので、名前を伏せて、これから先、ロングコートの人と呼ぶことにする。

 私は、続けて、これまた正直に、「以前は、とても威張ったらしい感じでしたが、お仕事は、何をなさって居たの?」と聞いた。すると、「編集者です」と、彼は答えた。私は笑いながら、「そうですか。それで、わかった」と、答えた。今は、時間が過ぎ去っているので、その後、何を話したかは、しっかりとは覚えていないが、彼について、色々なことがわかった。其れを篇片のエッセイに仕立て上げて、月刊ギャラリー連載の一つとしたと思う。私の方が、雑誌を一冊彼に送ったのか? それとも贈らないけれど、彼が、画家仲間から、聞いて知ったのか、お礼の電話がかかってきた。お互いに鎌倉の住民なので、それで、金銭的なお礼云々などという事は、一切出なかった。ほかの部分で、お金を得るが、精神の分野では、金銭は、かかわってこないと、言うのが、当時の、中流階級の発想だったと思う。

 で、彼は、ともかく好意を持ってくれて、自分が参加しているグループに誘ってくれた。其れは、北鎌倉の浄智寺で月一回会合が開かれていた、匠の会である。お茶大付属高校の、同窓会の中のサブサークルOPCと、よく似た活動をしていて、年に一回の、グループ展と、バザーを、やるが、その他の月は、情報交換の場として、利用をされていた。OPCの方は、旅行と、講演会が、ぷらすとして、有ったが、こちらは、規模が小さいので、それは、無し。ただし、北鎌倉については隅から隅まで、わかりますと、言う様な会だった。土曜日に会合があるのだが、そのあとは、必ず、侘助へ、なだれ込む。そういう形で、侘助を知る様になる。

  ところで、鎌倉の住民同士だと、精神の分野の仕事にお金を払うという発想がないと、上に書いた。しかし、私の文章の金銭的価値について、保坂涼子さん(今は、航子という名前で活躍中)が、秋山祐徳太子に、質問をした事が、ギャラリー山口のオーナーみつ子さんの、死につながったと、思うので、この月刊ギャラリーの文章に対して、コートの紳士と、私の間に、金銭の話題が出たことがないとは、銘記して置きたい。

 ところで、山口みつ子さんと言えば、山口千里さんの話を出しておかないと、いけなくなる。

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副題4、『山口千里さんと、三越銀座店の、改修前の地階で、おちゃしたのが、銀座での、二人だけのお茶のみの最初の、場だった。山口千里さんが、私を誘ってくれたのは、私が、彼女に深く同情をしていて、それを、わたくしが、横から、彼女を抱きしめると、言う形で、表したので、その返礼だったと、考えている』

 私は女流展には、1990年から、2003年まで、国展には、1991年から、2002年まで、出品をつづけていたのだけれど、ああいう公募団体展では、出世のための、階段があるので、それを意識せざるを得なくなる。それに悩んでいて、私に電話で、愚痴を言って居たのが、渡辺幸子さんだった。渡辺幸子さんも、私も美大出身ではないので、学閥のサポートがない。それが、山口千里さんにも共通する弱点となっていて、私は、自分のことは、既にあきらめていて、いつ、ここを出ようかと、考えていたが、千里さんの方は、国画会を出るつもりがないのもわかっていたので、聖心女子大卒だし、まだ、まだ、大変だろうなあと思い、そういう点で、同情をしていたのだった。で、ある年のオープニングパーティに、都美館から、精養軒ビルへ、向かう途上で、山口千里さんをぎゅっと抱きしめた。私の方が年上だし、千里さんよりも、10cm以上背も高いので、お人形さんを抱くようにして抱きしめた。たった、一分程度だったけれど、私はありったけの愛情を千里さんに注いだ。だから、ある日、銀座で出会った時に彼女の方から誘ってくれて、チョコレートを一緒に飲んだ。

 そのお茶のみ会で、千里さんは、野見山暁次への、敬愛の念を熱く語った。私は、この時の二人の会話が、盗聴をされていて、その結果、千里さんが、野見山さんの秘書に登用されたのだと、思って居る。千里さんに名誉と金銭的利益を与えて、代わりに、私の友達で、は、無くなるという形。私から、友達を奪っていくという形。

 其れだけならいいのだけれど、何と、この千里さんが、私を攻撃する様になる。特にそれが、ギャラリー山口を舞台として起きるのだから、とんでもない話だった。

 こういうとんでもないことが起きる、2000年代だったから、侘助のおばちゃんが、私の胸ぐらをつかんで、店の外に放り出したのも、その時期だったらありえるのだと、思って居る。

 ところで、この野見山暁次・山口千里ペアは、私のことも、無論傷つけた。しかし、問題は、山口みつ子さんを傷つけた方だった。野見山さんは、みつ子さんが、自分をしたっていて、秘書、もしくは、後妻になりたいと、願って居る事を知っていた。しかし、婉曲に断るために、色気が、あまりない、タイプ(ただし、美貌の人ではある)、千里さんを先に秘書にした。そのことにみつ子さんは深く傷ついていた。野見山さんの個展の初日、会場に千里さんが居て、周辺の人が、私とみつ子さんとの、会話を聞いているのにもかかわらず、「千里さんって、どういう人なの?」と、みつ子さんが、私に聞いてきたときは、大変に困った。みつ子さんがかわいそうで、どう答えるべきかを、本当に迷った。「聖心女子大卒で、北九州の出身なので、野見山さんと、近いのだと、思う。でもね、性格は男みたいな人なのよ」と、答えた。

 婉曲に、野見山さんと、千里さんの間には、男女の恋愛感情はないと、言ったつもりだった。だけど、私が、そういったとて、みつ子さんが安心できたわけでもない。私は今でも悔やんでいるが、もっと、二人だけの場所で、みつ子さんと深く話し合いたかった。そして、「もし、野見山さんが、貴方を避けているとしたら、それは、貴方が、処女だからでしょう。きっとそうよ。性格とか、人格の問題ではないから、身を捨てて、希えば、望みはかなうわよ」と、伝えてあげたかった。野見山さんは、・・・・・・みつ子さんが、先妻とは、全く違うタイプなので、自分は、もう、年寄りだから、新しいことをしたくない・・・・と、思ったのに過ぎない・・・・・と、思う。億劫だったのだと、思う。

 みつ子さんは、将来の計画が狂って、とても、悲しい思いや、不安を抱いたと、思う。だけど、だからといって、自殺をする様な人ではない。私はこの章で、侘助のおばちゃんが、胸倉つかんで、押し出したと、言う恥辱や、竹屋画廊のおばちゃんが、同じことをしたと、言う恥辱も語り始めるのだけれど、

 「みつ子さん、あなたは、そういう風な、苦しみは、味わって居ないでしょう。だから、そんな屈辱を味わわされながらも、それでも、生きている私と同じぐらい、貴方も、強いのだから、自殺ではないわよね。他殺でしょう。苦しいなあ。それを思うと」と、語りかけている。いまだに。

 メモ、今関一馬先生と、シャーロックホームズ風のおしゃれ。市川市での、大個展に、ただ一人の画家として招かれた事。そこの出席者は、一高・時代の友人ばかりであって、私は、紅一点の出席者だったこと。マイクを使って、琵琶湖周航かを歌ったら、やにゃの喝さいを受け、その中の一人が、アトリエを訪問をしてきて、私がいないので、どういていないのだろうと、今関先生に問い合わせた事。などを考えると、さん

  侘助のおばちゃんが、お歌を歌っただけで、突き出したのは、変だと、いう事。私は、自分の人生で、お歌で、おおぜいの人を感動させたことが、三回ある。三回ともマイクを使って居る。しかし、マイクを使って居ない時だって、

 歌が原因で、胸倉をつかまれて外へ、放り出されたことはない。シロタ画廊で、歌った時だって、何にも起こらなかった。ところで、竹屋画廊など、歌も歌って居ないし何もしゃべっていないのに、胸倉をつかんで、放り出された。

 その瞬間、この手の、返事の裏には、酒井忠康氏の讒言があるはずだと、直観をする。

 其れをどこかで、書いたので、竹屋画廊は、商売をたたんだ。私は、酒井忠康氏が、閉鎖する様に、命令したのだと思って居る。そして、コートの紳士の、二回目の病気も、酒井忠康氏の、行動が、原因だと、見ている。

 そして、画廊るたんのオーナー中島三枝子さんは、私の目の前で、当時、国画会準会員だった、野口いずみに向かって、「この人のせいで、画廊を閉鎖に追い込まれたところもあるから、名刺を渡しては駄目よ」といった。私は、頭の中で、『竹屋画廊のことを言って居るのかしら? もしそうだったら、それは、違うわよ。竹屋画廊を開くように勧めたのも酒井氏だろうけれど、閉鎖を命令したのも酒井氏でしょう。とんでもない、濡れ衣を、私に着せるのですね。

 まあ、いいでしょう。将来、必ず、貴方をキ―パ-ソンとして、酒井氏の悪行や悪だくみを,書きますからね。だって、貴方の、暴力って、言葉によるものですが、竹屋画廊のおばちゃんの、胸倉つかんで、押し出した体への、暴力と通底では同じものですからね。しかも酒井氏の、言葉の裏側に隠されている真実など、何も知らないで、信じ込んでいるわけでしょう。

 ここから先は、北久里浜の、水道山の問題や、私の花畑だけ、コンクリート打ちをされていて、使えない問題や、石川和子さんが、猫のことで、警官を呼び、その警官が、これまた、ありえない、交通事故の調書を取って、脅かした、話へと、入って行かないといけません。お待ちくださいませ。

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雅子様はお馬のアレルギー・その3==大使・親任式==中曽根康弘元総理と靖国神社

2019-12-01 03:39:06 | 政治

これは、未完成なので、長らく、下書きボックスに入れていたのですが、のちに、次のブログを

皇后さまの体調に理解を、と、医師団が言うが・・・・・ここに、複雑な日本政治の、真実が奔出していると、私は考える
2019-12-12 22:25:31 | 政治を、書くのに、必要になったので、これをさらします。

12月1日に準備したものですが、12日の時点で、公開をいたします。

 

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副題7、『2019-11-29 中曽根康弘・元総理大臣が亡くなった。氏の思い出を語る、NHKニュース内では、・・・・・戦後の総理大臣として、初めて靖国神社へ参拝したが、中国からの抗議を受けて、二度目以降の参拝はなかった・・・・・というところが、私の心に響いた。こここそ、瓜南直子さんの、投稿が、私を傷つけていると、言う証拠の一つとなるからだった』

 鎌倉エージェントの面々、特に公的には、自分を死んだことにしているが、今でも、生きている、井上ひさしは、得意満面でいる事でしょう。私が何を書いても、自分が、雅子様を、掌中の珠として、いかようにも、仕込めるのだと、思って居るからです。

 それが、象徴的に表れたのが、お馬のアレルギーと、言うポイントです。日本に着任をした、海外の大使は、馬車に乗って、皇居へ向かい、親任式に、望むのを大変喜んでいると、聞いています。その際に、天皇皇后両陛下は、お迎えになるわけでしょう。雅子様は、お馬のアレルギーだから、馬車に乗って、大使が到着をするのを、お出迎えにならないのでしょうか? そうなると、ここで、まず、皇后陛下の、任務ができない、となりますね。ほーら、見てごらんなさい。天皇制は、これから、ぐずぐずになっていくだろうと、言うのが、この一年以内に、国民の目の前に、明らかにされますよ。あまり氏や、二階氏の将来評価は、どうなるのでしょうね。女性天皇というのは、愛子様でもありだけれど、未亡人の、雅子様でもありでしょう? 大使の親任式に、お出迎えにならない天皇になるのでしょうか? それとも、雅子様の、例の特別待遇・ご要求で、大使の親任式には、もう、馬車は、使われなくなるのでしょうか?

 まあ、私としては、この件でも、『井上ひさしって、本当に頭が悪いなあ。彼には、こういう将来予測がないので、お馬のアレルギーなんて言う、ありもしない病気を持ち出すわけですからね』と、思うわけです。かようにして、彼が、企画する、謀略には、瑕疵があるので、すぐ、彼が、作った脚本だと、わかります。井上ひさし本人は、国民、一億二千万人をだましてやったー。嬉ぴー、嬉ピーと、はしゃいでいるところでしょう。自分としては、「令和天皇【幼名徳仁様】を、からかってやったのだから、上出来だ」と、思っていることでしょう。それに、カソリックの信者として、同時期に、教皇様を、上智大学にお出かけいただいています。

 「この世をば、我が世とぞ思う、もちづきの、欠けたることもなしと、思えば」とうたった、藤原の、道長もかくや、と、思われるほどに、呵々大笑をしているところだと、思います。

 その井上ひさしが、攻撃用の道具として、駆使するのが、広島への原爆投下と、首相の靖国参拝です。前者は、教皇様が広島を、ご訪問なさったので、それに関連して、多数の、報道が、NHKだけでもありました。

 後者ですが、これは、』首相の靖国参拝を、違憲として行こう』とする集団訴訟と、言う形で、現れます。

 

 

 

 

 

後注1、

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