以下の文章ですが、13日の午前2時に、一応占めとしております。しかし、大村智先生と、女子美大学について、述べないといけないと感じ始めました。以下の文章の中で、この話題は、小さい事ですが』と、断っていますが、実は、小さくないのです。で、そちらにも、言及をして行かないといけなくなったので、少々、お待ちください。ただし、夜八時から、それを、書き始めます。との御断りを入れておりましたが、別章を建てようと思います。で、そちらの完成は、14日の午後零時ごろになる見込みです。その頃、その新しい方をご覧をいただきたく。
副題1、『ブログの世界が、どれほどに、紛糾しようとも、月曜日は、銀座の画廊巡りへ行くのが、通常の私の行動形態だった。そして、時々は歌舞伎にもいく。その理由は弾圧が激しいからこその、生きる知恵でもあるのだった。行動の自由を確保しておくことは、大切である』
口を極めて強調をしておきたいのですが、私は犯罪者でもないし、テロリストでもないし、悪人でもないのですよ。ただ、ただ、すべての物事で、真実を見抜く目を持っていると言うことと、それを文章で、再構成して、他人に説明をする能力があるので、弾圧をされるのです。
それが、どうして起きるかと言うと、日本が、被・植民地社会であって、大量の金銭が海外へ吸い取られていて、日本人が貧乏になって居るからです。それが日本の現代政治であって、その構造の根本を、私は、把握していて、それに沿って、すべての物事を解析するので、真実がさっとわかるのです。
しかも、弾圧は幽霊が行うわけではありません。具体的に生きている人間が使われます。特に自分が住んでいる鎌倉雪ノ下の住民と銀座の画廊街の、オーナースタッフ、そして展示をしている画家が、弾圧を行います。
最初はそれが、目的ではなかったのに、今では、銀座の画廊街で、オーナーやスタッフさんがどういう態度を取るかも、見事に政治的分析に役立つので、それを飲み込んで、行動をしているのです。
で、本日はあれこれ、書き散らすようですが、画廊るたん、と、そこで、今週と先週の2週間、展示をしている(らしい・・・・・私は見に行っていない)荻太郎氏と佐野ぬいさんに、言及したいと思います。
どうしてそう言う事をするかと言うと、これは、比較的小さな話題です。しかし、見事に政治が絡んでいて、いろいろ、説明をするのに楽なので、ここで、忘れないうちに描いておきたいからです。小さいからこそ、忘れがちですので、備忘録として、書いておきたいと思います。それに直前に書いた章は、これ以上の説明をしないで、放っておいた方がいいと、判断をしています。私にとっては、その文章も因果関係はすべて見通せていますが、それを、今書いても、国民一般の常識とはかけ離れ過ぎているので、私が損をするだけなので。
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副題2、『先週銀座へ行ったところ、目につくところの看板やらポスターで、画廊るたんに於いて、荻太郎+佐野ぬい展が開かれていることを知った。それが、潜在意識の中にあったのだろう。画廊るたんのビルへ到達する、19m手前から、ビルを見上げて、画廊るたんの、窓の在り方を確認する私だった(後注2へ)』
どこかで、それをすでに書いているので、リンク先を見つけるべきですが、画廊るたんのオーナー中島三枝子さんは、誰かから、教唆されて、それを、信じ込んでいるらしくて、私を悪者扱いをするのに、非常に熱心です。または、下賤なものとか劣等したものとして扱うのに熱心です。
そういう風に彼女を洗脳し教唆したのが誰であるかを知りたいのですが、彼女自身がそれを告白してくれるはずもないので、想像をたくましゅうするわけです。4,5人は居ると思います。その中の一人が佐野ぬいさんである可能性を最近では感じていて、特に、2011年以降はそういう風に感じています。
佐野ぬいさん自身は、とてもいい人なのですよ。お育ちがいいので、ゆったりしていて、言動にも問題のない人です。面と向かって、いじめられた記憶はないのです。もしかするとお父さんが戦前の慶応卒かな?
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副題3、『佐野ぬいさんの弟に、佐々木来目夫と言う人物がいて、この男性が私とは、大学一年時の同級生である。しかし、2011年にフェイスブックで、友達申請をしたのに無視してきた。それが変であって、私は、深い疑惑にとらわれた』
上に申した通り、佐野ぬいさんは、いい人です。しかし、2011年の五月から、私が第一次、フェイスブックを開始して、佐々木来目夫君へ友達申請を出すと、無視されたのですね。変だなあと、思いました。佐々木来目夫君とは、佐野ぬいさんの弟です。佐野ぬいさんは画家として、結婚後の名前を使っておられるのです。
と、同時に、来目夫君の方は、私の、大学時代の、一年時の、たった23人しかいない同級生でもあります。私は、当時、前歯に金冠をはめていたので、容貌が劣ると言う事で、国際基督教大学の、男の子とは一切付き合っていませんでした。国際基督教大学って、育ちの良いお嬢様が多くて美女がいっぱいいるので、容貌と言う意味では、劣等生の方でしたから。ただし、知る人ぞ知る頭の良さがあって、その時代に、すでに、CIAから、暗殺すべき人物として、目を付けられていたのでした。それに、私自身が気が付いたのは、13年ぐらい前の、2003年ごろでしたが。長い間、気が付かなくてよかったです。知らないからこそ、助かると言う事もあるのでした。(苦笑)
ところで、主人とは、浪人時代の予備校の申し込み時に、番号が、一番だけ違う生徒として、一晩を、前後の席に座るという形で、一緒に過ごした仲で(予備校側が、そう言う風に座る様に手配をしたので、そう言う事になって居る)お互いの予備校内での、学生番号を知る仲となって居ました。そして、二人とも、その500人以上がまなぶ、大人数の教室では成績が良かったので、お互いに、成績張り出し票の前で、大きな番号で出ている相手へ、お祝いを言い合うという仲でした。大学一年時に偶然に住所が手に入ったと言う事で、向こうから手紙をもらい、それ以来手紙の交換をしていましたけれど、それ以外に、男性との付き合いは全くありませんでした。
でもね、国際基督教大学の、1962年時のカリキュラムって、びっしりと、あって、しかも少人数制なので、同級生同士は、全体として、仲が良かったのです。芝生が張り詰めてある庭の築山の上で、集まって懇談をしていました。前々報で、出て来た、川名昭宣君と仲が良くて、最近・急死した入江多喜雄君と言うのは、別の大学から転入をして来た、学生で、年上なので、リーダーとして、そのクラスを牛耳っている男性でした。この入江多喜雄君については、ここでも、口をつぐんでおきましょう。彼を解説し、分析することは、非常に大きな事へ発展をしますので。
この同じクラスに、なりすまし疑惑問題で、最重要人物であろうと、私がみなしている古村浩三君と、佐々木来目夫君も入っていたわけです。ただし、この二人には、大学が制定したクラスよりももっと濃い形で、帰属する、別の組織がありました。それが、第一男子寮と、ラグビー部です。そしてその両方ともに、石塚雅彦さんが先輩として絡んでいます。ああ、厄介な事ですが。
だから、この二人にとって、クラスとは、お義理で参加するサークルだという感覚であって、貢献度は少なくて、発言もほとんどなくて、私は、1960年代には、二人の事を、その性格やら、その他を、正しく、認識することさえなかったほどです。
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副題4、『ここで、私が、子供時代を日吉で、過ごしたことが関与して来る』
私は日吉で、育ったので、あんまり詳しい事は言えませんが、そちらから、佐々木久目夫ちゃんが、佐野ぬいさんの弟なのだと、知らされることとなったのです。二人の父君が慶応卒なのかもしれません。
また、石塚雅彦さんも同じ町の出身で、当時は、井上正夫(戦前の新劇俳優)の墓があったあたりに住んでいたという話です。全部収斂をしてきますね。また、線路を隔てて、反対の東側に住んでいた中村紘子さんが、最近亡くなったのも、聞いています。
佐野ぬいさんと佐々木君の、二人は全然似ていません。体型も顔もです。だから、姉弟だと、聞いた時には、しばし、信じられませんでした。特に佐々木来目夫君の方が、ほかの学生に、姉が有名人だと言う事については、何も知らせなかったと思いますよ。
でね、鶏が先か、卵が先かの、論争ではないが、
ここに、私がパリで知り合った画家の山内ゆり子さんが加わって、そう言う、昔は仲が良かった人材が、すべて、敵方にリクルートをされてしまっている事を語らないといけなくなりました。それで、佐々木君もフェイスブックの友達申請を無視してきたのだと思います。
それは、馬越陽子さんもそうだし、前川佳子さんもそうです。別にお茶を一緒にしたりするほどに仲が良かったわけでもないけれど、穏やかに、こちらは尊敬をするし、相手も、ノブレスオブリッジを示すという間柄だったのですよ。
これらの変化に、だれが寄与して、裏で動いているのか。まさかと思うが、古村浩三君が、第一男子寮、ラグビー部、そして、一年時の同級生である事(一日に、6,7時間は一緒に過ごしました)の、三つのラインを使って、来目夫ちゃんを支配している? 疑えばきりがないが、そういう、可能性も無きにしも非ずなのでした。
でね、弘前に居て、大きな洋菓子屋さんを経営している来目夫ちゃんにも、私は、東京では、会わないし、電話番号を知ってはいるが、『どうして、フェイスブックの神性を、断ってきたの?』などと、電話を掛けもしないわけです。また、めったなことでは佐野ぬいさんにも会わないのです。が、佐野ぬいさんの方は、画廊るたんで、たびたび、グループ展をするのですね。その画廊るたんのオーナーが、中島三枝子さんで、
行くたびに、激しいいじめを仕掛けて来て、かつ小細工を弄する人なのです。この小細工ですが、彼女が独自で編み出したと言うよりも、見事に鎌倉エージェントからの指令でしょうね。間に誰かが入るか入らないかは別として、コンセプトが、雪ノ下の連中が示すものと、全く同じなのです。
そうなると、画廊るたんとは、莫大な損失を与え続けてきている、伊藤玄二郎一派の組織の、一部だと、なります。そこで、継続的にグループ展をする作家が佐野ぬいんさんだと、成ります。
佐野ぬいさんが、そこで、グループ展をする事自体が、それもまた、中島三枝子さんを助けるために、佐野ぬいさんに依頼をしているという事かもしれません。で、それも、鎌倉エージェントの意志なのかもしれないです。
そうなると、もしかしたら、中島三枝子さんと、そっくり同じ様な、態度を、佐野ぬいさんが見せるかもしれないじゃあないですか? 『女子美の学長だから、まさか、それはないでしょう』とは思うけれど、目を吊り上げたいじめ顔を、こちらに向けるかもしれないじゃあないですか?
それは、残念至極だと言う事です。だから【画廊るたん】には、顔を出さない様になりました。ともかく、伊藤玄二郎と仲良くすると、間に誰か別の人を挟んでもですね。必ず、鬼畜めいた人格に、その昔は、善人だった人が、変化してしまうからです。
佐野ぬいさんは、美的には、非常に美しいものを表現する人ですが、声には、それほどに美がこもっては居ません。ところが、弟の、来目夫ちゃんの方には、男の子なのに、鈴を震わす様ないい声があるのです。
私は1960年代のICUに於いては、控えめに控えめに過ごしていたから、私の声を聴いた人はほとんどいないのではないかなあ。
しかし、私の声がいい事は、神様は、すでにその頃から、ご存知ですよ。そして、30代以降は他人にも、そういわれる様になります。元へ戻って、学生時代の話ですが、1965年の秋の夜長、ウィリアムヴォーリーズ設計の、国際基督教大学の本館で、誰もいない化学実験室で、2時間ぐらい歌を歌って過ごしたのです。フラスコの前を離れてはいけないのですが、実験には、人間は、手を加える必要はないのです。だから、お歌を歌うぐらいしかやることが無いのですね。
その本館がどうも壊されそうです。しかも新しい建築は、隈研吾氏が設計するらしいです。隈氏の特徴は主に屋根の形状に在るそうで、そうすると内部は西隣の、白井氏が設計する? もしそうなると、おや、おや、おや、ですが・・・・・
でもね、その時に深く感じたのです。いい声が出るときは神様が傍にいてくださると。ところで、そう言ういい方は、科学的ではないので、科学的に言い直すと、声がきれいな人は、素早い速さと、深さで、自己コントロールをしていると、見えます。激情とか欲望を、ストレートに出すと、いい声にはなりません。つまり、高度に、自己抑制ができていて、洗練をされていると言う事です。私だって、いつもいい声が出るとは限りませんので、そう言えます。
私は、1960年代にその美しい声を聴いた「佐々木来目夫、佐野ぬい姉弟は、オホーツク海に消えて行った流氷だ」と、思う事にしているのです。『手が届かないほど、遠くに行ってしまった存在だ。だけど、氷って、水の結晶だから、きれいでしょう。遠くに居て手が届かないが、きれいなままで、今も存在しているのよ』と、思う事にしているのです。そして、それ以上の情報をもう入れない。それが、私の流儀です。
1998年の、パリでは、親切で面白い人だった、青森出身の、しかも上智大学出身の画家、山内ゆり子さんの、その8年後の、変化に、驚かされて以来、その様に努めているのです。青森から、これ以上の悪い念波をもらいたくないです。
2016年9月12日から13日にかけてこれを書く。 雨宮舜(本名 川崎千恵子)
後注1、
北朝鮮の核実験のNHK報道を見ている内に、3.11・人口生起説に信ぴょう性が出て来た 2016-09-12 21:38:55 | 政治
後注2