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銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

実母と、娘の確執は、娘の後日に、悪影響を及ぼすのだけど、それをいつ晴らすかが問題だ

2013-11-26 02:35:42 | 政治

 以下の文章は、2013年11月24日の、15:34:54に、最初は、アップしたものですが、自分としては、『相当に深いところまで、探求した文章だ』と、いささかの自信を持っている文章です。あっという間に、次のものをアップしてしまったので、お読みいただいた方が少ないと思い、ちょっと残念に思っているものです。今、次ぎの文章を準備中ですが、それが完成する間、こちらを、もう一回、お読みいただけると、幸いです。 なお、タイトルを、また、変えております。最初からは、何回も変わっていますが、直前には、『提婆達多(中勘助)』から問う。あなたは、シッタルダなのか? 提婆達多なのか?』としておりました。そのときよりも平易な、しかし、全体をあらわすものに変えております。

副題1、『ニューヨークの騎馬警官』

副題2、『しかし、若奥さんが、テレビゲームばかりしているので、子供が私に、なついて困った』

副題3、『その女性には、未自覚だが、確実なるモノとしての、母親に対する怨念が、あるのだった』

副題4、『母が、認知症になる前に、子供として、やっておくべき事』

副題5、『引越しに取り掛かるが、エレベーターが止まってしまう。1999年に、すでに、私は、敵さんに、囲まれていたのだった』

副題6、『私は何ものも恐れずに、アメリカを感得していく。きわめてみずみずしい心で』

副題7、『1980年代から1990年代にかけて、ニューヨークへ飛んだ日本人女性は、日本で、何らかの挫折を経験している勝気な性格の子が多かった』

副題8、『プラット・インスティテュートって、版画工房ではなく、大学だった。それには、驚いたし、大学院へ入学できて、欣喜雀躍をした』

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副題1、『ニューヨークの騎馬警官』

 これは、キャロラインケネディ新大使が、皇居に馬車で向かった日に思い出したことですが。

 1999年の9月の事です。私はニューヨークマンハッタン島の中心より、やや西側に住んでいました。ニュースで、ニューヨークと言うと、すぐ出てくるタイムズスクエアー(または、ブロードウエー)に、徒歩7分で行かれるという便利な場所でした。

 一部屋だけ借りて、あとは、シェアハウスと言う形式で、台所やお風呂は皆で使います。800ドルで、当時の日本円に直すと、10万円です。6畳ひとまで、10万円はお高いが、初めてのニューヨークで、しかも駐在員と言うわけでもなくて、誰にも何も世話をしてもらえないので、日本の丸善においてあるOCNニュースで、見つけた場所で、文句は言えない場所です。

 マンションではなくて、商業ビルの8階部分を丸々、100平米ぐらい借り切って使っている日本人夫妻の一間を、また、借りしたのでした。今日は規制緩和と言うことについて語りたいのですが、借りたものをさらにまた貸ししても、ニューヨークでは、誰も文句は言わないのでしょう。日本ではだめなはずです。

 ところで、もしかしたら、8階ブン、丸々、買い取っている可能性はありますが、それは、持ち主側がやらないと思います。権利関係が面倒になるから。

 窓は、はめ殺しのガラスが入っていて、私の部屋には、カーテンもありません。全室に強力な空調が入っていて、それで、外とつながっているという形なのに、ある朝、ひづめの音が聞こえてくるので、びっくり仰天をしました。斜め横に、8th Ave と言う南北に走る大通りが見え、そこを、騎馬警官がかっぽかっぽと歩いているのでした。一騎で、南から北へ向かって。そこはマンハッタン島としては、西側に当たるので、朝の五時では、車は通っておらず、人もあまり居ないので、悠々としたものです。

 ニューヨークもこうならワシントンも同じでしょう。『おー、おー。優雅なものだ』と、感嘆をしました。マンハッタン島を、南北に走る道路は、ここで、東から数えて8本目ですが、斜めに走るブロードウィイなどを入れて、ほぼ、10本あるので、10人ぐらいの騎馬警官が、ニューヨーク市警の一員として、常駐勤務していて、お馬さんのお世話をしているのでしょう。そういう警官は、・・・・・・別の町に居るらしい、あの乱暴な、カラードの少年を、警防で、叩きのめす、警官・・・・・とは違うと、私は感じています。

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副題2、『しかし、若奥さんが、テレビゲームばかりしているので、子供が私に、なついて困った』

 大家は日本人夫妻です。30代後半で、二歳未満のお子さんが独り居ます。ところが、奥さんが、ファイナルファンタジーなどのテレビゲームばかりやっていて、育児も家事も何もしません。一週間後に、もう一人の借家人が夏休みを終わって帰ってきました。日本の大企業の社長のお嬢さんと言うことで、よく、できた才媛です。こちらは、家事のしつけは、できているお嬢さんで、風呂の掃除は、彼女担当との事でした。「誰から命令されなくても、不潔だとたまらないので、掃除しちゃうの」との事です。4畳半程度の控え室と、4畳半程度の、風呂場の両方を髪の毛一本落ちていないように、彼女が掃除をするとの事でした。

 台所ですが、何もかも放うったらかしで、洗い桶の中には、どろどろの汚水がたまっているというような状態でしたが、それも、台所を使いたい人間が、掃除をするとの事でした。

 ここの若奥さんの話ですが、お金が豊満にあるということと、ご本人の工夫(・・・・・私に言わせれば-方向の工夫ですが・・・・)さえあれば、楽チン、楽チンの生活ができるのでした。だが、テレビゲームばかりやっていると、お子さんが、不満になるというか、ナンと言うか、たまらない生活になるので、必死に私になついてくるのです。私は行動しますからね。面白いわけです。

 若奥さんは、頭は悪くないです。住まいを、隣近所が、誰も居ない場所に作ったのも賢いし、私達間借り人が使う窓以外の、窓と言う窓には厚いカーテンを張り巡らせて、いつも、夜のような状態にしておいて、ずっと、連続してテレビゲームをしています。食べ物は店屋物のピッツァかインスタントラーメンみたいです。

 ご主人は奥さんに比較をすると、日本にある実家がお金持ちではないので素。だから、奥さんに頭が上がりません。しっかりした会社に勤めていますが、日本で言うブルーカラーの仕事なので、奥さんは、頭から、馬鹿にしていて(?)、夫のために、「朝、暖かい、お味噌汁つきの朝ごはんを作って、会社へ送り出しましょう」と、言うような気配は、微塵もありません。

 私の方ですが、その前の年は、パリで、日本人有名女流画家の持ち物(マンションだが、一戸丸々)をお借りしていたので素。比較すると、これは困ったという状態でした。パリでは、ノートルダム寺院まで、歩いて、15分と言う位置(サンポール駅近く)の、60平米ぐらいの高級な、アパルトマンに一月、16万円住んでいて、夜、一人で、ものを考えたり、文章を書いたりする、自分としては、最高に、すばらしい生活を経験した直後だったので、こちらでの、夜の自由がない(・・・・・お子さんは、まったく私を離してくれない・・・・・)のには、参って、2週間以内に、別の場所(半地下だが、一人で、全部を使えるマンション)を、見つけ引っ越すことにしました。

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副題3、『その女性には、未自覚、の<<<母親に対する怨念>>>が、あるのだった』

 ある夜、私が切り出して、「こういう理由で、引っ越します」というと、さすがに彼女は、驚いて、でも、テレビゲームのコントローラーは手放さないまま、「母が来ると、この家、きれいになるのよ」といいます。私が黙っていると、ボツボツと、彼女は、ご自分が、すでに、認識をしていることを語り始めました。つまり、ご自分の過去の人生を。

 「母と、妹は、家事がものすごく上手です。でも、私は下手です」・・・・・・・・・・私はさらに黙していて、間に時間が入ると・・・・・・彼女は、

 「私は、母に、愛されなかったのです。母は妹だけを偏愛しました」と言いました。それで、すべてがわかりました。坊ちゃんが、まだ、ヨチヨチ歩き程度の段階で、言葉もはっきりしないのに、私のやる事をすべてまねをするのですが、その理由が判ったのです。私が自分の部屋においてある、座卓形式のガラステーブルを、ぬれ布巾で、ぬぐうと、すぐ同じ事をするのです。坊ちゃんには遊び相手が居ないので、私が遊び相手です。特別な遊びはしてあげないけれど、自分の用事をしながら、彼には、話しかけます。

 私は、こんな硬い文章を書いている不器用な人間に見えるでしょうが、実際には子供、特に、プレ幼稚園の子供の扱いなんか超が付くほど、上手です。小手先で、処理するのではなくて、心から、子供を愛しながら対応するので、本当になつかれます。

 子供をしつけるのは、飴と鞭だと以前に言いました。母親が抱いて、母乳、(もしくは哺乳瓶)で、ミルクを与える。これが、飴です。これが、赤ちゃん時代から始まる、基本的な快感です。その基本的な快感を与えてくれるお母さんが、怒って、しまうと、世話をしてもらえず、ミルク(または、母乳、または、離乳食)がもらえないことを知り、お母さんが怒る顔を見せ、怖い声で、叱ることによって、

・・・・・・ストーヴを触ってはいけないとか、お風呂場の蛇口をひねってはいけないとか、いろいろな、やると、自分自身が傷ついたり、他の人が困ることを、やっていけないと言う事を覚えていきます。と、同時に、お母さんは、動かないといけません。普通の行動でいいのですよ。普通の用事をやる。それが、子供への自然の教育になります。

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 ここで、後日の挿入ですが、私がひとつだけ悔やむことがあります。それは、他人のお子さんの世話をしすぎて、ぐったりしてしまい、夕方の六時に、他人のお子さんが帰ると、ほっとして、疲労困憊りしてしまい、元気に、ふつうの家事を、できなかった点があるということです。外面(そとづら)を良くしすぎていて、内面(うちづら)が悪かったかな? だから、あまりに他人のお子さんの、世話をしすぎたのも、問題だったと思っています。自分の子と、他人の子を、平等に扱うのは、ご近所のママ友に、信頼されるゆえんでもありましたが、実は、『もっと、自分本位に生きた方がよかったかなあ』とか、「今日はもう帰ってね」とか言って、『我が家だけ、または、わが子だけを、守った方がよかったかなあ』と、今では思っているのです。

 『文明化した家庭、洗練度の高い家庭と言うのを理想としていたけれど、もっと、動物的、本能的でも、よかったかな』と、今では、思っています。

 ただね。幸いなことに、4人孫が居ますが、彼らが小さい頃に、私の子供たち(娘も息子も)は、ちゃんと、追い掛け回して、体を使って、かわいがっています。叱ったりしながら、ちゃんと、自分の身を動かし、労働をして、育てています。

 私の主人が、そういう姿を見て「あの子達は疲れるだろうね。若いから、子育てができるんだろうね」と言っています。が、そのとおりです。そして、主人は、私が同じように、氏かも他のお子さんまで、育てていた修羅の時代を知りません。だから、私に感謝の言葉はありませんが、まっ、いいか(笑い)。

 まあ、わが子が、ちゃんと子育てができているということは、よかった事でした。よく、子供を虐待する親が居ると、聞きますでしょう。ああいう親って、体を動かすのを厭うのです。労働をするのを、嫌がるのです。今は四年制の大学を出た親(母親)が多いです。そういう人は、小さい頃から、受験勉強をしていますので、体を使うことを知りません。

 だから、口先だけで、叱ったりします。すると、子供が嫌な顔をしたりします。そうすると、親が逆上してしまうのです。子供だって、賢いです。親が口先だけで、しつけようとしても、言うことは聞きません。それをまた、親がいやがっていては、悪循環です。

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 挿入から、元に戻ります。

 マンハッタン島で、出あった、私より、10~15歳程度若い、そのお母さんは、部屋の掃除や、洗濯物の収納なども一切やらないのです。そして、育児もしません。ただ、ただ、逃避行動の一種であり、快楽ももたらす、テレビゲームばかりやっています。これは、1999年の事でしたから、フェイスブックはまだ始まっていない時代ですが、フェイスブックが始まっていたら、どうなっていたかあ? フェイスブックに夢中になって、幼いお子さんを餓死させたお母さんが、居ましたね。それは、日本の話ですが。

 で、彼女の告白を聞いてから、やっとわけがわかりました。彼女の今の生活は、『自分の母親に対する深い怨念が、正しい出口を失っていて、一種の自傷作用として、発露されているのだ』と。賢い人だから、『自分が、今やっていることは、よくない事だ』とわかっているのです。だけど、方向転換ができないのです。それは、深い深い怨念があるからです。

 母に対する怨念は、表には噴出していません。母と妹が、ニューヨークに来たときに、掃除しまくっても、「嫌だわ。そこまで、やっちゃあ。この家の主婦は私よ」とか言って抗議はしません。喧嘩をしないのです。でも、ケンカをしないと言うことは、事実を直視していないということです。

 この若奥さんは、頭がよくて、日本では、特に若いときは、母親に対しては、反抗ひとつしなかったと思われます。それが問題なのです。毎日蓄積された苦しみや悲しみは、頑固な花崗岩みたいに凝り固まっていて、容易には解けません。ただ、彼女も、救いは求めています。救いを、まったく関係のない場所で、・・・・・テレビゲームにふける、そういう快楽にふけるという形で、・・・・・救いを求めています。

 だから、最初には驚いて、批判ばかりしていましたが、今では、かわいそうな 人の一人であって、『根本的な解決は、母親との対決を待たないと、できないだろうなあ』と思っています。残された道はただひとつです。

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副題4、『親が認知症になる前に、子供として、やっておくべき事』

 母親から、「あなたには申し訳ない事をしたわね」と言葉に出して、しかも、心から、謝罪をしてもらうのが一番いい道です。が、それが、望めない場合は、母親に向かって、「私は苦しかったのよ」とか、「私は、お母さんを、うらんでいました」と、言ってしまう方がいいのです。

 そうすると、修羅場が訪れるかも知れません。時には、遺産相続で、不利になるかも知れません。でもね、お金よりも、心が大切なのです。心が健やかで、ある事が大切なのです。お金はどうにでもなります。心身ともに健康なら何とかなります。

 で、修羅場が起こった後ですが、親が賢かったら、反省してくれるでしょう。そして、遺産は全うに、予定通りに、来るはずです。が、どうしても遺産が来なかったら、遺留分で、争えばいいのです。

 ところが、それは、あなたが、十分に若くて、そして、親も若い頃に、やって置かないとだめなのです。アエラに、毒親特集と言うのがあり、娘さんに向かって、「お前が、泥棒をして、私の貯金通帳を盗っただろう」と、言うような親御さんの、介護をせねばならず、疲労困憊をしているという記事がありました。そういう風に、親が認知症になってしまったら、もう、修復が利きません。親もアウト、自分もアウトです。

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 なお、この一文を書いた後で、週刊朝日も同じテーマで、特集を出しているみたいですね。25日発売の12月6日号です。私は、買っておらず、まだ、読んでいませんが、電車内の、中吊りで、知りました。

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 この関係は、父と息子の場合にも起こりえます。だから、できるだけ、丁寧に、どこかで、対決して、親に反省を迫って置いた方がいいのです。言ってみるだけでもいいのですよ。親が変わらなくても、いいのです。問題点がどこにあるかを、自覚できるので、その後、逃避をしないで済みます。元気に生きていく事ができます。

 日本社会って、お金至上主義であり、遺産相続と、相続税を軽くするためのセミナーなど、資産家の心をくすぐるために、しょっちゅう開かれているみたいです。が、心の修養の場がありません。ニューヨークで、知り合った中産階級の人たち、そして、パリで、知り合った、こちらは、中流の上の、クラスの人たち、そのどちらも、意外なほど、純朴でした。

 たぶんですが、キリスト教の遺伝子が、そこ、かしこに、残っていて、心の問題が、きわめて大切だと言う事を、皆が、わかっているのでしょう。映画なんか見ると、欧米の方が、崩れているみたいですが、実際には、日本の方が、より、崩れている部分があります。

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副題5、『引越しに取り掛かるが、エレベーターが止まってしまう。1999年に、すでに、私は、敵さんに、囲まれていたのだった』

 日本に住んでいる通常の状態だったら、上の家族にも、手を差し伸べて、奥さんが、もっと、健康的に暮らせるように、導いたかもしれないのですが、この場合は、私自身が日本の家族を捨てて、ニューヨークに来ているので、大変切迫をしています。自分の方の、子供は、そのときに、すでにサラリーマンとなっており、二人とも、成人式を過ぎていました。25と、27歳でしたが、まだ、結婚をしていません。でも、ニューヨークで、修行をするのは、今しかないと思いました。そして、それは、当たっています。 

 あの頃から、14年が過ぎました。心身ともに、レベルが下がっています。だから、とても、同じことはできません。あれはあれでよかったのです。クイーンズと言う、今のニューヨークでは一番家賃が安いはずだが、治安は、安定しているところ、(マンハッタン島の外である)に、引っ越すことに決め、アパートも自分で選び、決定しました。

 引越しの日に、エレベーターが壊れました。今思うと、これも、敵さんの工作です。エレベーターは、とても、簡単に、外部から操作する事ができる模様で、金沢駅前のアパホテル(大規模である)で、掃除のおばさんが、挟まれて亡くなったのも、怪しいと、私は思っている次第ですが、・・・・・

 でも、何はともあれ、めげない明るさを持っている私です。非常階段を点検してみました。割れたビール瓶が散乱し、レジ袋や、ポテトチップスの食べ残しなども、散乱しているすさまじ区、汚い場所でしたが、気をつけて、8階分を昇り降りしました。飛行機で持っていった分と、日通を利用して別便で送った分があるので、相当な荷物でしたが、私が、二回、手伝ってくれた運送会社の人が、一回、昇り降りして、何とか、積み込みました。

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副題6、『私は何ものも恐れずに、アメリカを感得していく。きわめてみずみずしい心で』

 その引越しの際に、運転手は、後ろのドアの鍵を閉めて、八階へ上がろうとするので、「15分で帰って来れますよ。開けておいたって大丈夫でしょう」と、私が言うと、「ノー、絶対にだめです」と、言います。あたりに人は通っていないのですが、後ほど、ここは大きなバスステーションの裏側なので、お店がないので、特に人通りが、少ないのだが、それを利用して、ホームレスに対する給食車も来るということを発見したので、確かに、トラックの後ろのドアを開けていると、たった、15分でも、モノは盗られるのかもしれないのでした。

 だが、その道路の、特徴、如何にかかわらず、治安は、圧倒的に悪いみたいで、ニューヨークもパリも、日本人特有の、外部に対する警戒感のない心構えでは、暮らせない町であるらしいです。トラックの荷台を開けたまま、15分ぐらい持ち場を離れるのは、鎌倉の我が家近辺では、よく見る形ですが、それをニューヨークで、やってはいけないらしいです。

  運転手は、カラードだけど、とても明るい青年でした。、ジャマイカ人だそうで、誇り高い、かつ陽気な青年だったので、「スタインウェイ(向こう)まで、助手席に乗せて行ってくれない」と頼むと、「いいよ」といってくれました。ここが、日本と違うところなのです。日本の引越し業者および、宅配業者に、「助手席に乗せてください」と言ったら、断られるでしょう。とても、細かい就業規則があるみたいです。会社そのものにもあるのでしょうが、全体的に、法的な規制もあるらしいのです。

 むろん、その代わり、日本では、チップが要りません。会計上は明瞭です。でも、行き先にぴったり同じ時刻につくことができるのですから、この程度の小規模な引越しなら、助手席に乗せてくれた方が、便利なのでした。

 で、私はアメリカで初めての、プチ旅行をします。トランプタワーのそばを、高い助手席から通り過ぎるのは、すこぶるな快感でした。そして、鉄でできた頑丈なロバート・ケネディ・ブリッジをわたって、クィーンズへ入っていきます。庶民的だけど安全で、暮らしよい町で、マリアカラスが育った町です。美容院の主人だって、軽くオペラを、うなる町へ、私は、住む人として、入っていきました。そこでの交流や発見はすばらしい宝物なのですが、本日は触れません。

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 さて、上の部分、8000字は、前置きにしか過ぎないのです。ここから先、いくつかに、分かれます。規制緩和のテーマでも、あれこれ、書けるし(1)、天皇陛下が、国民のまったく知らないところで、鎌倉エージェントたちに利用されなさっていること(2)へも、進行できます。

 また、アメリカでの、喧嘩の体験にも入る事ができます。そこからも、重要なことがいろいろかけます。本日だけでは、最終段階までには、進みませんが、徳州会事件・・・・・特に猪瀬東京都知事は、お金をもらったことを、なぜ、今、ばらされてしまっているか(3)とか、を解明する文章に入っていくことができます。

 で、本日は私に勝手に選ばせていただき、最後のアメリカでの喧嘩の体験に入っていきましょう。私は、それ以前には、喧嘩など、したことがない人間でしたが、アメリカで、ひどい追い詰められ方をして、版画の仕事がまるで、できないので、喧嘩をしてみたら、軽く勝ってしまったという話です。

 しかし、相当に複雑な話ですが、一生懸命書いてみましょう。

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副題7、『1980年代から1990年代にかけて、ニューヨークへ飛んだ日本人女性は、日本で、何らかの挫折を経験している、勝気な性格の子が多かった』

 今、日本の若者は、海外へ武者修行に行くのを好まないそうです。この前・・・・・、慶応大学の一年生男子が、四人で、超お行儀よく語り合っていたが、テーマが『いかにして女の子を引っ掛けるか『と言うことだったので、仰天をした・・・・・と、報告をしていますが、まあ、お受験、お受験で、来て、男子校で、暮らしてきたのなら、女の子と、付き合うという、そのことそのものが大冒険なのかもしれません。だから、彼らは、純真なほうだといっておきましょう。

 東大生なんて、東大の学生証を見せるだけで、何の苦労もせずとも、女の子が寄ってくるという話です。ゲット、超簡単と言う話です。

 さて、私が最初にニューヨークにわたったのは、1999年です。これは、ICU卒業生としては、大変遅い方でしょう。でも、それで、よかったです。十分に、成熟してから行ったので、よい仕事(版画制作)ができました。で、私が付き合ったのは、外人の版画家が多いのです。だが、所属する場所に、少数ながら日本人もいたので、日本人相手に喧嘩をすることとなりました。

 その時、その当時、ニューヨークに住んでいる40歳以下の日本人女性は、何らかの、挫折を日本で経験して、その挽回措置として、ニューヨークで、箔をつけたいと思って来ていることが、判りました。

  そこが、そもそも、彼女達、日本人女性と、私が違うところだったのです。私はひとえに、版画を作りたくて、やって来ていました。私のやっている作業が・・・・・はじめると、7~10時間連続しないと、何もならない・・・・・・方式なので、日本では、そういう形で、使える工房が無いので、海外へ行こうとしていたわけで、立ち位置と、目的がまるで違うので、先住の日本人女性たちに、いじめられる事となったのです。

 つまり、私は極端な、極楽トンボだったわけです。とっぽいも、とっぽい、恵まれすぎた人だったわけです。それは、ニューヨークから帰国後、10年ぐらい経って、わかって来た事で、当時は、他人がその様に私を見ている事には一切気が付きませんでした。

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副題8、『プラット・インスティテュートって、版画工房ではなく、大学だった。それには、驚いた。しかも、大学院へ入学できて、欣喜雀躍をした』

 私は結婚相手を求めているわけではなくて、十分に安心して制作できる環境を求めて、渡米するわけですが、それこそ、日本が、規制、規制で、がんじがらめの国だから、海外へ行くという点もあるわけです。民間にしろ、公営にしろ、日本の版画工房は、3時間程度、しか、その中に、居られません。

 でも、欧米では、それが、相当に、融通が利くのです。パリの版画工房に関しては、日本でも、相当に知られていますが、ニューヨークのそれは、日本には知られておらず、私は熱心に探し回って、あるアメリカ人女性から、「ニューヨークのブルックリンにある、プラット・インスティテュートなら、あなたにぴったりの場所でしょう」と、教えて、もらいました。ところが、別の日本人で情報通の人が、「そこは大学の筈ですよ」と、いいます。どっちなのかは、わからないものの、パリで、三ヶ月、版画三昧の生活を送った私には、どうしても、その1998年の、後五年間は、同じ事がやりたくて、今度はパリよりも、言葉が、より自由な、ニューヨークを目指したわけでした。

 で、行ってみたら、確かに、大学でした。だが、小さな作品を版画5枚、油絵三枚もって行って、「工房を使わせていただきたいんですが」といっただけで、大学院へ入学をさせてもらえました。とても嬉しかったです。たった、一学期です。ただアメリカの大学院って、学費がすごく高いので、2科目で、日本円に換算して、56万円も払いました。だけど、今思うと、夢のような体験でしたね。楽しい体験でした。

 ところが、「好事魔が多し」のたとえどおり、版画の方の初日から、私より、10歳ぐらい若い白人の女性教授が、私に対して、ひどい警戒心をもち、嫉妬心も丸出しだったのです。私は、ざっくり言うと、実際には、実力が高いのです。(笑い)

 ところが、肩書きが何もありません。その乖離を、狙って、こういう災いは、しょっちゅう起こります。そして、その様子を盗み見て、教授に忠義立てをして、私をいじめてくる日本人女性あさこ(仮名)が、出来しました。地方の私立美大を出て、日本で、何らかの、失敗か挫折があって、渡米をした典型的なタイプでした。アメリカで大学院を出て、日本で美大の教授職にでも、就職しようと、狙っている野心満々の女性です。

 ところが、時間がたつにつれて、教授は馬脚を表して来ました。で、宿題すらできないほど、薬が劣化し始めました。私は最初から、自分の仕事が特別分野なので、自分だけ、独自な薬を利用し、独自のスピードで、仕事をしていますから、教授がどうあれ、関係が無いのですが、あさこは、困ってしまい、急に私たいして、媚びて来ました。そのときも素直に、助けを求めるという形ではなくて、「ねえ、どうして、銅版を、硝酸に漬けてはいけないの?」と質問をして来たので、化学方程式を書いて、ついでにちょっと、意地悪な言葉を足してしまったのです。

 「これは、中学段階で習う化学方程式ですよ。ただ、私は東大に勤めていたので、覚えているわけですが」と、言ったのです。・・・・・それに激怒した、あさこは、殺人未遂に等しい、行動を起こしました。

 劇薬の、塩化第二鉄、特に、原液と言うもの2リットルで、私個人が買っていて、私個人が管理しているものを、私が居ない間に、床に、ぶちまけたのです。ハイターと言う洗浄剤が日本に、ありますが、その刺激よりも強い薬です。出来心とはいえ、使ったものがナイフなら、殺人事件に発展をします。そこまでの事をやるのでした。

  ただ、私としては、ずっと、彼女に、苦しめられて来ていて、迷惑をかけられ続けて来ていて、やっと、少しだけ反省が見えたので、ここで、きちんと判らせてあげよう、「あなたは無知すぎるのですよ」と、たしなめるつもりだったのです。だが、それが冷静には通らない子でした。驚いたのナンの。ただ、自分の言葉が強い影響力を持つものだということを初めて知りました。

 この恐ろしい事件は、しかるべき教授達は皆知っていますが、もちろん、伏せられていて、無かった事にされています。でも、学生の間では、燎原の火のごとく、情報は広まって、教授の方が、大学を辞める事態に発展をしました。次の学期に、彼女のクラスを取る人間が一人も居なかったそうです。あさこが、乱暴狼藉をしたのですが、そういう風に事が進行したのは、教授が私へ嫉妬したからでした。私へ嫉妬するという形で、彼女のつまらなさが、学生達に、もろに、見える事になってしまったのです。そして、真実優秀な若い男性が、後任になりました。

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 なお、初稿で、ここからさらに引き続いている、副題9からは、副題12まで推敲をした時点で、2万字をはるかに超すことが、予想をされましたので、別章立てで、語らせてくださいませ。

 なお、このブログの2010年より数えはじめた伸べ訪問回数は、1907459です。 

 2013年11月24日に初稿を書き、27日に推敲を終える。

   雨宮舜(本名、川崎千恵子)

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