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銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

母が死んで。でも、待ってくれていたかなあ?

2010-10-10 15:42:00 | Weblog
 丸二日、更新をしていません。
 ここには、できるだけ、私事を反映したくはないと、おもっています。でも、二つ大問題を抱えていました。ひとつは左肩が痛くなり始めたこと。これは、私にとっての大爆弾で、10年前もやっていて、主人に治してもらったものです。が、今回は自分の筋肉の方が、主人の治療に耐えられないのではないと思っていて(理由は指圧の圧力が強いので、筋肉が強くないと余計にダメージを受けるから)、食卓テーブル、指圧(ちょうどよい角度と丸みのあるテーブル、重くて絶対に動かないもの)を利用して、治そうと思っているのに、一ヶ月以上、なおりません。

 さすがに、『パソコンを打ちすぎたかな?』と思っています。毎日、推敲や下書きを入れれば、原稿用紙換算、100枚以上は優に書いていました。だから、こうなるのは、一面ではわかっていたのです。が、激しい戦いの渦中でしたから、中断することができませんでした。そして、今は、前に一度経験をしたあのすさまじい、痛さになってきました。「うわあ、まずい」と言う状態です。

 それを、抱えながら、優雅に、愚痴も言わずに、すごしていて、それが『おしゃれだ』と自認をしていて、得意だったのですが、

 『うーん、ちょっと、疲労困憊かな』と思う、あの日、12日、パソコンを母の居室(老人ホーム内)に忘れて帰って来てしまいました。それが分水嶺でした。疲労が極限に達した日でした。

 で、帰りの電車内で、ついうとうとしてしまって、普通なら一時間もの長時間である湘南新宿ラインの、池袋から鎌倉までの電車内で、パソコンを打つので、『忘れたこと』をすぐ気がつくのですが、その日だけは、気がつかずに、鎌倉まで、帰ってしまって、もう一度、池袋へ戻りました。そこから、さらに、徒歩を入れて、40分はかかる老人ホームにまで戻りました。

 で、12日は夜の11時ごろホームを訪問していたのです。その前の夕方も六時半までも、そこへ、いました。だから、最終段階の母とずっと一緒にいたのが、たまたまきょうだいの中では、私だったとなります。

 パソコンをとりなおして、老人ホームを出たのが、夜の11時過ぎで、それから、東上線に乗って池袋に出れば、夜の12時です。鎌倉には帰れません。

 その前に、主人に、鎌倉で(夜の八時半だったと思うけれど)、「今夜は東京へ泊まります」といい置いて、もう一度よるの10時半に池袋から電話を入れたのです。

(その内容については、書けたら、明日15日の午後二時ごろ完成として書きますが、今は、疲れていて書けません)

 ともかく、時系列的にたどると、家へは帰れないので、池袋の上品なネットカフェで、夜を過ごしました。しかし、幸いなことに、その日だけは、五時間熟睡することができたので、そのまま、もう一回、東上線に乗り、常盤台という駅にある、老人ホームへ寄ることとしましたが、それが長女である私に、僥倖とも言える、幸運(変な言い方ですが)をもたらしたのです。つまり、ネットカフェなどでは、普通は、しっかり眠ることはできないのです。だから、もう一度母を見舞うことなどは、普通は、できなくて、ただ、池袋から湘南新宿ラインに乗って、早朝に、鎌倉へたどり着くぐらいのことしかできないのですが、たまたま、熟睡を五時間でもできたので、元気がでて、老人ホームへよってから鎌倉へ帰ろうと思い、その前夜に引き続いて、もう一度、東上線常盤台へ行くこととしたわけです。

 そして、13日には、母の死に顔を一番早く、見た人となり、12日には、生きている母と、一番長く、ともに、過ごした人ともなりました。

 そのまま、13日は、後から来た妹と弟と、ずっと兄弟三人だけで、(夜まで)すごしました。これが大変に珍しいことです。私が25歳で結婚したために、家を出たときには、妹は19か二十歳で、大学一年か、二年でした。弟は、中学一年生だったので、三人だけで、時間を一緒に過ごしたり、お食事を一緒にしたりしたことが、かつてなかったのです。

 常に両親とか、私の主人とか、妹の主人とか、そのうちに子供とかが加わってきて、兄弟三人だけで、長時間一緒に過ごしたのは、これが初めてのことでした。特に大人になってからは初めてでした。もちろん、同じ父と母から生まれた実の兄弟です。が、・・・・・

 これは、母が作ってくれた得がたい体験でした(これも15日に、書くことができたら、何がよかったのか、詳しいことを書かせて、いただきます)。
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 もし、パソコンを忘れるという奇遇というか、奇蹟(?)がなかったら、午後の到着となり、兄弟中で、最後に、現場に到達した人となったでしょう。鎌倉から、知らせを受けて駆けつけても、日吉や、西葛西に住んでいる他の兄弟よりは、絶対に遅くなります。でも、たまたま、池袋から出発したので、一番に到着したのでした。

 こういう現象から、すぐ何かを感じ取る私です。「たまたま<よいとこ取り>をしてしまった」といえば言えますが、実は、『これも、天の加護だ』と感じる私なのです。きょうだいの中で『目立たない方だ』というか、『実力のない方だ』とみなされていて、(それは、お金を使うばかりで稼げないからですが)軽く見られている私ですが、『お前は、実は、結構な重みを持っているのだ』と、天はみなしてくださって、このような、重要な役割を、私に振ってくださる』と、思うからです。

 お医者様が、「九時にはいつもの病院に出勤しなければならないので、あなたに」といって、死亡診断書を8時半に渡してくださったりして、図らずも兄弟代表のような形をとってしまいました。まあ、長女ですから、それでもいいのですが、喪主は弟であり、かれに私は全権を委譲している身分です。弟は、年が12才離れている私より五歳しか離れていない妹と、より緊密に連絡を取っていますので、私は、本当のことを言って味噌っかすです。それなのに、・・・・・でした。・・・・・

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 私は、この一週間、「あー、はー」と苦しげな声を上げる母を見ながら、『あ、死ぬのを待ってくれている』と何度も感じました。今、書こうとして取り組んでいることは、書くのが非常にしんどいことです。いわゆる、てんぱった状態でなければ書けないことです。

 『この世に、無駄なことは何もない』ということは、・・・・・ご近所のいじめさえも、その難しい状況を、書き抜く決意をさせたのですから、・・・・・真実でしたね。

 ともかく、日付としては、9日付だが、実質的には12日の早朝にアップした。
『鎌倉雪ノ下(黒)物語、あらすじ、1975年~87年』を書き抜くまで、母は死を待っていてくれたのだと思います。

 申し訳ございませんが、今日はこれだけで、終わりとさせてくださいませ。
2010年10月14日、(実質的にはそうですが、ブログ・カレンダー上の日付は、10日とさせていただいています。では、                雨宮舜
コメント
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