朝日新聞の週末付録にbeというのがあります。朝日新聞を激しく批判をしているのに、都合のよいときには引用をして申し訳ありませんが、その中で礒田さんという方が、有名人の言葉を引いて、ある分析やら解説を加えながら、人生論を語っておられるコラムがあって、一ヶ月ぐらい前に、加藤唐九郎さんの言葉が引用されていました。
強く印象に残っています。それを、礒田さんの部分、および加藤唐九郎さんの部分両方を、私の言葉で言いなおさせていただくと、
人間は誰でも生きていくために、他者の領分を侵しながら生きている。だから、成功をするということは、他者を虐げている(たとえば、豚や牛の命を奪っても居るわけですが、社長をすれば、社員の労働の上澄みを取っているわけですね)ことになる。
これは前半の言葉として、一種の導入として用いられていますが真実です。この面から考えれば、私もあなたも、悪人である、その程度が大きいか、小さいかの違いしかありません。この問題を突き詰めて考え、できるだけ、心が安定する生活を提案したのが、仏陀とか、イエス・キリストだと思います。清貧の生活こそ、好ましいという発想です。
さて、これを前置きとして、もっとも大切な言葉が出てきます。
それは、
・・・・・しかし、ひとつだけ、そういうくびきから離れているしごとがあって、どんなに、欲張って上昇しても、他者を傷つけない。それは芸術の分野なのである。・・・・・と続きます。
まあ、すばらしい言葉です。
ただし、これは、一種の本質論というか理想論です。実際には美術の世界も人間関係があって、すっきりとはしておらず、過剰に得をする人もいれば、過剰に損をする人も居るので、本質論だけで、切り取れないのです。が、美術とか、芸術のすばらしいところは、まさにそこでもあります。が、また、それが弱点でもあるのです。『あなたが、個展をするですって。ふん、それって、あなただけのことでしょう。私に関係ないわよ』と言われちゃうのも、それが、ごく個人的なことで、他者を動かさないからです。他者の生活に影響を与えません。
ア、ところで、いらっしてくださった方に、礼状をまだ書いていません。ごめんなさい。お待ちくださいませ。何事も丁寧にやろうと思っているので、時間がかかります。ごめんなさい。
~~~~~~~~~~~
ところで、個展をすると、銀座に一週間出かけるわけなので、ある種の噂話も耳に入ります。それが、ギャラリー山口のオーナーについてでした。
今は、彼女の急逝から、ほぼ、三ヶ月が過ぎて、人のうわさも七十五日を過ぎたわけですが、私は彼女を忘れられず、一種のおんぶお化けとして背負って歩こうとさえ、思っているほどです。心も体も美しい人だったと感じていて、『一緒に、忙しかったあなたが、楽しめなかったことを、楽しみましょうね』とも思っていて、二度ほど、一人で、ビュッフェスタイルのレストランに入りました。
その彼女の借金の実態に触れる機会があって、もし、それが、本当なら、余計に気の毒だなあと感じ入るしだいです。それは、絵を買ってあげた故の借金だそうです。本当かどうかはわかりませんが、今まで、『借金があって追い詰められていた』と聞いても、『嘘でしょう、それって』と思っていたのですが、もし、彼女が、ご自分が支援する画家たちの絵を買ってあげていたのなら、それは、ありうる財政破綻でしょう。しかもとても高い値段だったらしい。『それで、やっとわかった』という感じです。
だけど、ほかの数人の人みたいに、『それって、自己責任でしょう』などとは決して思えません。そうではなくて、そう聞けば聞くほど、気の毒な感じが勝ります。というのも彼女は最後の段階で、野見山さんや篠原さん程度には、窮状を訴えていたと思われますから。その際に、きちんと同情を持って聞いてあげたかどうかです。もし、訴えていなかったとしたら、前に言ったように、野見山さんが、秘書さんまで雇って、それを、エッセイに何度も書いていらっしゃることへの、悲しみを込めた抗議の意味もあって、何も仰らなかったと考えられます。
私は画廊の使用料をただにしてあげたぐらいの、支援だと、考えていました。だけど、山口さんは志があるから、現代美術を支援したいと思っていて、個展のたびに大作を買ってあげていたらしいのです。そうだとしたら、それは、大変です。お金がなくなってしまうのも道理です。『なるほどなあ』と思います。
今まで、画廊の運営費用をひそかに計算していて、『絶対に破綻を示すはずがない。だから、そのうわさはためにする失礼な噂だ』と感じていました。多い月で240万円、少ない月で、120万円ぐらいの収入があるはずなので、十分にやっていかれるはずなのです。が、大作の絵を、買ってあげていたら、これは、大変です。大きなサイズですので、軽く、一点でも、数百万円になるでしょう。馬越さんが三越で個展をなさったときの売値は、一点で、軽く一千万円を超えていました。だから、有名な画家の大作を買い続けたら、画廊は、火の車になります。もちろん転売して、美術館に収められれば画商としての、機能が果たせますが、今は税金が絞られていて、美術館は絵を買いません。だから、出費ばかり重なります。
そうだったのか。そうだったのか。と、うなずくばかりです。こうなると、加藤唐九郎さんの言葉も勢いを失ってしまいます。加藤唐九郎さんご自身は修羅場を潜り抜けた方なので、その売り買いのことも含めての言葉だと感じますが・・・・・陶芸は、値がつくものですが、現代アートはそうそうは、値がつかないものです。
山口さんはお嬢様育ちだそうです。それは、どことなく、私にもわかっていました。だから、一旦始めた行動を軌道修正して、「企画展もやりません。絵も買いません」という主張が出来なかったとも推察されます。気の毒でなりません。山口さんの地味な支援があったからこそ、野見山さんも牛ちゃんも、メディアで取り上げられる華やかな日が訪れたのだと感じます。ふと、私に向かって、「秘書の千里さんをあなたは知っているの。どういう人だか、教えて」と仰った日やら、京橋の路上で出会って、小さなレジ袋を持っていらっしゃって、それを私に見られたことを、そよ風の気配のように、恥ずかしそうになさった日のことも、忘れられません。
私はすぐに、両方とも山口さんの本音を察し、気がつかない振りをするのに、懸命の努力をしました。前者は、『私があれほど、尽くして、こちらは破産しているのに、お若い秘書さんなどお雇いになって』という悲しみが込められていたのでしょう。後者は、レストランでお昼を取ることが出来ないのを見られて(その小さなレジぶくろには、お弁当が入っているものだと感じましたから)『恥ずかしいなあ』とお感じになったのです。それほど、プライドが高い職業です。
私は、山口さんが未婚で、独身であることを知っていましたが、ご親戚と同居であろうと考えていたのです。彼女は賢い人だから老後は、姪や甥にかこまれて生きる予定を立てていらっしゃるだろうと思い込んでいたのです。だけど、都心のマンションで一人暮らしだったと聞いて、それも気の毒でたまりません。もし、本当に自殺だったら、その間、どんなに、絶望が深かったでしょう。
そして、1月31日に行われるはずだった、自発的な、お別れ会もキャンセルになったと聞いては、なおさら、お気の毒です。騒がないほうが故人のためだという考えもあるでしょう。でも、生きているものが胸に、その記憶をとどめてあげることは、彼女が黙したまま去った人だけに、大切なことだと感じています。本当に美しい、かつ覚悟のきまったひとでした。高潔という言葉は、彼女のためにある。
でもなお、何パーセントかは、他殺だったのではないかしら? と思ったりする私です。今はピッキングの技術など高度に発達していますので、待ち伏せされて殺されて、その後で、自殺を偽装をされたりして・・・・・とも思ったりするのです。ともかく、切ない。切ない。・・・・・です。
特に読売新聞が、23日だか、という早い時期に、村松画廊のオーナー川島さんの談として、画廊の経営が大変だという記事を載せ、本文では一切山口さんに触れていないのに、写真のキャプションでのみ、自殺と触れているのは、ゴッホの自殺の新説に共通する趣さえ感じさせられます。数百万人が読む可能性のある読売紙上で、こんな失礼な感じで、自殺と明かされたのは、言うにいわれない、悲しみです。彼女自身はこれを目にすることがなくて良かった。だけど、本筋をいえば、彼女みたいな人こそ、顕彰されるべき人なのです。
2010年4月19日 雨宮舜
強く印象に残っています。それを、礒田さんの部分、および加藤唐九郎さんの部分両方を、私の言葉で言いなおさせていただくと、
人間は誰でも生きていくために、他者の領分を侵しながら生きている。だから、成功をするということは、他者を虐げている(たとえば、豚や牛の命を奪っても居るわけですが、社長をすれば、社員の労働の上澄みを取っているわけですね)ことになる。
これは前半の言葉として、一種の導入として用いられていますが真実です。この面から考えれば、私もあなたも、悪人である、その程度が大きいか、小さいかの違いしかありません。この問題を突き詰めて考え、できるだけ、心が安定する生活を提案したのが、仏陀とか、イエス・キリストだと思います。清貧の生活こそ、好ましいという発想です。
さて、これを前置きとして、もっとも大切な言葉が出てきます。
それは、
・・・・・しかし、ひとつだけ、そういうくびきから離れているしごとがあって、どんなに、欲張って上昇しても、他者を傷つけない。それは芸術の分野なのである。・・・・・と続きます。
まあ、すばらしい言葉です。
ただし、これは、一種の本質論というか理想論です。実際には美術の世界も人間関係があって、すっきりとはしておらず、過剰に得をする人もいれば、過剰に損をする人も居るので、本質論だけで、切り取れないのです。が、美術とか、芸術のすばらしいところは、まさにそこでもあります。が、また、それが弱点でもあるのです。『あなたが、個展をするですって。ふん、それって、あなただけのことでしょう。私に関係ないわよ』と言われちゃうのも、それが、ごく個人的なことで、他者を動かさないからです。他者の生活に影響を与えません。
ア、ところで、いらっしてくださった方に、礼状をまだ書いていません。ごめんなさい。お待ちくださいませ。何事も丁寧にやろうと思っているので、時間がかかります。ごめんなさい。
~~~~~~~~~~~
ところで、個展をすると、銀座に一週間出かけるわけなので、ある種の噂話も耳に入ります。それが、ギャラリー山口のオーナーについてでした。
今は、彼女の急逝から、ほぼ、三ヶ月が過ぎて、人のうわさも七十五日を過ぎたわけですが、私は彼女を忘れられず、一種のおんぶお化けとして背負って歩こうとさえ、思っているほどです。心も体も美しい人だったと感じていて、『一緒に、忙しかったあなたが、楽しめなかったことを、楽しみましょうね』とも思っていて、二度ほど、一人で、ビュッフェスタイルのレストランに入りました。
その彼女の借金の実態に触れる機会があって、もし、それが、本当なら、余計に気の毒だなあと感じ入るしだいです。それは、絵を買ってあげた故の借金だそうです。本当かどうかはわかりませんが、今まで、『借金があって追い詰められていた』と聞いても、『嘘でしょう、それって』と思っていたのですが、もし、彼女が、ご自分が支援する画家たちの絵を買ってあげていたのなら、それは、ありうる財政破綻でしょう。しかもとても高い値段だったらしい。『それで、やっとわかった』という感じです。
だけど、ほかの数人の人みたいに、『それって、自己責任でしょう』などとは決して思えません。そうではなくて、そう聞けば聞くほど、気の毒な感じが勝ります。というのも彼女は最後の段階で、野見山さんや篠原さん程度には、窮状を訴えていたと思われますから。その際に、きちんと同情を持って聞いてあげたかどうかです。もし、訴えていなかったとしたら、前に言ったように、野見山さんが、秘書さんまで雇って、それを、エッセイに何度も書いていらっしゃることへの、悲しみを込めた抗議の意味もあって、何も仰らなかったと考えられます。
私は画廊の使用料をただにしてあげたぐらいの、支援だと、考えていました。だけど、山口さんは志があるから、現代美術を支援したいと思っていて、個展のたびに大作を買ってあげていたらしいのです。そうだとしたら、それは、大変です。お金がなくなってしまうのも道理です。『なるほどなあ』と思います。
今まで、画廊の運営費用をひそかに計算していて、『絶対に破綻を示すはずがない。だから、そのうわさはためにする失礼な噂だ』と感じていました。多い月で240万円、少ない月で、120万円ぐらいの収入があるはずなので、十分にやっていかれるはずなのです。が、大作の絵を、買ってあげていたら、これは、大変です。大きなサイズですので、軽く、一点でも、数百万円になるでしょう。馬越さんが三越で個展をなさったときの売値は、一点で、軽く一千万円を超えていました。だから、有名な画家の大作を買い続けたら、画廊は、火の車になります。もちろん転売して、美術館に収められれば画商としての、機能が果たせますが、今は税金が絞られていて、美術館は絵を買いません。だから、出費ばかり重なります。
そうだったのか。そうだったのか。と、うなずくばかりです。こうなると、加藤唐九郎さんの言葉も勢いを失ってしまいます。加藤唐九郎さんご自身は修羅場を潜り抜けた方なので、その売り買いのことも含めての言葉だと感じますが・・・・・陶芸は、値がつくものですが、現代アートはそうそうは、値がつかないものです。
山口さんはお嬢様育ちだそうです。それは、どことなく、私にもわかっていました。だから、一旦始めた行動を軌道修正して、「企画展もやりません。絵も買いません」という主張が出来なかったとも推察されます。気の毒でなりません。山口さんの地味な支援があったからこそ、野見山さんも牛ちゃんも、メディアで取り上げられる華やかな日が訪れたのだと感じます。ふと、私に向かって、「秘書の千里さんをあなたは知っているの。どういう人だか、教えて」と仰った日やら、京橋の路上で出会って、小さなレジ袋を持っていらっしゃって、それを私に見られたことを、そよ風の気配のように、恥ずかしそうになさった日のことも、忘れられません。
私はすぐに、両方とも山口さんの本音を察し、気がつかない振りをするのに、懸命の努力をしました。前者は、『私があれほど、尽くして、こちらは破産しているのに、お若い秘書さんなどお雇いになって』という悲しみが込められていたのでしょう。後者は、レストランでお昼を取ることが出来ないのを見られて(その小さなレジぶくろには、お弁当が入っているものだと感じましたから)『恥ずかしいなあ』とお感じになったのです。それほど、プライドが高い職業です。
私は、山口さんが未婚で、独身であることを知っていましたが、ご親戚と同居であろうと考えていたのです。彼女は賢い人だから老後は、姪や甥にかこまれて生きる予定を立てていらっしゃるだろうと思い込んでいたのです。だけど、都心のマンションで一人暮らしだったと聞いて、それも気の毒でたまりません。もし、本当に自殺だったら、その間、どんなに、絶望が深かったでしょう。
そして、1月31日に行われるはずだった、自発的な、お別れ会もキャンセルになったと聞いては、なおさら、お気の毒です。騒がないほうが故人のためだという考えもあるでしょう。でも、生きているものが胸に、その記憶をとどめてあげることは、彼女が黙したまま去った人だけに、大切なことだと感じています。本当に美しい、かつ覚悟のきまったひとでした。高潔という言葉は、彼女のためにある。
でもなお、何パーセントかは、他殺だったのではないかしら? と思ったりする私です。今はピッキングの技術など高度に発達していますので、待ち伏せされて殺されて、その後で、自殺を偽装をされたりして・・・・・とも思ったりするのです。ともかく、切ない。切ない。・・・・・です。
特に読売新聞が、23日だか、という早い時期に、村松画廊のオーナー川島さんの談として、画廊の経営が大変だという記事を載せ、本文では一切山口さんに触れていないのに、写真のキャプションでのみ、自殺と触れているのは、ゴッホの自殺の新説に共通する趣さえ感じさせられます。数百万人が読む可能性のある読売紙上で、こんな失礼な感じで、自殺と明かされたのは、言うにいわれない、悲しみです。彼女自身はこれを目にすることがなくて良かった。だけど、本筋をいえば、彼女みたいな人こそ、顕彰されるべき人なのです。
2010年4月19日 雨宮舜