おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

咳をしても

2018-04-07 11:18:32 | 福島

 先週、郡山の図書館に本を返しに行ったら休館日だったので本だけ置いて帰り、今朝は再び出直した。

 今回はなるべく文芸とか芸術関係の本を借りて来たいなと思い、1時間ほど図書館の中をうろつき、小林英樹「先駆者ゴッホ 印象派を超えて現代へ」、鹿島茂「ドーダの人、小林秀雄 わからなさの理由を求めて」、春陽堂編集部編「こころザワつく放哉 コトバと俳句」の3冊を借りて来る。

 ゴッホも小林秀雄もいろんな本を読んで来たので、おさらいの意味もあって借りて来たが、放哉は何か詩集でも借りようとウロウロしていたらふと目に止まった。子供の頃に教科書に出てた気がする。確か、俳句の授業の時に自由律俳句として「咳をしても一人」というのが紹介されていて、「なんだ、こりゃ」と子供心に思ったのを記憶している。

 自由律俳句に関しては、種田山頭火は割によく読んでいるので抵抗はないが、山頭火がせっせと歩くたくましい人というイメージに対して、放哉というのは病弱で若死にしたイメージだ。借りて来た本の説明を読むと、放哉という人は今で言う東大法学部卒というエリートで、大手の生命保険会社に入社したものの、酒で失敗して退社、奥さんとも離婚し、最後は金もなく小豆島で41歳という若さで死んでいる。

 山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」や、「すべってころんで山がひっそり」など、山歩きをするようになると、実にすんなり入って来る。おまけに山口の人で熊本にも住んでいた山頭火が歩いた山は、九州の山が多かったので、共感できるところが多かった。

 それに対して、放哉の句はただその場にじっと居るというようなものが多いようだ。本を開くと、そんな句ばかりが続いている。「咳をしても一人」というのは、病気で床についているにも関わらず、看病も見舞いもいないという情景なのだ。

流るる風に押され行き海に出る
一日物云わず蝶の影さす
沈黙の池に亀一つ浮き上る
たった一人になり切って夕空

 僕の好みで言えば、ランボーや山頭火のように、とにかくうろついている人の書くものの方が好きで、じっと家の中にいて物思いにふけっているのは性に合わないのだが、そろそろ歳もとってきたし、たまにはじっと座禅でも組んで瞑想に耽るとか、お茶をやってみるとか、隠居生活をしようという気はないが、時にはそういう落ち着いた時間というのも必要かなと思う今日この頃なのである。

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