明治になって、日本では「言文一致」運動というのがあった。今の人にはピンと来ないが、それまでの日本では書き言葉と話し言葉はまるで違うものだった。
が、なぜ長い間、日本では書き言葉と話し言葉が別々の道を歩んだのかを考えてみると、昔の人は、話し言葉をそのまま文字にしたのでは、正確な意味が伝わらないということをはっきり自覚していたからではないかと僕は思っている。
人と話をするというのは、表情や身ぶり手ぶり声の強弱、声色など、喋っている言葉以上に、ほかの要素の重要性のほうが大きいのではないだろうか。話している内容は同じでも、表情や声色などで、その面白さは全然違ってくるという経験はごく普通にある。簡単な話、同じセリフを言わせてみても、相手に何も伝えられない人もいれば、言葉以上の感動を与える人もいる。
書くということは、表情や声色や身ぶり手振りなしで、文字だけでこちらの意思を伝えなければならない。それには当然のことながら、書くための技術を話すこととは全然別の次元で発展させなければならなかったということだろう。
手紙で相手を怒らせるつもりはないのに、勝手に相手が別の捉え方をして立腹しているということがある。面と向かって話せば、相手が誤解しそうだと思えば、いくらでも訂正はきくが、手紙となるとそうは行かない。
「言文一致」運動により、話し言葉と書き言葉の区別が少なくなった現在、文章の途中に(笑)のような奇妙な符号をくっつけたりする人がいる。文章がちっとも笑っていないので、「ここは笑う場所です」という注意書きだ。
しかしながら、人間の感情や思いは(笑)だけでは表現しきれない。(悲)とか(悦)とか際限なく増やしても、かえって何が何やらわからなくなる。で、登場したのが絵文字であり、その進化系のスタンプということになる。書き言葉を身につける機会が少なくなった現代では、文章に付け加える絵文字やらイラストやらが多彩に進化して行くことが、自分の気持ちを正しく伝える方法になってくる。
と、ここまで書いて来て、近頃のSNSによる言葉の暴力は、もしかしたら書き手がただ未熟なだけで、自分の意思以上に言葉が乱暴になっている場合もあるのではと、思うようになった。かつては共通の理解の上で成り立っていた書き言葉が、絵文字やイラストの乱用に頼るようになった現代では、果たして貼付されている絵文字やイラストに、共通の理解があるのだろうか。中には貼付されたスタンプを、別の意味に取る人もいるだろう。
国会では、SNSによるいじめや悪質な書き込みに対して、罰を与える法律を作る動きにあるようだが、当用漢字があるように、誤解しないようにと決められた意味しかない絵文字やらスタンプを定める必要もあるのかもしれない。バカバカしいことだけど。
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