去年のことだが、散歩中に追分に縄文遺跡の杭が立っているのを見つけた。それは追分駅東遺跡と名前が付いていた。縄文・奈良・平安時代の土器、須恵器が出土したそうだ。そこは幼少の頃、私が住んでいた場所だった。
日本海沿岸自動車道の調査過程で、掘れば当たり前のように遺跡にぶつかるという事実は知っていた。例えば、大久保から飯塚古開までの6kmの間に7か所の遺跡がある。これは極端な例だろうが、1kmごとにあっても不思議でない。そこで秋田市が発行している資料を見て驚いた。
金足には全部で18か所の遺跡が登録されていた。それは縄文に限った話だ。奈良・平安まで含めると57か所、名前が付いた遺跡がある。つまりは集落の全部に複数の遺跡がある計算だ。金足を流れる川を馬踏川という。下新城も同様に縄文だけで12か所あった。こちらは新城川だ。その上流の上新城はもっとすごい。縄文遺跡が24か所。
金足西小は母校だが、そこにも遺跡はあった。同級生が土器片をよく拾ってきていた。「大清水台Ⅰ遺跡」から「大清水台Ⅴ遺跡」までだ。中には黄銅鉱の鉱石を見つけたやつがいて、あれだけは羨ましくてしょうがなかった。良く学校前の粘土の山で遊んだ。あれを焼いたらそのまま土器ができるに違いない。
自分は今はルーツというものに、まったく関心がなくなったが、両親は二つの河川の脇で生まれた。つまり、私は多分縄文時代からそこにいた人間から生まれた可能性が高い。秋田には茨城から佐竹の殿様と家来が来たし、それ以前には奈良時代に小泉村から小泉集落に奈良家が移り住んだし、おそらくそれ以前はヤマト民族が、渡来人が、もっと前には大陸からロシア人とナマハゲが、半分冗談だが私は来たと確信している。
まとめると、秋田は混血の最も進んだ地域だということができる。だから秋田美人は生まれるのだと思う。きのうはそしてミスユニバース秋田大会の模様が初めてテレビで流された。ことしは例年になくレベルが高かったのではないだろうか。3位までは納得の顔だった。特別賞は美郷町の播磨さんに上げたかった。この4人はまあ秋田美人と自信を持って言える。3位に入った小田嶋七海さんは潟上市だが、娘と同じ追分幼稚園の同期生で、お互いバレーをやって違う中学、高校で顔を合わせた。運動能力も七海さんの方がどんどんうまくなった。2位が鋭い鷲鼻に特徴のある秋田市の北川楓夏さん。そしてお待たせしました。代表に選ばれたのは小泉の奈良家の血筋を引く(と私が考える)奈良志緒莉さんです。
奈良さんはお母さんの面影を引いていて、お母さんも美人です。志緒莉さんが小学生だった頃、この界隈の母親同志が仲良くなり、自ら「美人会」と称して飲み歩くようになりました。美人の多い秋田において、美人と自称するにはかなりの勇気が要ります。大胆なお母さんたちです。
今年はつまり、私の考える秋田美人のルーツが混血の進み具合による、という考え方を補強する結果になったと考えることができる、とまあそう言いたいわけでございますのじゃ。 美人の写真がなくて御免。