松美の言絵(いえ)

私は誤解されるのが好きだ。言い訳する手間が省けるから。

「フットルース」

2014-12-26 09:49:15 | 日記・エッセイ・コラム

 メタンハイドレートの試掘されている、秋田・山形県境の飛島沖を、見えるわけないが日本海を見に行った。5分と経たないうちに、すごい風と共に嵐になった。冬の海は怖い、と思った。漁師の覚悟が分かった気がした。だから簡単にハタハタが食べたい、とは言えない。

 フットルースは1984年、今から30年前の歌とダンスの映画だ。これも最もアメリカで保守的と思われる中西部の田舎町のお話で、踊りを禁じられた町にレンというシカゴ育ちの転校生がやってくる。酒やタバコは平気でやっているのに、ダンス禁止とは驚きだ。レンの彼女となるエリエルの父親(ショー)は牧師で、この町の人々の代弁者でありルールを作った指導者でもある。ダンスは必ずアルコールとクスリが伴い、若者を堕落させる有害な遊びだと主張する。また、ダンスは若者を性的に興奮させる、と妻に言う。すると妻は笑って言う。「興奮するのはダンスだけ?」自分の味方だと思っていたショーが、初めて妻との距離を感じる。

 この映画を三流と評価する人もいるが、私はコレクションに残している。踊り自体は多少古いかも知れないが、リズム感は抜群で、自然と体の中でリズムを刻んでいる。いつの時代でも存在する、体制に反抗する若者たちが、その抑圧されたウップンを、踊りを通して表現する、その方法が見ていて好ましい。

 ダンスを禁じられた若者が、田舎町でどうやって発散しているか。端的に現れたのが冒頭の走る2台の車を飛び移るエリエルの行動だ。正面から迫る大型トラックを前に平然とまたぎ、バンザイする。命がけの抵抗に見える。線路で機関車の前に立ち、両手を広げて叫ぶ。レンは2度彼女の死の危険を味わうが、これは異性に対する一種のアピールでもある。危険なアピールだ。その彼女は、前の彼氏と人気(ひとけ)のない所へ行っては、いちゃつく仲だった。私は処女じゃないのよ、と教会で牧師の父親を前に言う。あまり選択肢を狭めると、あっちに走るいい例だ。そういう土壌がアメリカにはあったのだろう。

 卒業祝いのダンスパーティーを企画したレンはエリエルの父ショーに会いに行く。ダンスに誘ってもいいか、とお伺いを立てるためだ。娘との会話が無くなっていたと感じたショーは、紳士的にレンの話を聞く。パーティーは無事開催され、こっそり見に行くショーと妻だった。娘の成長を見守る二人は抱き合い、妻が言う。「私たち、踊ってるわ」

 タモリはミュージカルが嫌いだと良く言う。私も同じく好きでない。しかしこれは歌と音楽がバックボーンを構成しているが、「リズム」が重要な要素となっている。人も、細胞から心臓の筋肉に至るまで「リズム」によって生活している。私の細胞は、「フットルース」に完全に、かつ安らかに同調する。

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「イージーライダー」

2014-12-25 06:59:10 | 日記・エッセイ・コラム

 毛唐の文化、楽しんでますか。町へ出ると、パトカーがチンタラ走っていて、邪魔でしょうがありません。まるでクリスマスを祝うかのように、赤色灯を焚いて行進していました。子供のいないイブは、すでに形骸化して、ケーキだけをロウソクも点けずに、黙々と食べるだけです。

 

 アメリカンニューシネマと呼ばれるこの作品は、作り方からして型破りだった。自分らが作った低予算映画なのだ。監督兼脚本兼主役のデニス・ホッパー(声は山谷初男)。同じく主役のピーター・フォンダは製作者でもある。父はあのヘンリー・フォンダという芸能一家の生まれ。1969年のアメリカを象徴する映画として70年に日本に紹介された。

 誰でも思い浮かべるのはあの、切り返しの大変そうな大型バイクの姿だろう。今見て思ったのは、ジャック・ニコルソンが羽振りのいいおそらく政治家の息子として出てくる。デモに無許可で参加したとして二人がぶち込まれた同じ鉄格子に、酔っぱらって保護されている。翌日には金の力で三人とも釈放されるわけだが、そこで娼館へ行こうと誘う。誘った本人が結局殺されるわけだが、あのくだりは今もアメリカの暗黒部分を象徴している。当時の世相を知らない人にはピンと来ないだろうが、ビートルズを代表とする長髪の若者は、トラディショナルな大人連中には、ひとくくりで不良と見られていた。これは日本も同様だった。定職も持たずにぶらぶらして、マリファナでもやっているようなやつは、ライフルぶっ放されても、仕方がない、というように見られていたのだ。今でも、開拓者精神あふれる自由の国アメリカは、黒人差別が依然として存在する。そういう意味で、古くて新しい作品ということができる。

 そのジャック・ニコルソンが焚火をしながら語る言葉が印象深い。妙な光を見たと主張するビリーに対し、「それはUFOで世界中に基地がある。初めて来たのは1946年。月にレーダービーム(電波)を当てて以来で、今では大勢が地球で活動している。政府も知ってる。」と言う。ビリーは「活動してるところなど、見てないぜ」と言うと、「宇宙人は我々と同じ太陽系の連中だ。社会は進んでるがね。戦争も通貨制度もない。指導者も必要としない。全員が指導者だ。高度な技術のおかげで、日常の生活は競争なしで満たせるんだ。」「それはおかしい。なぜ我々に正体を見せない?」「なぜ見せないかって?見せたらパニックになる。地球には指導者がいる。情報の公表は彼ら次第だ。その彼らが情報を抑えてるんだ。現体制がぐらつくからさ。地球にいる金星人は全階層の人と接触している。あらゆる人間とだ。現体制に与える衝撃を和らげようと金星人は全階層の人と接触して忠告している。人間が神のように、自分を制御できれば、人間は飛躍し平等に進化できるんだ。」これがマリファナを吸いながらしている会話だ。

 金星は摂氏400度の、とても人間の住めない星だと分かっている。こういうやり方は良くある。フィクションの力を借りて真実を暴露する、というやり方だ。荒唐無稽としか思えない話も、私には真実として映る。金星より暑いはずの水星に氷が存在し、太陽観測衛星SOHOの映像は、しょっちゅう加工が施されていて、時にまっ黒になったりする。これが故障なら、こんなポンコツをいつまでも使っているはずがない。

 何より驚いたのは、宇宙人議論に長い時間を割いたことと、私がかつて読んだ小説にそっくりだったことだ。「非(ナル)Aの世界」を書いた、ヴァン・ヴォークトだ。世の中には分からないことの方が多い。それがあるから楽しいのだ。だから小保方さんも私は詐欺師だとは思わない。

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除雪車が来るのも、良し悪し。

2014-12-24 08:21:39 | 日記・エッセイ・コラム

 きのうの夕方、初めて除雪車が入った。ここは周囲に比べて優先度が低かったのだろう。積雪量で今季20cmまでいったことは、なかったかも知れない。だから別に来てもらわなくてもいいのだが、それはなぜかと言うと、除雪車の都合で住民が後処理に追われるからだ。最近はバケット式のそっくり持っていくタイプが増えたが、それ以前は家の前に雪だるまをゴロゴロ置いていかれるので、それをすぐ処理しないと大変なことになるのだ。固まらないうちに解体処理しないと「岩」になってしまうからだ。こんなのに間違って車体を擦ったら確実に傷が付く。真夜中でも朝早くでも、とにかく除雪車が去るとすぐに外に出て作業しなければならなかった。今はそうでもないが、こんなかわいそうな家もある。

 雪はどうせ解けるんだから、これに数十億も掛けるのは無駄以外の何物でもない、とずっと思っていた。しかしある時スナックの常連が除雪関係の仕事をしていることが分かった。仮に三上さんとしよう。雪が降ると、三上さんは忙しくなるが、その分、稼ぎがあるのでオレとしては、それはいいことだ、と思うようになった。

 同時に、除雪したあとの道路というのは、かえって歩行者には迷惑な場合もある。きのうがそうだ。テクニックとして道路が見えるまで「はだける」のは危険だ。だからうっすら残して普通は除雪する。車が通った「わだち」は固く締まっていて、カチンカチンの滑る面が残る。足が空回りして進まない。この黒い道路も、気温が下がると「ブラックバーン」となる。

 大概雪国の人は4WDに乗っているから、無理に除雪しなくてもいい気がする。20cmくらいなら支障ない。轍(わだち)のとおり進めばいい。初めて今、4WDに乗っているので「オレ的には」ザックザック言わせて帰ってきて車庫入りするのが楽しい。

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年賀状コレクション

2014-12-23 08:39:27 | 日記・エッセイ・コラム

 今日は陛下の誕生日だというのに、NHK以外は何の特集も組んでない。けしからんことだ。そのNHKも45分の「皇室のこの1年」というタイトルだ。まあいい。しかし皇室に12月生まれが多くいらっしゃるのは何か訳があるのだろうか。コラコラ、逆算するんじゃありません。それこそ不敬というものですぞ。

 えーさてー。意外と早く年賀状ができたもんで、ことしは余裕です。ことしから年賀状で悩むのはやめました。ブログに自由に書く前は、言いたいことが山ほどあって、それをどう表現しようかと、半年前から考えていました。今のところ年賀状をやめる気はありません。それはやはり個性のある「たより」が届くのが楽しみだからでしょう。誰でもやるのが、子供が生まれたら写真付きにすること。家族写真は仲が良さそうで、いいもんです。あと筆で書いてくる人も減ってきました。真白い余白を活かして、墨の黒、朱肉の赤のシンプルな構成は、絵画的にも見ごたえがあります。習字が上手だったら自分の字で書けるのに、と思います。版画もそうです。小学生の時に、人生に必要な教養は一通り教わったはずなのに、それを今から再開しても遅くはないです。

 そしてこの版画というやつ。最初に赴任した高校で、美術の教師をしていらした増田良行先生です。転勤の時、はがき大の「鳥海山」を戴きました。それはそれは色使いのカラフルな山で、力強さも表現されていて、素晴らしい絵でした。ある時、先生の年賀状が版画であることを知り、どうしても欲しくて自分の訳の分からない年賀状を送りました。現役最後の頃の先生は責任ある立場になりお忙しかったのでしょう。返事はありませんでした。あきらめずに続けました。2005年に何度目かの年賀状が届きました。それには「毎年貴方の賀状を楽しく拝読、時々わからないことがあって・・・笑ったり・・・」と書いてありました。「やったあ」と思いましたね。私の文章が分かってもらえると期待して書いているわけでもありませんので、それでいいのです。いくらでも長く、人の目に留まっていれば、それは私の意図するところだからです。一瞬で次に目が行くようでは、つまらないからです。大胆にも若い頃から、どんな目上の人でも下でも同じ文章を送るようにしました。

 写真で眺めるのと、実物では、版画は全く違います。このイノシシがいるでしょう。ピンクの鼻が強調されたやつ。上に二つの目が鋭くにらんでいます。ユーモラスな鼻と色を、二つの目がきりっと締めています。これが私のお気に入りです。

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「君に届け」

2014-12-22 07:32:29 | 日記・エッセイ・コラム

 ここ2~3日、過去の映画鑑賞をしている。理由はもちろんテレビがつまらないからだ。きょうは「君に届け」を見た。実に映画の世界に浸ることができた。ある意味、製作者の意図する通り「君に届け世界」で2時間をどっぷり過ごした。私の場合、何度も繰り返すがステレオスピーカーでテレビも見ている。自分の声ですら、録音を聞いて生涯にないくらいビックリするのだから、テレビの付け合わせのスピーカーとは聞こえ方がまるで違う。感動の次元も違うはずだ。

 ところで映画の内容だが、多部未華子のベタな演技を許容できる程映画の中の時間に合わせることができる。それはなぜか考える前に、作品中一度もケータイが登場しなかった事に思い当たった。つまり同じ現代社会を描写していながら、異空間に居たわけだ。現実にそんな世界は存在しない。2010年現在の高校内で、ケータイの無い世界はあり得ない。だから三浦春馬も「さわやかのかたまり」に見えるのかも知れない。茶髪役の蓮佛美沙子も珍しかったが、同じくヤンキー役の夏菜も珍しかった。しかも髪の毛が長かった。夏菜と剛力はショートカットが似合う。本田翼は好きになれない。桐谷美玲の憎まれ役もなかなか良かった。富田靖子も出ていた。原作はマーガレットに連載されたそうで、それも2005年だから当然ケータイはあった。もともとケータイは女子高生が流行らせたものだからね。

 プリンセス・トヨトミは前の日見たばっかりだったので、その日は「バブルへGO!」を見た。3回目にして、「笑う場所」が分かってきた。あんないい思いは当時したことがなかったが、それでも懐かしいことに変わりはない。あの映画の1990年代でさえ、ケータイはあってゴッツイやつを重そうに持っていた。もっとも阿部寛は、女からのポケベルに対応するのに忙しかったようだが。

 「君に届け」のタイトルを見て内容が浮かばなかったが、いい表現だと思う。簡潔にしてストレート。ウブで、あこがれが恋愛感情だと悟るまで「貞子」と呼ばれまくる彼女に、気長に声を掛け続ける三浦春馬の気持ちを現わしているのだと思う。しかし本音は女三人の厚い友情物語だと思う。あの三人には泣ける。映画って、ほんとにいいもんですね。ではまたお会いしましょう。サイナラ、サイナラ、サイナラ。

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