棚からぼた餅--岩淵龍王丸

信州の山郷での暮らしと、絵本と無縁になってしまった大人に向けた創作絵本や、芸術活動をお話します。

pikka-ピカッ ザーーー

2008-07-21 19:06:48 | 山郷の暮し
幾分腰の痛みが和らいできたので、杖を手に猫背にして散歩。
吾ながら情けねーかっこだと・・・。
真夏の太陽がギラギラ。暑いけれどやる気が吹き出てくるのですが、今ひとつ不完全燃焼。

ヒョコタン・ヒコタント歩めば、賢犬サクラも振り向き振り向きゆっくり歩む。
「おまえはかしこいなーー」
花々も何時しか実をつけ、濃い緑色に塗りつぶされた小道。
葉陰に5-6cmになったアケビの実がある。
食べれるようになるのは、キノコが採れる10月ころ。

黄色になった梅を食べる。
甘酸っぱさに真夏の味。

ゴロゴロと空がにわかにうるさくなってきた。
こいつはやばいと、精一杯のはや歩き、サクラはピューーと帰ってしまった。
「このやろーー。ご主人を見捨てて!バカ犬!!!」

ただ今、ヒカピカ・ドーンッ。物凄い雨降りになっています。
もう2時間ほど。川は茶色の漠流になってしまった。
アケビの花の記事は五月4日「なんの花でしょう」をご参考に

ブッタの言葉

2008-07-21 10:40:20 | エッセイ・随筆
「樹樹は美しい。この世は美しい。人の命は甘美である」
「愛欲にまみれた人の命は、しかし、甘美である」

「人生は苦悩に満ち、この世はさい土である」と出家したゴータマ・シッタルタは
「目覚めた者・ブッタ」となられた。
そのブッタすら死から逃れることはできません。
死期が間じかになったころにおしゃった言葉といいます。
私の大好きな釈迦のお言葉のひとつで、こんなに慈愛に満ち、生命をいくつしみ、全てをよしとしている言葉があるのでしょうか。

草陰に次の生命を伝える営み。これらは人間のような性愛欲とは違うのですが・・・。
人も虫も草木も、全て同じだと認め合うことだと感じます。
真っ青な空に向かって様々な生命が躍動しています。
命はいたるところに満ち満ちているのだと感じます。



イモリの孵化

2008-07-19 18:42:54 | 山郷の暮し
イモリを飼って三年越しになり、休憩用に置いた石にコケがつく。
よく観ると5mmに満たない透明な粒が4つ。もしかしたら卵かときずいたのが7-2.
それより観察を続ける。
コケは小川などの石についている普通のものだが、美しい緑の茂みはまるで森のようにみえる。
卵は木々茂みにに守られるようにある。

今日ははっきりと小さな目が確認でき(16時)、もしかしたら孵化がはじまるのかと・・・。
時々透明な粒の中でクルッとすばやく動く。
眼は次第にはっきりしだし、ふたつの点て゜はなく、金色をした眼がはっきりと撮影できた。
大きな変化が確認できてから2時間たっても、まだ外にはでてこない。
夕刻の6時。腰が痛くなってきたので、観測は一休み。
たのしみーーー。

奇跡があるかも・・

2008-07-18 10:10:09 | 創作活動
発想から作品完成の手順まで夢に観る、そおなってから製作に入ると、以前に書きました。
シコシコと、時には爆発的な速さで完成できたり、テーマや意図によって様々です。
私は昔からアトリエにこもってひたす製作に励む、と言うタイプではなく、突然止めてしまい散歩に行ったり、掃除を始めたり、飯を作り出したり。
自分でもよく判らない行動をしながらの製作です。
そう・・・。誤解を生じるかもしれませんが、私にとって作品は芸術的精神世界における、ウンコのようなものだと思っております。
生活そのものがアートなのです。
製作中に二・三日出かけてしまったりしてしまうことがありますが、頭の中は作品のことだけしか考えていません。
一切の行動が、作品そのものということなのです。
感心なことに、製作中は酒は飲みません。惰性で絵は描きません。
老眼になりだした50歳代から、夜の製作はしていません。夜は飲む!

製作時、一番にアトリエに入のとき、ありもしない期待にとらわれるのです。
夜の間に、神々が夢見た作品を描き出してくれているのではないか、と。
製作中(たまにですが)に毎朝繰り返す、奇妙な思いなのですが、もしかしたら、本当に有り得るのではないかと信じています。

お姉さん

2008-07-17 15:59:51 | 賢犬さくら
りゅーさーーンと、元気のいい声で来るお姉さんがいます。
私のダーリンの飼い主の方で、お父さんが散歩をサボるときにお世話になっています。
今日も「だいじょうぶですか」と、来てくれました。
「適当に花をもっていって」と、せめともの感謝にお父さん。
私は、ダーリンに会えてうれしかった。

イテテテこん畜生

2008-07-17 14:29:20 | 大人の童話
切り裂かれるような腰の激痛はやわらんできましたが、右足の根元から痺れる痛さに耐え切れなくなって、先日ブロック注射をうけました。
ブロック注射というのは、脊椎の一番下には直径5mmほどの穴があり、そこから脊髄に麻酔薬を流し込むらしい。
注射をされるカッコたるや、お尻をあげたオカマスタイル。
プスッ!! なにか流れ込む感じがし、次第にボワーーーとした温かみが注入部(挿入ではありません)から広がる。
痛いほうの右足を下に コ一時間ほど横になっていた。
その間、10分おきくらいに血圧測定。時には血圧変動を起こすらしいが、私はなにもなし。

痛みなんかサッパリ!! といきたかったが右足の痛みは変わらず、ヒーヒーいいながら運転をしてきた。
5時間くらいたつと背筋を伸ばし歩けるようになった!!。
就寝時は坐薬と筋肉弛緩剤を飲む。
翌朝は寝起きの激痛こそ和らぐ。
ついつい夢中になって筆をとっていると、右足にビリビリと激痛がやってきた。

痛みに耐えながらの日常はストレスになってしまうから、対処療法を受けながらも、自分につきあっていかねば・・・。
しみじみ、平常な心身こそありがたいことだと感じています。

私が描かれています

2008-07-16 08:59:32 | 賢犬さくら
9月の展示に備えて、カタログ撮影の作品をひっぱりだしたお父さん。
「オマエ 少しはてつだえ」とブツブツいいながら、片足ひきひき、無理なことをいっている。

魚お化けみたいなものが宴会して、私が描かれているいるらしいが、どうせ私をかいてくれるなら、犬たちが大宴会している絵をかいてほしい。
マーーそんな思いが通じたかは判らないが、魚ということに哲学的意味があると説明してくれましたが、チンプンカンプンです。
いくら私が賢犬といっても、人間様だってよく理解できない作品意図が、私にわかりようがない。

もうひとつの絵なんか、かの大先生レオナルド・ダビンチの「最後の晩餐」なんかをパロディー化しちまったもんね。
そうそお、題名は『衆生愛欲曼荼羅」 興味があったら下記を検索してください。
http://ryuomaru3.web.fc2.com/ehon-aiyoku.htm

久しぶりの散歩-サクラ

2008-07-15 18:50:31 | 賢犬さくら
お父さんが腰痛騒ぎになって私はつながられたまま。マー娑婆では当たり前のことなんでしょうが、歩けないなら放してくれた方がいいとおもうのですが、ナニカあったら対応できないンだそうです。
昨日、痛み止めの注射をしてもりい、杖を突きながらも歩けるので久しぶりの散歩となりました。
道は雑草と枝が追いかぶさり、緑色のトンルネ。
いたるところイノシシのにおいがする。休耕田はヤツラが好き勝手に暴れ周り、掘り返された工事現場のごとくになっている。
自由にさせてくれたら、きっと追い立ててくるのですが、お父さんはダメダといいます。
実は私も調子が今ひとつ。
どうも、カイセンのきざしがあり、ときどき物凄いカユミに襲われます。
かいたところが、小さな点のように出血するのですが、それが全身にできてしまうのです。
知らないと目立たないのですが、毛が点々と抜けた後があり、美しい毛並みが残念です。
お父さんが通っている整形外科のお医者さんは(私も知っている)
「人間はどうにかするが、犬は自分でなんともできないから・・」と、お父さんのことは次いでで、いい薬をみつけるからと、心配して電話をくれました。
サンキューだワン!!

仏の眼を描く

2008-07-15 13:08:46 | 創作活動
私の描いた仏に「あまり優しいお顔をしていませんねー」と言われることがあります。
そう・・、私が描き出したい仏の姿は、よく言われ 求められている「慈悲・慈顔の癒しの顔」ではないかもしれない。
それは、私の佛教解釈にあり、断定的にいってしまえば「現世利益or浄土思考ではなく、自己と向き合い、内面凝視する姿」である。
それだけですと、自己陶酔・オナーニーになってしまいますが、自分をより高い次元へと導き、自分もその姿に成り得る姿なのです。
「お前の心身はそれでいいのか! もっと高き次元に至れる」と観る者の恩奥に 射込む光の眼 を描きたいのです。
「天上天下唯我独尊」の真意をよくよく考えると、生命の尊厳・存在する意義を歌っているのです。

目標の尊顔があります。
東大寺三月堂 不空絹索観音 厳しく堂々とした体躯からは圧倒されますが、負けてはならないとエネルギーが湧いてきます。
鋭いのですが、決して明王佛のように屈従させる眼光ではありません。

ガンダーラ彫刻の中で最高傑作とされる「苦行するブッタ」
日本での特別展でも、パキスタン・ラホール博物館でも見ました。
背筋に冷や水といいますが、正にゾッ!とする迫真があります。
骸骨のごとき落ち込んだ眼孔から、内部から針先が飛んでくるような力。
人間がそのまま神域に到達した(大乗佛教では菩薩という)尊顔にうごけなくなってしまう。

両者を比較した場合、佛教教理の解釈背景はまったく違うといえます。
初期の仏教をベースにした、西域の仏の姿は、生身の人間くささがありますが、日本の表現は次第に人間味を整理して「願望佛」となっていったと思います。
私の描く仏の顔も次第に「優しさ・癒し」が見て取れるようにしてきました。

美しき野菜

2008-07-14 19:34:03 | 山郷の暮し
チョット恥ずかしげにチギレ雲が茜色に染まり、月齢16-7日の月があります。
こんな夕方は、いつもでしたら庭のテーブルでイッパイとなりますが、腰痛の痛み止めを飲んでがまん。
・・・・・できるかなーー。
というのも、私がしばらく見えないと心配してくれたお隣さんが、採りたての野菜を玄関に。
滋養がたっぷり含んだ美しさに、食卓に飾ってしまった。
スケッチとなると、かなりのエネルギーを必要とし、今夜はその元気がありません。

パッシ パリッ!! こんなに生きた野菜がいただけることに感謝
チョットちびりちびり・・・

ryusun

つぶやき

絵本と無縁になった大人に

子供たちに向けたというより、内なるものを呼び覚ます大人への絵本