棚からぼた餅--岩淵龍王丸

信州の山郷での暮らしと、絵本と無縁になってしまった大人に向けた創作絵本や、芸術活動をお話します。

6-おふくろと犬

2008-07-07 09:34:46 | エッセイ・随筆
捨て犬をひろってきてしまうのは子供の自然な行為。
「ボクがきちんとめんどうみるから飼つてヨーー」
となるのが普通です。
我が家では子供のわがままの上に、父がフトコロに入れて拾ってきてしまうのでした。
ただでさえ食料乏しいうえに、時には雑種犬が三匹。
いまほどつないでおれの、うるさいなどといわない時代でも、最終的苦情を処理したのは父でなく母であったと思う。
そんな時、子供たちは「お母さんは、動物嫌いだからナーー」
と、どこにでもある小さな親子喧嘩が持ち上がる。

雑種からそれなりの犬をよく飼ってきたが、一番めんどうをみてくれたのは、母だった。

母は80歳代後半に兄の家に居たが、そこの犬(コリー犬)の散歩をいつのまにかするようになつていた。
あるとき訪ねた私に
「あの犬は本当にバカ犬だよ。ただかわいがっているだけで、躾がなっていない」
珍しく不満をもらしていた。
その犬が散歩中に駆け出し、母が転んでしまった。
年寄りの転倒は大問題。
やはり骨折をしてしまい、それから散歩がおっくうになってしまつたようだ。
ほんとうにバカ犬でした。

賢犬サクラからの一言
わたしたちは、人間様にあわせて歩くのがルールです。
仲間を悪く言うのはナンですが、それができない犬は、猫にも劣ります。

5-おふくろー夫婦喧嘩

2008-07-04 14:47:00 | エッセイ・随筆
両親は大変円満で、少しヨイショすれば紳士淑女の雰囲気があったと思う。
私たち子供は、父から大声を上げられたことはないし、当然暴力的なことはなかった。
父も母もことばがきれいで、あらゆる子供たちに「丁寧な話し方」をしてくれた。
連れてきたガッタ小僧に「君たち」といい、言われた鼻タレも悪い気はしなかったようだ。

そんな両親だったが、確か中学の頃だったと思うが、母が大声で父と渡り合っていた。
そして、一升瓶を庭に叩きつけてしまったのだ。
僕らも驚いたが、一番驚き、落胆したのは父であったろう。
そう、私の酒好きは父から受け継いだもの。
大喧嘩は母のこの一撃でストップ。
「龍王や・・・。女って恐ろしいものだよ・・・」
父のその時の言葉は、いまでもはっきり思い出します。

夫婦喧嘩の原因はなんだったのだろう。
経済的なことだったのか、飲みすぎを心配したことだったのだろうか。
今となっては、聞く相手が居ません。
写真は文と無関係--賢犬サクラ

4-おふくろ--質屋の教え

2008-07-02 09:06:26 | エッセイ・随筆
老舗旅館の長女として生まれた母は、温泉町の三姉妹小町といわれたらしい。
私が30歳代のとき「谷崎潤一郎の「細雪」だったかい」とちゃかしたことがあった。
「田舎では、物語ほどでもなかったが・・・」
と、てれながらもまんざらでもない母に,艶っぽさを観た。
母はすでに70歳代で、5人の子供と父を支えた、戦後30数年の誇りと、もって生まれたプライドの高さがあった。
そおです、母はプライドが非常に高く、世間ずれした妥協はしない人のようだった。

鮮明な記憶に残っているのが、小学生のときのことだ。
「たつおお・・いっしょにきなさい」と、うす暗くなった時刻に、街中を30分ばかり歩いた。
裸電球の街路灯がボーと照らす路地に入り、格子戸をくぐる。
母は手にしていた袋包を主人に渡す。
それから何かやり取りがあった末
「ここは質屋さんといって、お金を貸してくれるところです。
あなたが大人になっても来てはいけない所です。いいですね!」
主人はよほど決まりが悪かったと見え
「ぼっちゃん、お待ちください。」とおひねりを渡そうとしたが、母は丁重に、しかし、きっぱりと断ってしまった。

母の教訓もむなしく、私の若い頃はいよいよ質草がなくなり、絵の具箱を持ち込んだこともあった。

3-おふくろ--明治女のど根性

2008-07-01 07:46:26 | エッセイ・随筆
前述したように、私は産めよ増やせよの時代からの、5男中の末っ子。
物心ついたときは疎開先の信州で、東京での父親が経済的にも学閥的にも絶頂期の、戦前を知らない。
戦後は全ての資産・地位をうしなった父は、精神世界に一層まい進し、教理から実践生活に入っていった。
といっても、厭世的なものではなく、自己完成にひたすら向かった、というところか。
と、なると、腹ペコがきを支えるのが「おふくろ」であったろう。
小町と称され、奥様と呼ばれ、戦後のナニモナイ時代に「おかあさん」として、がんばりぬいたのである。

「我が家は戦争で全てを失って、おふくろも大変だったんだろねー」
と、判ったような私の言葉にきっぱりと、母は言った。
「あの時代はみんなそうなの。お父さんは学者だから、家庭のことで心配をさせてはいけなかっただけのこと!!」
明治女のど根性を感じた。

イヤ・・・。男はもともと女の手の内に踊っているものかもしれないと、近頃はおもいます。
それでいいのだ!!!
母の80歳代の肖像

2-おふくろー夫婦・親子関係って??

2008-06-30 08:48:23 | エッセイ・随筆

私は「産めよ増やせよ・お国のためだ」と言われた時代からの、5人兄弟の末っ子。
親父は56歳、母は40歳。さいごの頑張りみたいなもので、両親の若い頃は皆目判らない。
これは私だけのことではなく、子供にとって親のことは判っていない。
もう少しつめてみれば、親も実はよくわかっていないところから始まっている。
結婚はわからないもの同士が、わずかな接点で結びつき、その小さな根を巨木に育てる根にしてゆくことなのであろう。

子供にとって最初の異性意識が、両親だと言われますが、男の子にとって父親は、目標であったり競争相手であったり、ときには憎しみの対象にもなってしまう。
つまり、男対男の関係だ。
女性の場合は、母親が女対女の関係になるのであろうか。
では、男の子にとって母親を「異性」として意識することがあったのか、あったとしたら何時ごろだったのか。

父親から「お母さんの若い頃の写真だ」と見せられたのは、小6のときだった。
どうしてそおなったのかは判らないが、ただただ面食らい内心「お母さんて若くて綺麗だったんだ」とおもった。
父もこの時代の母を知らないはずだ。この写真を見てコヤコヤしていたかもしれぬ。
写真裏には、父の筆による「大正15年・小学校補習科教員時代 21歳」とあるる

上記したように、私は晩年の子供で、物心ついた頃は母は50代だが、鼻ったれ悪がきのカーチャン連の中で毅然とし美しく、一目置かれていた存在だった。

「おふくろは、イイ女だったんだよナーー」
と、お茶を入れてもらいながらいえるようになったのは、私が50歳代。
親父の気持ちが、チョットわかるようになってからかもしれない。

1-おふくろを思う--やかん

2008-06-29 17:14:19 | エッセイ・随筆
銅製の小さなやかんはクルッとして、なんともいい姿をしている。
1996年・92歳で他界した「おふくろ」が、自宅で最後まで愛用していたものです。
ときおり訪ねるた私に、炭火で湯を沸かし、、煎茶の旨さを教えてくれました。
やかんは、たぶん大正期のものと思うが、医師・学者の妻で「奥様」と言われた、結構な頃からのものだと思う。
「おふくろさん、形見にそのやかんはオレにくれよ・・・」
「お前は失くしやすいからねー」といっていたが、やかんの中に「龍王丸に渡す・・・」の手紙があった。

お袋はこのやかんで煎茶を楽しみ、私は焼酎のお燗に愛用している。
ガスなどの直火は傷めてしまうので、電気コンロと気を使っています。
独酌の至高の時ばかりでなく、宴会にも絶対欠かせない、目を楽しませてくれる逸品として、皆からナゼナゼされているものです。

お酒となったとたんに、方向を失った筋になってしまいますが、おふくろの話をしていきたいと思います。
当然、理想化した母親像として、装飾された虚像的な記述になってしまいますが、おつきあいください。

ドライバーいろいろ

2008-06-29 16:53:54 | エッセイ・随筆
http://ryuomaru行きかう車の、一瞬に見るドライバーは様々ですネ。
よくあるのが携帯電話中、いつの間にか取締りが緩んでしまいました。
口をパクパク、多分大声でカラオケの練習か。
すごいのが、携帯にクワエたばこのオバハン。
お化粧にご熱心で、バックミラーを覗き込む目がバッチリあってしまったり。
髭剃り運転は、もちろん男で朝の1コマ。
チョットやめてくれ !と叫びたいのが、トラック運ちゃんに多い、マンガ本をハンドルに置きながらの運転。これは、運転のプロとはいえない。
時には○×▽▲中だったり・・・。
不思議なもので、車の上下・速度など関係なく、ドライバーの人格が現れるものです。

サテ私は、あまり運転がすきではなく、免許取得は25歳だった。
思い出すのは、東京での私が唯一まともなサラリーマン時代、なぜか秘書課に抜擢された。
社長は車大好きで、当時日本に数台しかないシボレーのドデカイヤツをころがしていた。私は、社長の運転であちこちへオトモ。
社長もどこかおかしいと思ったか「君、運転免許を取りなさい」
「いや、ボクは運度神経がダメですから・・。運転手におまかせしたら」
「・・・・この車は俺が運転する」
結局、会社の経費で免許を取得。
運転なんかいやだと、社長と大喧嘩し首になってしまった。

それ以後、まともなサラリーマン生活はないのですが、「サラリーマンとは気楽な家業ときたもんだ・・」のイメージなんです。
何の話でしたっけ! めでたし、めでたし。3.web.fc2.com/akakb-5.html

咲きました・夏の花

2008-06-25 16:25:05 | エッセイ・随筆
http://ryuomaru3.web.fc2.com/sizennoe.htm
久しぶりに朝から夏の光に溢れています。
雑草を気まぐれに抜き取る。じきにイヤになってしまった。
けなげにもヒョロヒョロと伸びたひまわりたちに、夏の顔を拝見できました。
写真は2つの花なのですが、裏から見れば一つのガクからです。
私はひまわりの花が大好きで、今までに色々な種類のひまわりを栽培しましたが、結局は単純な花が一番いい。
雑草畑と言われている花畑が、その名にふさわしく「ひまわりの花畑」になるでしょう。そして、来宅した人に「好きなだけドーーゾ」と言ってやるんだ!!
絵もたくさん描いてきました。思い起こせば、ひまわりを描く夏は、製作欲も充実している年でした。

ひまわりの絵と言えば誰でもがゴッホの「ひまわり」
花瓶に生けられた室内の静物画で、浮世絵の影響を受け「影」を書き入れていません。

私の「ひまわり」は、真夏のお日様がギラ゛キラ照りつける、野外のひまわりで、あるがまま、そのものの表現にこだわっています。
自然状態のひまわりの絵は、オレの作が一番の名画だと自負ております----。

ゴッホの麦畑

2008-06-22 18:02:02 | エッセイ・随筆
昨夜からよく降っております。
「樹木が露の重みで散歩道をとうせんぼ、している」と賢犬サクラにいいきかせ、寝ております。雨の日は良く寝れますねー。

我が家から車で10ほど行ったところに、もはや郊外といえない新興住宅地に侵略されつつある、農作地域があります。
ただ今、麦畑が一面に広がり、ホンワカとした香りが漂っています。
ジョキング・犬の散歩の方々においきあいしますが、日中はやけに太陽の光がまぶしくかんじられます。
それでいて、静けさがあり、稲田とは違っているのです。

麦畑といいますと、連想するのがゴッホの作品でしょうか。
ゴッホといえば激しい筆使いと、色彩を思い浮かぶと思いますが、彩色のない素描に画家の本質が読めます。
「糸杉と麦畑」の素描は、葦ペンを使い分けています。、
しなやかな線描は光が渦巻き、揺れ動いているのですが、不思議な静けさ、静謐さが漂っています。

画中に作者ゴッホがいて、こちらにスーと移り座し、再び画中に・・・。
過去・現在・未来を越えた気の流れをかんじます。

浮世絵版画がヨーロッパの画家に衝撃を与えたことは、どなたもご存知でしょうが、とりわけゴッホはおおきかった。
色彩のゴッホといわれてしまいますが、素描を見ると生真面目で透徹した自然観は、水墨画の名作を観るような、同質の自然観と次元を感じます。

麦秋の広がりを眼前にしても、ゴッホのような抽象的な世界まで、創造できません。
せめて、思いをヨーロッパに馳せても、残念ながらヨーロッパのきらめく麦畑の広がりを見ていないのです。

菖蒲湯

2008-06-05 16:32:59 | エッセイ・随筆
霧雨が降る暗い一日。
いつもの温泉(200円)にいくと「菖蒲と蓬」を束ねたものが浮かんでいる。
今日は24節気の芒種ぼうしゅで、玄関などに菖蒲とよもぎを飾る。
そのいわれとなると知らないが、月遅れの端午の節句で、元気な男の子を祝うらしい。
お風呂は一種の薬湯であると思う。

一人ゆったりとつかっていると若者が入ってきた。
「これなんですか??」と。
おじさんとしては、ここぞとばかりノタマワリタイのだが、上記の程度しかネタがない。
若者は北海道の、わりあい新しい地域での出身。このような行事はしらないと語った。

ついでですが芒種は、種まきの時期とされ、水の季節になっていく。
中国の暦には、カマキリが生まれる季節とあるそうです。

写真は、玄関に飾られた菖蒲

ryusun

つぶやき

絵本と無縁になった大人に

子供たちに向けたというより、内なるものを呼び覚ます大人への絵本