日本の心・さいき

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続・団塊の世代の生き方

2007-02-12 20:32:06 | Weblog
 自分の場合は、又、特殊な感じがしている。
 新婚旅行は、普通車で高千穂に行き、臼杵で終わった。
 初め就職した宮崎県立宮崎病院は、当時、まだ、宮崎医科大学がオープンしてなく、宮崎県で一番大きな病院で、宮崎各地からの紹介もあった。宮崎市の小児科開業医が入院設備を持っていない関係で、いつも新生児を含む85床程のベッドが満杯状態で、ベッドを開けるのに苦労することが多かった。
 それを、部長以下、6名でしていたが、その内の3名は、研修医であった。しかし、新生児は、上下関係なく、順番に主治医になることが多く、又、1年もせずして、白血病や心疾患も、持っていた。
 病棟の患者の急変は、主治医の責任で、深夜でも遠慮なく呼ばれていた。又、5日に1日は、夜の救急で拘束された。
 当時のナースに偶然に会った時、「先生、あの時の県病は、凄まじかったですネ、もう、あんな忙しいことはありませんが・・・」と言われた。
 その後、宮崎医科大学の診療が始まる時に合わせて、大学に行った。教授1人、助教授1人、講師1人、助手(自分を含めて)4名。わずか7名のスタッフ(それ以外、なし)で、当直も外来も学生の講義も検査もこなした。
 教授と助教授以外は、当直をし(5日に1回)、自分が一番下だったので、検査の部門で、特に頑張らざるを得なかった(外来の尿沈渣と白血球の分類を、全て、自分がしていた)。(宿舎は、病院のど真ん前にあったが)朝は、7時30分過ぎに行き、帰りは、23時近くに帰ることが多かった。日曜日に働くことで、溜まった仕事がやっと消化出来る感じになっていた(病院では、自分のことを、ナースの多くが、働き虫と言った)。
 少しスタッフが増えて、楽になりかけた時に、佐伯に帰った。年間約お産500の救急病院に、小児科を新設してもらったが、ナースに経験者が一人もいなく、それなりに苦労した。
 当時、大分県の県南では、小児だけ診る医師は、津久見市にも臼杵市にもいなく、佐伯市に開業医が一人いるだけで、その医師も、しばらくして、体を壊して、しばらくの間、休診となってしまった。
 とうとう、県南一人で、24時間365日の新生児と小児科救急医療をこなさざるを得なかった。それに、健診、予防接種、更には、医師会の准看護学校(20時間)と看護専門学校(30時間)の講義もしていた。(そんな忙しい中で、学会に演題を出して、15回前後、発表していた)
 開業後も、入院設備を19床も持ち、平日は、朝7時半から、一人で24時間365日、絶対的な拘束で小児救急をした(土曜日のみ、自宅に泊まっていた)。(そんな中で、趣味にも明け暮れていた)
 そして、そこを採算が合わないとの理由で(その時、佐伯市には、小児科医が8名にもなり、入院できる所が、4カ所にもなっていた)、やむなく閉院した。
 福岡の大川で、自分の意見が通って、東大の小児科医局のスタッフの協力で、5人で24時間態勢の小児科救急医療を開始し、その後、大分の戸次でも、自分中心に、小児救急をしてきた。
 そして、今に至っている。もう、頑張れと言われても、体が付いていかない。風邪の調子、少し良くなった感じだ・・・。




 (これだけだと、自分は、ただの仕事人でしかない。しかし、自分の場合は、今後の計画を実に細かく決めているし、それなりの今後の夢も持っている。その実現の為に、今、コツコツと、それなりに一生懸命に努力しているつもりだが・・・。)


 


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団塊の世代の生き方

2007-02-12 07:50:09 | Weblog
 平成19年2月10日の夜、NHKの総合テレビで、団塊の世代の今後の生き方などについて長々と一般の人を交えての討論があっていた。
 思うに、昭和22年~24年(私)生まれは、独特の環境にあったと思っている。
 戦争を直接知らない。しかし、戦争の話をいやと言う程、小さい時から聞いている。貧しい生活を知っている(多くの人が皆貧乏だった)。その貧しさから、次第に周囲が豊かになって行く姿を実感出来ている。
 大分県は、当時、又、特殊な県であった。中学2年の2学期から、学校での受験勉強が異常で、中学3年の時は、試験が、何と、18回もあった。
 九州で、最も、進学高校が受験に力を入れていた県でもあった(それで、当然、大学入学後の九大と東大の留年率が、全国ワースト1位であった)。それを、自分は、2年間浪人している時に、その大分県の特殊事情を知った(今は、かなり改善されている)。陰では、学生から教師への暴行事件や、生徒同士の虐めも、確かにあった(今と同じ程度ではないだろうか?、今は、それが明らかになっているだけでは?)
 学生運動も激しく、1浪の時は、東大の入試が中止された時でもあった。昭和45年、鹿児島大学に入った時、教養部は学生運動の為に閉鎖され、1カ月遅れの授業開始であった。
 その後、又別の大学を受ける為に受験勉強をしている者、学生運動に走る者、バイトに精を出す者、旅行に行く者、いろいろで、教養課程の2年間は、多くの学生にとっては、詰め込み主義の勉強から解放されんが為の勉強休養部って感じだった。
 しかし、大学に入って、医学部での進学はさほど甘くなく、留年も(まともに試験をしていたら、留年になっても不思議でない人は、半分以上いたのでは?)多く、学生運動の影響か、国家試験問題が次第に難しくなり、昭和45年入学時の医師国家試験合格率97.9%が、96.6%、93.8%、88.9%、82.2%、82.4%、と下がり、自分が受けた卒業時の51年には、とうとう、80.4%まで低下していた(翌年は、85.6%、今は、90.0%)。
 卒業試験が始まったのが1月からで、卒業試験が終わって国家試験を受ける間は、ほんの少ししかなく、同級生も、約2割、不合格となった(幸いに、今と違って、この当時は、秋にも、国家試験があったが)。
 もまれても、もまれても、這い上がろうとするのが団塊の世代の様な気がする。
 仕事人間の人、確かに多い。国のことを憂う。じっと出来ない。社会の為に何か役に立ちたい。自分の存在感を確認したい。そんな独特な価値観の人間の集まりが団塊の世代の様な気がしている。
 今の長寿の日本で、いろんな世代がいる中で、この団塊の世代、特殊な環境にいただけに、特殊な感じで行動しているのかなあ・・・?

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