日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その14)

2007-02-28 07:32:40 | Weblog
(平成19年2月28日記載)
 入試って、一体なんなんだろうか?入れる数は、決まっている。どんなに頑張っても、もっと頑張る人がいれば、入れない。そこでは、相手のことを考えて優しく生きる生き方よりも、競争で生き残る生き方を学ぶ。
 大学入試の問題、はっきり言って、あまり質が良くないのが多い。模擬試験の方が、良質な問題が多い。土台、大学の先生が中心になって、高校の授業内容をあまり熟知せずして作成する訳であるからして、いい問題は、作成しにくいと思う(大学で、たまたま、教養部の教授の部屋に入った時、旺文社が毎年出している大学入試問題集が置かれていたのには、ビックリした。大学の教官が大学受験の予備校に行ってバイトしている・・・今も、行われているのかな?)。
 東大や九大の入試問題は、良問が多い(作成するスタッフも、それなりに多いのであろう)。しかし、地方の大学入試の問題では、周期的に、内容のパターンの変化が見られること、多々ある(少ない作成者が、周期的に変わっている為と思われる)。受ける大学にどうしても入りたい場合、まず、入試問題を徹底的に研究しておくべきだと思う。九大を受けるには、九大に沢山合格者を出している予備校に、長崎大を受けるには、長崎大に沢山合格者を出している予備校に通うことである。
 いい成績を上げる受験生のタイプには、2つあると思う。本当に、実力があって、それなりに出来る人(この場合、受験では、時間不足になることが多いと思うが)。もう一つのタイプは、短い時間で、能率良く解ける様に訓練されていて、その為に、多くの問題のパターンを予め解いて熟知していて、それをきっかけに類似であることに気付いて、解いて行ける人である。つまり、受験テクニックに秀でている人である。
 こんなことを、幼稚園に入る前から、子どもに強いたり、中学受験や高校受験の段階で、既に、強いられている子ども達がいるかと思うと、ゾッとする(それで失っているものの方がはるかに大きかったと言うことに気が付くまでに、30年以上掛かるかな?)
 つい最近、団塊の世代で、長崎大学医学部を現役で合格した人と話して、入試のことで花が咲いた。現役で合格していたその先生は、言った、「長崎大学の今までの問題を解いていたら、殆ど、毎年同じ感じの問題が出ていて、私の時は、ほんとそっくりの問題が出ていて、ビックリした。」と。英数学館に教えに来ていた長崎大学の数学の先生が、次の様に言ったのを、今でも覚えている、「今年の長崎大学の数学の問題は、ちょっと変な問題で、難し過ぎた。来年は、そんことは、ありませんから・・・(こんなこと、大学の先生が予備校で言ってもいいのかなあ?!)」。
 ノーベル賞を日本で初めてもらった湯川秀樹氏は、高校の時、同級生に物理の授業をしていて、その教え方は、その学校の物理の先生よりも上手だったとか。京大受験の数学の試験で、湯川氏しか解けない問題があった。しかし、彼は、それでも受験に失敗して、一浪してしまった。
 マスコミによく出る京大の森名誉教授が、ある時、京大の数学の問題を作成する時の裏話を、次の様に言われていた、「まあ、この問題だと、8通りぐらいの解き方があるだろう、と思って、出題すると、何と、京大を受ける受験生だと、20通り以上の解き方が出てくる。で、ある解き方だと、途中で、行き止まって解けなくなってしまう。それでは、解けないんだよと思って、何人も採点して行っていると、数百人チャックし終えた所で、その方法でちゃんと筋道を立てて、解いている答案用紙に出くわす。こうなると、数学は、途中の経過が大切なので、多くの答案用紙から、前の途中の経過で終わっていた人の答案用紙を探し出して、それなりに点を上げることになる。」と。
 受験勉強していて、面白いと思った教科は、自分の場合、数学だけだった。実際は、点数や順位を上げることが楽しみで、その結果として入試に合格することが楽しみで、頑張れた。2浪の時は、点数を上げる為に、古文も漢文も、英語と同じ様に、全訳して行き、授業中にそれを訂正していた。
 国語は、1年間や2年間では、本当の実力は伸びない。その基礎は、小学校時代であり、その中でも、読書力の差である。
 英語は、結局は、最後は、国語力となる。英語の試験で最も要求される読みこなす力は、ただ、内容が英語で書かれているだけで、国語と同じ能力を見ていることになる。
 数学は、基礎である。公式の出し方など、教科書で、基礎を完全に叩き込んでおくことである(私はそうした)。本当の数学としての学問は、いろんな解き方を時間を掛けて考え出し、今まで考えつかなかった感じの方法で解けた時の喜びを感じることである。しかし、受験では、それは、許されない。速答出来る様に、側頭葉を使い、前頭葉を余り使わないで解く様に強いられるが・・・。
 社会や理科は、基礎をしっかりと理解して、楽しく勉強して行けば、そして、時間をたっぷりと掛けて勉強して行けば、誰でも、ある程度までのいい点数は、取れるはず。学校の方針で、主要三科目で時間を取られて、選択の社会理科に時間を沢山掛けられない状態では、現役では、消化不良で受験することになるだろう。
 いやいやながらしたことは、医学的にみても、受験が終われば、忘れてしまう傾向にある(大脳基底核の喜びを感じる扁桃体と短期記憶中枢の海馬が、強固に結び付いているからして)。人間は、大脳生理学的に、よく休み、よく寝、それに、よく運動すると、記憶力が良くなる(眠っている時に、記憶が脳で整理されて行く)。しかし、多くの県立の進学高校の様に、朝から晩までの詰め込み主義と睡眠不足では、非能率の状態となり、学問の真の面白さや、深く勉強していくことの楽しさや、やる気など、確実に喪失して行ってしまうだろう。
 ある一点で、全ての勝ち組と負け組を分けてしまう今のやり方には、どうしても、賛成しかねる。年に、2回の大学入試があってもいい。社会人がどんどん参加出来る大学になって欲しい。学問は、元々、面白いもの。その面白さを知らずして、学校を巣立ってしまう現実を、多くの関係者が、まず、反省してもらいた。
 その内、(アメリカの様に)大学を卒業して、教育学部や医学部や法学部に進学する様になるだろう。そうなれば、(日本の旧帝大を全てなくして、研究機関にして)大学間の差がない状態になるだろう(今のドイツの様に)。出来れば、自分の瞳がまだ黒い内にそうなって欲しいものだ。

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為になるかも知れない本(その13)

2007-02-27 08:25:01 | Weblog
 そんな時、西田病院(現在、佐伯市で一番入院ベッド数が多く、その時、既に30年以上、24時間の救急医療をしていた)の院長先生から電話があった。母は、父が肺炎でそこに入院していた時に父と知り合い、父と結婚する前に、西田茂院長の病院で働いていた(母から、開院当初の苦労話をしばしば聞かされていた。母は、自分の血圧の高い病気のこともあって、西田病院によく行っていて、その都度、病院の最上階に住まれている西田茂氏の所に立ち寄っていた。)。
 「ここで(西田病院)働いていた小川君が、今度新設の川崎医大の産婦人科の教授になっとるんじゃが、君を推薦してあげたいが、行く気はないか。君のことは、よく知っているし、真面目で成績のいいのも知っているから・・・」と言われた。私立の医学部を受けることなど、今の今まで、一度も考えたことがなかった。特待生になれば、私立でも、多少お金が少なくてすむことは、知っていたが・・・。お金は、何とかうまく行くと両親は言った。信じられなかったが・・・。
 俺はもう浪人しなくていいのかと思うと、嬉しくて嬉しくて、たまらなかった。
 よし、鹿児島を受けてみよう、そう思った。それが強烈な精神安定剤になった。

 後で思えば、西田病院長(故人になられている)は、言わなかったが、恐らく、自分が川崎医大を優秀な成績で合格した場合、経済的な援助を少なからずしようとの気持ちがあったと思っている。その時、私は、そこまでは考えずに、自分の様な貧乏の家でも、成績さえ良ければ、私立の医学部に行けるチャンスがあると思っていた。(その後、卒業5年目に、この西田病院に勤務して、この院長の片腕として、新生児を担当することになろうとは、誰が想像できたであろうか。西田病院に勤務時代、西田茂院長から、私は、実によくかわいがって頂いた)



 桜島がどっかと座っていた。入試の時、(九大工学部大学院卒業後に)国立鹿児島工業高等専門学校に勤務している次兄が、2日間とも、試験場の実業高校まで、朝一緒に行ってくれた。
 次兄は、「修猷学館の第8回の模試と思って受けたらいい。第7回は、一期だったとして。」とだけアドバイスしてくれた。
 「そうだ、入試と思うからいけないのだ。場所が違うだけで、模試と思えばいいんだ。」そう思って、問題に取り組んだ。修猷学館の模試の傾向と似ていた。クセのある問題も少なく、得意の数学も、そのまま実力が出、模試と同じ感じで出来た。
 次兄から、「出来たと思ったら、帰る時、木刀を持って帰れ。」と言われていたので、次兄が持っていた木刀を持って帰った。帰りの汽車の中で、これで落ちれば、本当に悔いはないと思った。
 その後、両親がいろいろと調べた結果、川崎医大には、お金が高くて、行けないことがわかった。父が、「正英、それが人生よ。もう1年頑張って、今度は、(医学部以外の)私立を受けて、受験慣れをしておかんと。」と言った。(受験慣れするお金を使うのも、もったいないと思っていた)
 川崎医大に出すべき内申書を破った。三浪の覚悟が決まった。又、近本から修猷学館に通おう。
 合格発表の日、・・・通知が来ない・・・・予備校の入学願書を入れる袋を自転車に乗って買いに行った。帰ると、母が電話をアチコチに掛けながら泣いていた。長兄(当時、大分県立鶴崎高校英語教諭)が、ニコニコしながら、冗談で、「正英、又落ちています。」と言う。母が、「通ったんよ、通ったんよ。」と、ポロポロ涙を流しながら僕に言う。次兄が、僕の受験番号「55」を、医学部の掲示板の合格発表で見て、電話で知らせてくれたのだ。僕は、再び鹿児島の次兄に電話したら、「55番じゃろ、間違いないって、カメラにちゃんと撮ってあるから。」と言う。僕は、本当に合格したのだ。
 
 4月5日。今日から3日間、佐伯春祭り。春が来た。本当に春が来た。信じられない。ピ一ンと来ない。合格通知を見ても、どうも。通ったんだネ。本当に通ったんだネ。万歳!!

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日本語を理解する為に(その13)

2007-02-27 08:20:10 | Weblog
 よく使用される動詞に、「行く」とか「です」がある。
 よく使用されるだけ、その変化が激しい。スペイン語では、「行く」の原型は、「ir」であるが、実際に使用されるのには、voy vas va vamos vais van(ボイ・バス・バ・バモス・バイス・バン)となり、原型の欠片もない(スペイン語では、Vは、英語のBとして、発音する。反対に、ロシア語では、Bは、Vとして、発音する)
 「です」は、スペイン語(ser、estar)にもイタリア語(esser、stare)にも、2種類あり、その使い方は、はっきりと区別されている。
 この一人称、二人称、三人称の動詞の変化、全て、人称がどうか、数が複数かどうかで、違ってるので、主語がなくても、相手は理解出来ることとなる。それで、主語が省略されることが多い。
 その点、ドイツ語やフランス語では、同じスペルや発音があり、区別が付かないので、主語をはっきり言わないといけないこととなる。


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日本語を理解する為に(その12)

2007-02-26 07:41:17 | Weblog
 動詞の変化が、スペイン語にしても、イタリア語にしても、先の様に、規則正しくなっていれば、簡単だ。しかし、そうでない不規則動詞が多いし、かつ又、そんな動詞に限って、頻回に使用されている。
 以上の動詞は、自分が実際にイタリアの語学学校で使用したテキストからのものである。見えない様に伏せて、空でちゃんと全てが間違えなく言える様に、毎朝、勉強していましたが、・・・。


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為になるかも知れない本(その12)

2007-02-26 07:31:35 | Weblog
 昭和45年3月6日(西暦1.970年)午後4時40分。
 入試は、終わった。後は、結果を待つだけだ。全力を尽くした。英・数・国、まあ実力が出た。理科は、まあ、あんなものだろう。時間がなかったし、上がっていたのは確かだった。社会は、あれが実力だろう。そうなると、7割弱かな。多分、合格していると思うが・・・。



・・・・・・・




 しかし、結果は、予想に反して、不合格だった。それなりに自信があっただけに、父から初め聞いた時には、どうしても信じられなかった。詳しい情報によると、210番とのこと。そんな馬鹿な!2年間一生懸命余分に努力して、その結果が、現役の時の104番よりもはるかに悪いなんて。俺は、その晩、布団の中で泣いた。本当に残念だった。涙が自然と出て来て仕方なかった。
 翌日、家の(新築の)祝いがあり、多くの人が自宅に集まった。俺は、朝早く、雨の降る中を家を出て、映画を見に行った。映画館では、入試の結果のことで頭が一杯で、ただ、そこに画面と音が流れていた。
 お客さんが帰っただろう頃に、家に戻り、英数学館と修猷学館とで一緒に励まし合って勉強してきた○○○○君に相談した(二浪の時の下宿先も、隣の家同士であった)。彼とは、鶴城高校の時の同級生(同じクラス)で、彼は、現役の時は、自分よりも成績が良くて、大阪大学医学部を受け、昨年は、長崎大学医学部を受け(ほんのわずかで落ち)、今回も又、長崎大学医学部を受験したが、どうしてか、不合格になっていた。(長崎大学医学部には、鶴城高校の時の同じクラスの同級生が、現役合格していた。その彼は、非常に面倒見が良くて、一浪して二人が長崎を受験した時には、とても良くしてくれた。現在、大分市で、眼科を開業されている。)
 「一年、又、今の調子で一人で頑張るの大変。今度浪人したら三浪だし、俺はもう出来ん。お前にもう医学部はすすめんなあ。俺はもう受ける気はない。」と彼の決意は堅かった。とうとう、初めて願書を余分に書いた山口大学の文理学部(物理)に行くことに決心した。
 父母が、「もったいないから、鹿児島大学を受けたら。」と言う。「成績が悪いなら仕方ないが、修猷学館でちゃんといい成績を取っているのだから・・・。」と言う。
 しかし、もう、三浪する元気は、自分にはなかった。もう、自分なりに、納得できる感じで全力を尽くして来たと思ったからである。

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日本語を理解する為に(その11)

2007-02-25 11:24:51 | Weblog
 ヨーロッパの言語を学ぶ時、一番難儀するのは、動詞の変化である。一人称、二人称、三人称で、動詞が変化する。英語の場合は、三人称単数にSさえ付ければいい、それで事足りていたが、ヨーロッパ言語では、6つ、覚えないといけない。
 しかも、例えば、イタリア語であれば、それを、現在、近過去、半過去、未来、更には、命令、条件、接続と、少しずつ変わって行くのを、きめ細かく覚えて行かないといかない。
 しかし、フィレンツェに1カ月住んで、実際に話をしようとする時、現在形と近過去だけでも、生活上では、何とかやって行けることに気が付いた。(バングラデシュのダッカで話した時、未来形と現在完了の2つで、何とか、やって行けることにも、気が付いた)
 イタリア語とスペイン語は、よく似ている。動詞は、イタリア語もスペイン語も、3つのタイプしかない。スペイン語では、-ar動詞と-er動詞と-ir動詞である。イタリア語では、 -are動詞、-ere動詞、-ire動詞である。
 hablar(話す)を、アブロ、アブラス、アブラ、アブラモス、アブライス、アブランと覚え、末尾の変化が、beber(飲む)では、オ・アス・ア・アモス・アイス・アンが、オ・エス・エ・エモス・エイス・エン、vivir(住む)では、オ・エス・エ・イモス・イス・エンと覚えるしかない。
 イタリア語だと、parlare(話す)が、オ・イ・ア・イア一モ・ア一テ・ア一ノとなる。beber(飲む)だと、オ・イ・エ・イア一モ・エ一テ・オ一ノとなる。しかし、-ire動詞の場合は、2つあり、partire(出発する)とcapire(理解する)とは、違い、後者では、カピ一スコ、カピ一シ、カピ一シェ、カピア一モ、カピ一テ、カピ一スコノとなる。
 この難関、初心者は、慣れるしかない。

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為になるかも知れない本(その11)

2007-02-25 07:49:52 | Weblog
 模試は、全部で6回あり、第3回から最終の6回までの模試の4回の平均点は、450点満点で、331点で、修猷館の現役の3年生だと、3番だった(修猷学館と修猷館では、館外生も含めて約1000名中、23番だった)。その前年度(東大中止の年)、修猷学館と修猷館からは、館外生も含めて、九州で最難関の九大医学部に、何と、22名(100番以内が17名受験して、16名合格)も合格していた。



*昭和43年の佐伯鶴城高校3年1月施行の最終の実力試験では、国語37点、英語65点、数学88点(この時、初めて、学年で数学が1番になれた)、世界史24点、物理40点、化学26点、総計280点で、学年で11番であった。大分県下で進学校が全員受ける3回の県下一斉模試の平均点では、県下で、250番だった。
*昭和45年の修猷館と修猷学館1月施行の最終模試では、国語62点、英語72点、数学89点、世界史42点、物理39点、化学40点、総計344点で、修猷館の現役の高校3年生だと、11番だった。


 友達が、「九大医学部を受けるのか?」と聞いてくる。「いや、もう浪人できんから、受けたいけど、絶対確実な所をねらう。四国の徳島を受ける。」と言うと、「そんなら、一番で通るんじゃない・・・」と言ってくれる。(修猷学館から、徳島大学医学部を今までに受けた例がなかった)
 この1年間は、バスで修猷学館に通った。朝は、マラソンをし、夕方は、バドミントンをした。今までの様に、夜遅くまで起きることはなくなり、朝、4時過ぎ(大学の時も、同じ、今は、5時に起きているが)に起き(完全な朝型となった)、修猷学館での予習を徹底的にした。よく遊び、よく寝、よく勉強した。夏休みも、冬休みも、佐伯の家に帰り、帰った時は、僕の大好きなミ一コと暇を見てはよく遊んだ。
 徳島の入試問題、全く研究しなかった(これが失策だったかも知れない)。又、再び同じ船「くれない丸」に乗り、そして又同じ「大正桜」と言う旅館を選んで泊まった。タバコをスパスパ終始ふかしている関西の受験生4人と一緒の部屋だった。
 受験では、一番後ろの席で、受験開始直後、あるテレビ局のフラッシュを浴びてしばらく録画された。少し動揺したが、自分の実力の8割は出せたと思った。しかし、思った以上に物理が難しく、時間が足りなく、他の問題も、クセのある感じの問題が多く、修猷学館の問題よりも、難しかった。

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日本語を理解する為に(その10)

2007-02-24 17:39:22 | Weblog
 インドの東に、スリランカと言う国がある。そこで使用されているシンハラ語。文字が、何か、蝶々みたいだし、お尻にも見える。(タイ語のタイ文字や、カンボジアのックメール文字は、蚊取り線香に見えるが?!)
 スリランカは、仏教国。当然、僧侶に対しての敬う言い方が存在する。話し言葉と書き言葉がある。有気音、無気音がはっきりと区別され、有声音と無声音の区別も、ヒンディ一語並に、区別されている。
 順番は、日本語とほぼ同じ。母音の発音も、アイウエオと日本語とほぼ同じ。但し、英語のエの口をしてアと言う難しい言い方(英語のBAGのAの発音)が一つある。子音字+母音字の組み合わせが多く、単語の最後が母音で終わるのも、日本語と似ている。声調は、ない。しかし、LとRの区別がある。かし、声調はない。
 シンハラ語は、シンハラ語で、「シンハラ ブハ一シャワ位一」と言う。「ア一ユ一ボ一ワン」は、朝昼晩いつでも挨拶言葉として使え、さようならの意味でも使用できる。しかし、「コホマダ」の方が、親しみを覚えるだろう。「ア一ユ一ボワン」は、ヒンディ一語の「ナマステ」と同じ感じである(丁寧な言い方は、ナマステジ一と言う)。
 ありがとうは、「ステゥティイ」と言う。「私の名前は、田原です」は、「マゲ一 ナマ タハラ」と言う。「これは何ですか?」は、「メ一カ モカクダ」と言う。「どこ?」は、「コヘダ?」と言い、「トイレはどこですか?」は、「カックシャヤ コヘダ?」と言う。
 英語のIを「ママ」と言い、英語のYouを「オバ」と言う。
 1~10までを、「エカ、デカ、トゥナ、ハタラ、パハ、ハヤ、ハタ、アタ、ナマヤ、ダハヤ」と言い、11~20までを、「エコラハ、ドラハ、ダハトゥナ、ダハハタラ、パハロハ、ダハサヤ、ダハハタ、ダハアタ、ダハナマヤ、ウィッサ」と言う。


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為になるかも知れない本(その10)

2007-02-24 06:24:37 | Weblog
 昭和44年9月24日(水)曇。
 ジンクスを破った。夏休み明けの成績は、いつも悪いと言うジンクスを(暑いのは、苦手であった)。9月2、3、4日の3日間に渡って実施された第3回模試は、修猷館と修猷学館合わせて、(修猷館の生徒だとすると)9番で、数学は、91点で、3番だった。嬉しかった。例え又来年落ちたとしても、この思い出は、いつまでも残るだろう。前進、常に若者らしく希望を持って生きよう。この経験を大学で生かす。今年で浪人生活に終わりを告げる。大学生になれば、大学生としての悔いなき生活をする。医者になれば、人間味のある医者になる為に、人知れずに努力する。大学に入れば、この2年間を取り戻す為に、頑張る。自己に克った時に、初めて道が開かれる。悔いなく1日1日を過ごすことだ。努力は必ず報われる。それを信じて、俺は進む!
 
 11月22日(水)晴。
 真面目でコツコツ型の人間が大成する。俺は、俺なりの個性ある生き方をする。常に生き甲斐を感じながら過ごしたい。それには、第一に、「苦しみに耐えること」だ。苦しくても、それに負けてはいけない。まだ、希望があるはずだ。苦しいことから逃避せずに、真正面から立ち向かうことだ。第二に、「与えること」だ。世の中の為、他人の為に自分の能力を捧げることだ。自分の大切にしているものを惜しみなく他人に与えることだ。第三に、「味わうこと」だ。音楽を聴いては、絵を見ては、感動することだ。人間性を追求して、ああいい人生だと感じることだ。俺には、明日がある。明日は明るい。後4カ月足らず、最後の最後まで、力を抜かずに、コツコツやることだ。努力しても先が見えている感じのこの世の中で、俺の未来は、バラ色ではないか。無言実行。一日一日を有意義に。

 1月29日(木)午後4時20分記。
 修猷学館での授業もあますところ後わずか2日間となった。何もかも知り過ぎた時には、もう遅い時だ。勉強の方法がわかった時、俺は、二浪して、ギリギリの所に来ていた。やってみて初めてわかる。失敗して初めてわかる。それが人生なのかも知れない。

 1月31日(土)雨のち曇。
 修猷学館の授業が終了した。国語小枝・藪・柴田、英語引野・吉村・中山、数学堺・安東・内田、世界史伊東、化学田河、物理石田、いい教師(半分以上が修猷館高校の現役の先生)といい生徒(修猷学館の生徒の約4分の1が、九大合格)に囲まれて修猷学館での授業が終了した。素晴らしかった。実に素晴らしかった。無駄はなかった。幸せだった。やっと土台が出来上がった感じだ。又、落ちれば、今の方法でするだけの話だ。しかし、今度は合格する。実力が8割発揮できれば必ず合格する。4月の佐伯の春祭りには、本当の桜の花が見たい。目の前が何だか明るくなった様な気がする。


(以下は、原文には、ない。当時のことを思い出して、以下の内容を本日付記)
 素晴らしい高校と言うのは、まず、先生が素晴らしい。何よりも、生徒が先生を尊敬している。修猷館の生徒を見ていて、そう思った。しかし、生徒からの反感をかうと、教師にとっては、極めて深刻な事態となる。修猷館では、ある出来の悪い先生の場合は、生徒から完全に無視されて、生徒が、全て反対の方を向いて授業が進められるとのこと。つまり、そんな先生は、辞めざるを得ないのである。英数学館の東大クラスでは、九大の教養部の数学の先生が教えに来ていた。突飛な解き方を説明して、それで終わりだった。自分の高校の時の数学の先生の方が、遙かに上手に教えていると思った。その東大クラスで一番人気のあった先生は、修猷学館から教えに来ていた堺弥一郎先生だった。先生は、いろんな解き方を解説して、その中で、一番簡単な方法を勧めていた。この先生は、皆の勧めに反して校長になることを堅くなに拒み、教壇で最後まで教えることに情熱を燃やしていた。そんなことを知ったのは、修猷学館に来てから。残念なことに、堺先生は、肝臓癌の為に、1学期で授業を終えて、他界されてしまわれた。手術に立ち会った外科医師は、先生の教え子で、開腹した時に、こんなに悪い状態で直前まで教壇に立って教えることがどうして出来ていたのか、と周囲の人にもらしたとのこと。先生の葬儀には、実に多くの生徒が参列し、実に長い列が出来て、多くの教え子が涙した。鹿児島の私立の名門ラ・サ一ル卒の人に、ラ・サ一ルの先生のことを尋ねると、自慢げに延々と話す。当たり前だが、いい教師がいい生徒を育む。

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日本語を理解する為に(その9)

2007-02-23 13:30:22 | Weblog
 ミャンマー語では、声調が3つある。その声調の区別が、チベット語やゾンカ語やタイ語やラオ語やベトナム語で見られる様に、文字にちゃんと表されている。有気音と無気音の区別がはっきりとされている。有声音と無声音の区別もある。
 日本語と違って、「私」を、男性では「チャノ」、女性では「チャマ」と言い、言い方が違っている。YestとNoにあたる言葉は、不思議なことに、ない。
 「・・・ですか?」と聞く場合、分の最後に「ラ一(Lの発音)」を付ければいいが、疑問詞では、「レ(Lの発音)一」を付ける。
 「これは、何ですか?」は、「ダ一(これ)バ一(何)レ一(か)?」と言う。
 「こんちは」は、きさくな感じでは、「タミンサ一ピ一ビ一ラ一(食べたか?の意味)」と言う。「ミンガラ(Lの発音)ーバー」の方が、丁寧な言い方となる。1日中、挨拶言葉として、使用できる。
 「ありがとう」は、「チェイズ一ティンバ一デ一」と言う。
 「さようなら」は、「バイバイ」で充分に通じる。
 母音は、ア、イ、ウ、エ、オとあるが、エは、2つ、オは、2つある。

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