日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

今年も終わりですね。

2007-12-31 18:21:59 | Weblog
今日で、2007年は終わりだ。平成19年も終わりだ。来年から、2008年で、末広がりの8が付いているし、平成20年で、平成もやっと成人となる。
 昭和天皇が亡くなられた時、臼杵に家族旅行していた。テレビを付けると、崩御されていた。崩御という言葉も、この時、初めて知った。それから20年目と言うことになる。
 平成元年のその時には、既に、3人の子どもが生まれていた。家族5人でどこに行くのも大変で、子どもが早く大きくなってくれないかなあと思っていた。電車に乗っても、次女と長男が代わり交代にしばしばトイレに行って、家内が難儀していた。
 その3人目の一番下の息子も、既に22歳となり、それだけ自分が歳を取ってしまっている。
 来年の5月が59歳で、体力に不安を感じる歳にならざるを得なくなっている。もう、昔の様にがむしゃらに頑張れなくなっている。頑張れば、直ぐにダウンしてしまう体力になっている。
 それでも、まだ、年末・年始だけは、頑張ろうと思っている。
 1昨日は、小児科の患者さんが13名来た。昨日は、64名来たし、深夜に1歳の子がけいれん重積でICUに入院した。今日も、1歳の子どもが熱が下がらなくて(40度が5日目)、入院した。外来は、20名を越えた。1日、2日、3日は、どうかな?
 今年が昨年一昨年と違うところは、家内が病院の前のアパートに帰るといて、食事を作ってくれること。ウサギが昇天してくれたお陰で、いい思いをしているかな。



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川崎病・・・

2007-12-31 07:32:40 | Weblog
 日本人の川崎富作氏により、川崎病が発表され、多くの人の知る病名となった。しかし、今もって原因不明で、何故か、明らかに日本人に多い。
 昭和51年に大学を卒業して、医師になって2週間目の昭和51年6月14日に、5カ月の川崎病の女児を宮崎県病の研修医の時に受け持ち、無事に7月2日に退院させることが出来た。採血が難しくて難儀したこと、経過が良くて元気に退院してくれたこと、貧乏新婚生活で金銭面で苦労していた時に、退院時に高価なお肉をもらったこと、そんなことがあった為か、今でもしっかりとその症例を覚えている。
 宮医大の小児科が循環器を中心にしていたことで、その後、川崎病の症例を沢山集めて、統計を取っていた記憶があるが、それで何か原因が分かったかと言うと、今もって不明となっている。
 私の長女が川崎病になり、自分の勤務の病院の小児科の外来診察室の隣に入院させて、自分が診ていた。幸いに、元気に退院できて、29歳になった今、(カイロプラクターの男性と結婚し、彼の卒業した)アトランタの大学院に通って、カイロプラクター目指して頑張っている。
 郷里の佐伯に帰って、西田病院で、10年間に28名の川崎病を経験した。その多くは、紹介は殆どなく、初めからずっと診ていた。瘤が出来て、久留米大学に送ったケース(心カテ施行)が1例あった。心外膜炎になった例が1例あった。幸いに、死亡例亡く、再発もなかった。
 30例ほど、診てきて、自分の経験が正しいかどうか確信はもちろんないが、自分なりに経験を積むことが出来た。私が佐伯に帰ってから、個人的に大変お世話になった宮医大の小児科の先生がいるが、やはりその先生の子どもさんが川崎病になった。心外膜炎がひどくて、危機状態になって、外科的な手術までしている。彼と私が話した結論は、「強い抗生物質を処方してから、グッと悪くなった。セフェム系が一番悪い。」と言うこと。
 確かに、自分の経験から、セフェム系の抗生剤を与えると、症状が如実に出て来て、状態がグッと悪くなる。それを何度か経験して、川崎病と診断が付いた場合は、私が川崎病の子どもを治療する上で、自然とセフェム系を使わない様になってしまった。
 今の職場に来て、つい最近、外来で、中毒疹か溶連菌かどうかはっきりしなくて、ペニシリン系では美味しくないだろうからと思って、セフェム系を1日分上げて様子を見た4歳の男児がいた。で、急にグッと悪くなって、結果的には、川崎病だった(リンパ節腫大はないものの、それ以外の大症状が全てあり、心電図のPR延長や冠動脈の輝度の亢進はあるものの、冠動脈の瘤や拡張はない)。この子の場合、発熱4日目で、注腸で黄連解毒湯を使い始め、直ぐに解熱し、4日目のCRPが3.04で一番最高で、その後、発病6日目には、1.32、8日目には、0.67とまでになってしまった。
 今までに、川崎病で、黄連解毒湯の注腸で、ガンマーグロブリンの大量療法をしなくて、熱が下がってしまった例を他にも経験している。
 当院では、黄連解毒湯の座薬まで作っている。熱が高くて、興奮して、顔を真っ赤にして、手や足や体が熱くなっているケースだと、極めてよく効いている。アデノウイルスや髄膜炎や脳症疑いでも効果があると思えるが、川崎病では、最も効果があるのではと思っている。更には、インフルエンザ脳症にも効くのではとも思っている。
 川崎病の子どもは、例外なく、アレルギーがある。喘息持ちの子が多い。体質的なモノ、日本人独特の遺伝的なモノ、免疫が関与してと思われる。
 現在、日本では大量のガンマーグロブリンが使用されているが、それらは、多くの人の血液から作られたもの。血液製剤の使用により、川崎病の経過が良くなっていることは喜ばしいことと思われるが、日中友好の時代、是非、日本政府が中医学と接点を持って、川崎病にも漢方の光を当ててもらいたいと思っている。

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ストレス解消法

2007-12-31 07:28:16 | Weblog
 ストレス解消法とは、ストレスを溜め込まない、ストレスのはけ口を作る、ストレスになりそうなことから逃避するの3点だと思う。
 ストレスを溜め込まない方法とは、自分の考え方一つだと思う。過去も他人も変えられない。となると、今からの自分を変えるしかないと言う結論に達する。そう開き直ることである。生きること自体が、既にストレスにさらされているのだ。自分の器を大きく構えることが大切だと思う。変なことを言われても、相手が変な行動に出ていても、それはその人なりの個性と思って、寛容な精神で見て、カットならないことである。カッとなると、相手も不快に思うし、カッとなって自分にとっても、体にも良くない。別にそれで抹殺される訳ではないのだから。又、もしも他人から頼まれ事を受けても、それだけ自分が頼りにされていると考えて、ニコニコして受けるだけの心の広さが大切だと思う。
 ストレスのはけ口を作る方法には、人それぞれにいろんな方法があると思う。趣味に興じるのもいいだろうし、こんな感じでブログに記載する方法だってある。100キロ離れると、解放されるとの心理学者の意見もあるので、旅に出るのもいい方法だろう。気の合う者同士で話してもいいし、スポーツやショッピングや食べ歩きなんて方法もある。人間は、一番好きなモノが仕事でない方がいいらしい。2番目に好きなモノが仕事で、1番目はやはり趣味的なモノがいいらしい。
 てっとり早い方法は、ストレスから逃れることだが、多くの男性の場合、どうしても負け犬的に思って、何とか正面から立ち向かって解決しようとする。しかし、負けるが勝ちとの言葉もある。あまり目くじら立てるよりも、それから去ることも一応は考えてみよう。
 以上は、総論ですが、各論は、各人の年齢や性格やいる立場などで、自分なりに捜すしかない。くれぐれも、他人のせいにすることだけは、止めた方がいいと思います。

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今年の我が家のビッグニュース・・・

2007-12-30 08:50:37 | Weblog
 今年は、世の中、いろいろあった。まだまだ、来年も、いろんなことがありそうだ。
 身近な我が家のビッグニュースは何だろうかと考えてみたら、やはり、私の10月22日(月)~11月5日(月)までの入院・手術が1番で、2番が、11年半生きたウサギ(アズキ)の昇天だったと思う。3番目は、年賀状(140枚)を手書きで全て書いたことかな。
 3人の子ども達は、それぞれ、子どもなりの生き方をしている。子どもは子どもだし、それでいいと思っている。で、親は親だし、私達もそれなりに生きて行くつもりでいる。幸いに親のお金や財産(自宅の家と土地のみ)を子ども達は当てにしていない様なので、親の稼いで残ったお金を老後の為にきれいサッパリと使わせてもらうつもりだ。
 細く長く生きた方がいいのか、太く短く生きた方がいいのか、いろいろ考えた結果は、今の調子での仕事は、再来年3月までと決めたし、それをはっきりと周囲にも公言している。で、その先は、自分の健康状態にもよるが、セーブしながら細々と仕事をすることにしている。
 その年齢年齢で、出来ることが違う。後になっても出来ることは、後でもいいのだ。海外での日本文化紹介(盆踊り和太鼓など)も、体力的に60代しか出来ないと思っている。
 視力が落ちていて、もう、自動車免許更新はしないつもりだ(左がよく見えない)。血圧のコントロールと体重のコントロールを上手にしていかないといけないと思っている。元々高血圧の家系だし、30代の初めから高血圧があったので、どっちみちそれで亡くなるかなあと半分諦めてはいるが・・・。
 取り敢えず、今年は幸いに深刻な悩みはなく、年を越えることが出来る。来年も、そうありたいと思う。
 12月29日~1月4日まで、仕事を精力的に続けられる今の姿に感謝している。


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為になるかも知れない本(その243)

2007-12-30 08:46:48 | Weblog
○昭和60年9月19日(木)。
 英会話中断、ハングル中断、勉強中断、月報の原稿は毎月書く、学会には演題必ず出す、運動は毎日するって感じになっているかなあ?この先、この病院は、どうなるのかなあ?患者さんがどんどん増えている。しかし、小児科は逆になるはず。子どもがどんどん減っている。今年の小児科の売り上げ、3億切って2億8千万ぐらいかなあ。
○昭和60年9月24日(火)晴。
 180人近く診た。連休明けの健診ありの日だから、そんなに多いとは思わない。
○昭和60年9月30日(月)晴。
 (腹痛で救急で学童の女児が来院し、下腹部凸で、膀胱に尿が溜まっていると思ったが、違っている感じで、外科の○田先生に診てもらったら、卵巣腫瘍だろうと言うことになって手術して)やはり、卵巣腫瘍の茎捻転症だった。睾丸(精巣)の茎捻転症もあったし、ここに長くいると、いろんな症例が経験出来るなあ。
○昭和60年10月2日(水)晴。
 久し振りにゆっくりした感じだ。(大分医大助教授の)○○先生が来て、二人気になる人を診てもらった(クレチン症の疑いあり)。1週間に1回、午後必ず休めると言うのは、自分にとってはとても価値あるモノ。昔と比べると、楽してるなあ。前は、全く休みがなかった。又、医大の医師と気軽に相談できることも、助かるなあ。
○昭和60年10月5日(土)雨。
 前置胎盤で、1300gのRDSの子が生まれた。直ぐにBP-200に付けた。
○昭和60年10月7日(月)雨。
 130人前後来た。泊まり込んだ。朝6時から、帝切で双子が生まれた。忙しかった。
○昭和60年10月10日(木)晴。
 午前6時まで、医大の先生から診てもらった。祝日なのに、30人程来た。忙しかった。
○昭和60年10月8日(金)雨。
 昨日休みだったので、170人程来た。

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為になるかも知れない本(その242)

2007-12-29 08:29:57 | Weblog
○昭和60年8月20日(火)晴。
 120人程来た。PAP(異型肺炎)が多くなっている感じだ。体重73.5Kg、今度の子どもが生まれるまでに70Kg前後になってみたいものだ。67Kgが夢だなあ(現在、66Kg台になっている、この体重まで落とすのに、20年以上も要しましたが)。歯の調子も、悪いなあ(インプラントを入れるまで、ずっと歯でも悩んでいた)。
○昭和60年8月23日(金)晴。
 (2日間の西日本喘息研究会に出席の為)16:04の電車に乗って小倉まで行き、そこで新幹線に乗り換えて博多まで行った。
○昭和60年8月24日(土)晴。
 懇親会後の2次会は、例の如くのラウンジに行って、多くの人と話して、いろんな情報を得て有意義だった。
○昭和60年8月25日(日)晴。
 2日目だった。15時まであって、それが終わって直ぐに博多駅に行って帰った。大分の○谷先生と一緒になった。この先生から、昨日、「よく頑張るなあ、皆、感心しているよ・・・」と言ってもらえた。学会に、宮崎の開業医の○元先生も○阪先生も来ていた。○元先生、「借金がなかったら、お金貯まるんだがなあ・・・」と言っていた。○島君も、開業したいらしい。小児科開業医が多くなるなあ。
○昭和60年9月3日(火)晴。
 80人も来なかった。ヒマ。外科は、手術が多くて、外来も昨日と今日は、100人を越したとか。産婦人科も多い。ベビーが30人近くになろうとしている。内科も整形も多い。この時期、小児科と脳外科が少ないなあ。
○昭和60年9月14日(土)晴。
 ベッドがどこもほぼ満床。小児科だけ、ゆっくりしている感じだ。左の目と肩が痛かったが、少し良くなった。理事長亡き後、少しゴタゴタしている感じだが、事務長がしっかりしているので、何とかなるだろう。院長は、僕には、とても低姿勢だ。この病院、忙しいけど、仕事はし易いなあ。
○昭和60年9月16日(祝)晴。
 午後忙しく働いた。夜もひどいのが多くて、0:00過ぎにやっと帰れた。30人以上いたなあ。喘息が多い。どこも診ていないのかなあ。
○昭和60年9月17日(火)晴。
 連休明けのせいか、午前中に120人診て、午後50人来た。5人入院した。朝、7:40から病棟を回診し、12:30に外来を終え、食事もバッチリ摂り、月報の原稿も出した。時間の使い方が正にプロ級になっていると思う。


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年末年始・・・

2007-12-28 16:18:23 | Weblog
 12月31日に、テレビで紅白歌合戦を見るのが楽しみだった。年末年始の特別番組を楽しみに見ていた。しかし、この歳になると、少し考えが変わっている。格闘技番組を持ってきたり、紅組と白組が勝敗にこだわって歌っていたりするよりも、世界をリードすべき経済大国日本にもっとふさわしい品のある内容の番組にしてはどうかと思う。今の姿、何か、今の時代にふさわしくない内容になっているのではと思う様になっている。
 未来につながる番組、それは、子ども、それに人間と調和すべき生き物や自然などを大きく取り上げて、それを特別年末年始番組のメインにした方がいいのではないかと思う様になっている。
 例えば、子どもの芸能大会にしたり、世界アチコチから特殊な才能のある子どもを紹介する。北朝鮮やイランやパキスタンからの子どもも招待したらどうであろうか。そのことが世界平和にも通じるかも知れない。各県ごとに予選を勝ち抜いてきた子どもチームでの披露や、個人プレーや団体プレーなど、多種多様ですることもいいと思う。
 例えば、和太鼓を例に取ると、どんなに上手なプロでも、小さな子どもの和太鼓演奏にはかなわない。何度も、慰問で、お年寄りが子どもが打つのを見て涙ぐんでいる姿を見てきている。
 子どもは未来。動物から学ぶことも多い。宇宙から学ぶことも多い。
 今のままの年末年始の番組、ホント、変えて欲しいなあ・・・


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為になるかも知れない本(その241)

2007-12-28 07:22:08 | Weblog
○昭和60年7月28日(日)
 小児科学会があった。新生児の演題の座長を40分間して、最後に演題(奇形症候群10例)を話した、つまり、1時間程、壇上にいた。8つも質問があった。中津の○井先生、県病の○保先生、それに、西田の田原が一番頑張っているかなあって感じに思えたが・・・。
○昭和60年7月29日(月)晴。
 130人程来た。昨日の学会でも、患者さんが少ないことを嘆いた先生が多かった。今、どこも本当に少ないんだなあ。それでも、これだけあると言うことは、いい方なのだなあ。
○昭和60年8月3日(土)晴。
 夜10人近く来た。土曜の夜はどこも診ていない感じだ。昼間は、90人程来たのかなあ。朝、血便が出た。夕方には、なかった。疲れた時は、お腹の調子が悪い。人間って、ちょっとしたことで元気になったりそうでなかったりするなあ。体力第一だなあ。
○昭和60年8月6日(火)晴。
 午後の(院内の乳児)健診(毎週、火曜の午後にしている)に40人以上来た。付き添いを入れると、スゴイ混雑だ。それを15時半過ぎには、何とか終えた(内科の待合室のイスまでずっと占領していることがあり、ある時、眼底検査をしてもらう為に来てもらっている開業医の眼科の先生が、何事ですかなんて言っていたが・・・)。その内、50人を突破しそうな雰囲気だなあ。
○昭和60年8月7日(水)晴。
 ミーコ(長女)と一緒に、自転車で津井まで行った。着いてから、そこで30分程、泳いだ。途中で、自分の住んでいたヒルホシ(西上浦小学校に行くのに、一番遠い地域で、歩いて1時間近くも掛かっていて、隣の○田君といつも一緒に行っていた)に寄り道して、○田憲二君の所に行った。おばんさんが独りで住んでいた。(NHKの歌のコンクールで、自分は不合格だったが、○田君は合格して、ラジオで声が流れた)憲二君は、来年の夏には帰ると言っていた。帰りに雨が降り出したので、ミーコだけタクシーで帰した。ぶっとばかして、何と、ノンストップって感じで、津井から49分間で、家に着いた。自分もいざと言う時には、かなりスタミナがあるんだなあと思った。○寺先生が、運動不足解消の為に急にゴルフをして靱帯を損傷してしまって、診療が出来なくなっているとのこと。大変だあ。
○昭和60年8月13日(火)晴。
 (日航機墜落事故で)4人生存していた。その中でも、川上と言う12歳の女の娘、一番軽くて済んだ様だ。スゴイ強運の持ち主だなあ。正に、奇跡だなあ。里帰りの人が多い。佐伯の○○汽船が倒産した。(夏の高校野球で)津久見が5対1で勝った。ピッチャーがいい。このままだとベスト8に残れそうだなあ。野球はピッチャー、病院はドクターかなあ。
○昭和60年8月19日(月)晴。
 9月29日の宮崎地方会の演題を出した。又、9月1日の大分地方会にも行くことにした。宮医大の先生達から土曜日に来てもらう日を書いて改めて○井先生に送った。○井先生、病棟医長になってこちらにあまり来れなくなってしまった。鹿大は、今年○人も入局したとか。このままだと、どこも医局員で一杯になるはずなのだが。


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インフルエンザ治療・・・

2007-12-27 08:36:12 | Weblog
 インフルエンザに罹患した場合、10代の場合、タミフルが使用できなくなった。しかし、とても状態が悪い場合や受験前でどうしても早く症状をとりたい場合は、どうなのだろうか?
 日本では、ちょっとインフルエンザの疑いがある場合も、全て、インフルエンザの検査をしないといけない風潮に思える。新聞やマスコミ報道でも、早めに医療機関へ受診をと書かれている。世界のタミフルの7割もを日本人が使っている現実、これはがまともな医療の姿なのだろうか?
 日本に明らかに多いインフルエンザによる急性脳症、以前、ライ症候群がアスピリンで起きるかどうか、大問題になっていた。で、日本では、関係ないとなっていて、多くの小児科医が使用していた。私が医師になりたての頃は、解熱剤としてはアスピリンが一番安心で、それも、バイエルのアスピリンがいい何て、上の人から教育を受けていた。
 しかし、アメリカで、ライ症候群とアスピリンの関係が突き止められて、アスピリンがインフルエンザで使用されなくなり、ライ症候群が激減し、日本も使用禁止となった(水痘も)。
 又、ボルタレンなる解熱剤が頻繁に使用されていたが、これも、危ないと言うことで、普通の上気道感染にも使用できなくなった(禁止になってまだ数年しか経っていないが)。
 結局、アセトアミノフェン(商品名では、カロナールやアルピニー)が残り、それが頻繁に使用されている。アセトアミノフェンは、痛み止めでも使用され、体重や年齢に応じて、その量が決められることが多いと思われる。
 小児科では、解熱剤と抗生物質での副作用の問題が一番多い。安易に使用されていることも、その理由の一つかも知れない。それに、日本人独特の体質(遺伝子)も、関係しているかも知れない。
 本来、発熱は、人間の防衛反応であり、その多くはウイルスによるもので、自然治癒するもの、その原則を忘れてはいけないと思う。東洋医学の立場では、熱を上げて治そうとしている時に、強引に熱を下げるのは、最も良くないこととされている・・・。
 私は、鼻水や咳があった場合、(アレルギー性鼻炎や蕁麻疹などは別として)ペリアクチンなどの抗ヒスタミン剤(鼻水止め)や咳止めの薬を処方しない。下痢しても、整腸剤は処方しても、下痢止めは、ウイルスの場合も、与えない。(漢方薬はしばしばあげているが)
 ある母親から、「先生、私の子ども、しばしば風邪を引いて、細菌がよくついていました。で、抗生物質を飲まなくなったら、それがなくなりました・・・」と言われた。又、ある母親からは、「一度抗生物質を飲むと、ずっと病院通いになっている感じですが・・・」とも言われた。又、別のある母親からは、「薬を(他医院でもらってから)、かえって痰を引っかける感じの咳になった」とも言われた。(これと似た事例を山程経験しています)
 私自身は、タミフルの問題よりも、乳児の鼻汁や咳嗽での、ペリアクチン+アスベリンの処方の問題の方が、タミフルの問題よりも遙かに大きな問題だと思っている?!
 ペリアクチンは、添付文書には、喘息の発作には禁忌とまで書かれている。と言うことは、喘息とはっきりと診断できない状態で、それを安易に与えるべきではないと思っている。特に気道の狭い乳幼児では、慎重にするべきだと思っている。
 今までに、ペリアクチン+アスベリンを処方後に、痰がからんで呼吸困難で入院した細気管支炎の子ども、沢山経験している。

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忘年会・・・

2007-12-26 09:50:30 | Weblog
 12月25日の18時から、看護学校の講堂で、恒例の病院のクリスマス忘年会があった。
 19時から出し物があり、(昨年同様に)一番初めに、私が篠笛で、「聖この夜」と「ジングルベル」を演奏し、和太鼓を打ち、その後、いつも仕事を一緒に外来でしている人の(氷川きよしの唄での)踊りに合わせて、太鼓を打った。
 いろんな出し物があって、最後に、福引きがあった。昨年は、全く当たらなかった。5000円の福引き5本を自分が選ぶことになって、何と、初めに引いたのが不思議なことに自分であった(が、キャンセルしたが)。
 忘年会の思い出、いろいろある。県病や大学では、子どもの為に、手品をいつもしていた。西田病院では、よく歌っていた。今は、いつも、篠笛・和太鼓演奏になっている。
 今年も、もう、終わりだ。昨日、インフルエンザA型が3人来た。、来年、又、歳を取るのだなあ・・・。

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