日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その103)

2007-05-31 07:00:07 | Weblog
 大学では、勉強の仕方は、高校とは全く違う。高校(や予備校)では、学校から与えられたものを(徹底的に予習して、その後、復習もして、その都度)確実に一つずつものにして行きさえすればよく、それで受験勉強としてはある程度、事足りる場合が多いと思う。しかし、大学では、小学校や中学校の様に(更には、高校の様に)手取り足取りしてくれる訳ではなく、足りない所を自分で考えて自分なりにそれを補って行くしかない。つまり、大学では、自分で問題を作り、自分でそれを解いて行く能力が必要とされる。常に問題意識を持ち、自分の頭で考え、自分なりに学生生活を送る所、それが大学なのである。
 高校の先生の様に非常にわかり易く上手に教えることの出来る先生は、少ない。こちらの理解度を無視して、講師ペ一スで講義が進められて行くのが、今の大学の現実の姿である(もちろん、大学でも、予習と復習が必要)。
 朝は、誰も起こしてくれないし、夜、何時に寝ようが、誰も何も言わない。講義に出席してもしなくても、又、出席していても講義中に他の本を読んでいようが寝ていようが途中で抜け出そうが、更には、代弁を頼むことさえも、各人の勝っ手である(大学生を大人と見ている為)。
 特に教養部では、今までの受験戦争の後だけに、寝たっきり大学生になったり、無欲・無気力学生になりやすい。常に自分自身の姿を客観的に省みて、自分自身を見失わないことが大切である。サ一クルに入ること、いろんな人を知ること、いろんなタイプの人と話すこと、いろんなジャンルの本を読むこと、そして、基本的生活習慣を崩さないことが大切なことと思われる。
 私の卒業した大学の教養部のある教官は、次の様に言われた、「高校でがんじがらめに勉強ばかりしてきているものだから、どうしても大学で遊ぶことになる。高校でも、それなりに遊ぶ様にして欲しい(よく遊びよく学べの意味)」と。又、別の教官は、「大学に入学しても高校の様に、バシバシ試験をして、成績順に常に張り出して、競争させれば、少しは、勉強するのだろうが」と。更には、次の様に言われた教官もいた、「あそこの予備校に行けばいくらもらえるとか、大学の教官が低次元のことを言っている。大学生の質が低下しているが、教官も同じだ。もはや、本当の大学は存在してないと思えば、気が楽だ」と。
 理想的には、大学を卒業するまでに、自分の頭で考え、自分で正しく判断が出来て、しかも、社会人として、責任を持って行動出来る人間に進化しておくべきであろう。大学を卒業して立派な社会人になっているはずなのに、勉強しようとしなくなってしまった人の多くは、恐らく、大学生時代に、間違った勉強の仕方を身に付けてしまった結果ではないかと思われる。知識よりも、よい習慣を大学生時代にしっかりと身に付けておくことが大切な気がしている。

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為になるかも知れない本(その102)

2007-05-30 07:40:55 | Weblog
  医学部での大学生活の過ごし方(続・為になるかも知れない本より)

 「大学とは、何を学ぶかを学ぶところである」とは、ベルリン大学のフンボルト教授の有名な言葉である。ハ一バ一ド大学のロバ一ト・アンダ一ソン教授も、次の様に言われる、「いかにすぐれた大学といえども、そこで学ぶことは、その後の人生において学ぶことの一割にも満たない」と。長い人生の過程に於いて、大学で学んだことを、今後の人生に於いてどの様に位置づけるかは、その人自身が大学でどの様に過ごしたかにかかっていると思う。
 実際、各大学では、どんな学生に入学してもらいたいのだろうか。医学部の場合は、各大学が共通して医者の卵として望ましいとする第一は、「心身共に健康であること」であり、第二は、「バランス感覚のある人間であること」であり、第三には、「旺盛な科学的探求心と自主的学習意欲並びに創造力に富むこと」、第四には、「奉仕性精神を持っていること」となっている。
 逆に来て欲しくない学生像は、「受験戦争の中で長年疲れ果て、自らの人生に新しい展開を求めようとしない人」(愛媛大学)、「単に偏差値が高いだけの理由で医学部を選択する人」(金沢大学)となっている。
 「自分の一生を医学に捧げるんだという強い意志からでなく、成績がいいから医学部へ行こうとする学生がいる。入試に合格すれば、大学が尻を叩いてなんとか卒業させてくれるだろう、と漫然と考えて入学してくる学生は困る」(久留米大学)、「従来ややもすると医師になれば生活の安定を得ることができるというような安易な気持ちで入学してきたような学生にとっては、脱落の道しかないであろう」(新潟大学)、「頭がいくら良くても、あんまり変わった人は来てほしくない」「京都大学)などと、手厳しい。
 医学部の場合、人の命を扱い、しかも身も心も病んだ人間を相手にするのであるからして、臨床医たるものは、一般常識はもちろん、幅広い知識と高い教養の上に高度の医学的知識と判断力を持ち、人の痛みがよくわかる感性の高い人間味あふれる人柄であるべきである。事実、患者さんの中には、医師以上に教養があり、人生経験豊富な人は、たくさんいるのである。多くの医学生は、理数に強い人が多いが、臨床医学では、人間を相手とした全人的科学というものに対する考え方が大切である。




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為になるかも知れない本(その101)

2007-05-30 07:26:01 | Weblog
○昭和51年4月30日(金)晴。
 お袋さんのケガ、不幸中の幸いって感じで、自転車で横断する時に、自転車の後ろを車でやられていた(こう言った場合は、車が全面的に負けになるらしい)。メガネが何処かに行き、靴も片方が何処かに行って、行方不明になっていた。後遺症が心配だ(母は、退院後、しばらくして肝炎になり、再び入院することになってしまった)。人間って、この先、どうなるのか分からないなあ。
○昭和51年5月1日(土)晴。
 父の忠告に反して、河内の公民館で高血圧の話をした。自分でもまあまあ上手に話せたと思った。30人ちょっと集まった(始まる時は、オラの村に、初めて医者が誕生したって感じで、マイクで言われていた。事実、私の知る限りでは、今でも、河内から医師になったのは、自分だけ)。(忙しい時期でもあったのか、その後、どんどん減って、5月5日の「ガン」の話の時には、10人もいなかった)
○昭和51年5月6日(木)晴。
 熱が38度3分もあった。カゼできつい上に、父から、「やはり、集まらなかっただろ」と言われ、そう言われたことで更に落ち込んだ。しかし、これも貴重な人生経験だと思った。講演とは、自分から進んでするべきものではないということを。
○昭和51年5月11日(火)晴。
 宮崎に帰った。この家で今から住んで行くのだなあ。4畳半一つに、後は、台所と風呂とトイレが一緒になった感じの居間があるだけ。20日の国家試験の発表、気になるなあ。マ一クシ一ト方式なので、解答する時に段を一つ間違えていない様に祈るばかりだ。
○昭和51年5月19日(水)雨。
 夜8時頃、大分合同新聞社に電話したら、自分の名前がないとのこと。直ぐに南日本新聞社に電話したら、間違いなく合格しているとのこと。この間、とても長く感じられ、新妻の顔をまともに見られなかった。万歳!万歳!
○昭和51年5月20日(木)雨。
 鹿児島のあちこちから南日本新聞に載っているということで電話があった。自己採点では、クラスの半分近くの人が6割取っていなかったが、実際は、鹿大は、80.8%になっていた。C問題で6割取っていれば、大丈夫だったみたいだ。(同じ旅館で受験した同級生は、全員合格)県病で一緒に研修する先成(せんなり)君も、合格していた。

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誕生日雑感

2007-05-29 08:35:08 | Weblog
 昨日は、(喘息大発作の子どもが夕方入院して)帰ったのは、23時半だった。で、今日も、朝5時過ぎに、入院の親御さんから依頼があって、診察した。昨日は、1年に1回の誕生日だったが、全くゆっくりする暇はなかった感じだ。「まだ、その歳では、働けるはずだから、誕生日には、それを」って感じで、仕事をもらった感じ。
 昔は、萬年睡眠不足で、本当に、話す元気もなかった。特に、一人で大分県の県南の子ども達を(新生児医療を中心にして)背負っていた感じの時には(20年以上前、県南に、開業医の先生が体を壊されて休まれて、小児科専門医が自分しかいなかった時があった)。今は、拘束時間はそれなりに多いけど、暇な時は、このブログを書いている様に、ヒマ。
 隣に座っていた大学の先生(大学に帰られたが)が言っていた、「大学では、夕方6時前に帰ったことなかったです。自分が自由に使える時間なんて、考えたこともなかった。上の人の言われれるままに、何も考えずに、仕事ばかりしていました。自分の時間なんて、全くないに等しく、たまに暇な時は、飲み方の誘いで、それで、深夜遅くまで付き合わされて、翌日、きつい思いをしていました。ここは、自分で、朝来る時間を決め、帰る時間も、適当に決めている感じで、全く自分のペースで働いている感じ。大学では、信じられないですよ。」と。
 又、ある先生が言っていた、「ここでは、何もないから、生活が真面目になりますね。遊ぶところもないし、飲むところもないし。」と。
 若い人には退屈でしょうが、団塊の世代には、いい職場に違いない。後は、まとまった休暇をもらえれば、文句ないのだがなあ・・・。

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為になるかも知れない本(その100)

2007-05-29 07:14:55 | Weblog
○昭和51年4月23日(金)
 宮崎に帰った。自動車免許証の住所変更のことで警察所に行くと、写真が必要とのこと。市役所に行くと、婚姻届は証人2人が必要で、その印鑑も必要とのこと。だいたい、自分には、一般常識というものがない。電話がまだ付いていない。火災保険に入るべきか?
○昭和51年4月25日(日)曇。
 部屋が95%近く片付いた。静かだなあ。電話も幸いにもう付いた。学生の時と違って、風呂も、ちゃんと付いている。今までと比べると、とても恵まれているって感じだ。全く違うことは、女性と一緒に生活をして行くということだ。もう、家まで見送らなくてもいい。本当に、自分は結婚したのかなあ。何か、信じられない感じだ。市役所に婚姻届を出せば、少しは、実感するのかなあ。安くて美味しいギョウザの店を見つけたぞ。
○昭和51年4月28日(水)雨。
 (昨日、再び佐伯に帰った) 自分の里の河内(ごうちと読み、医師になったのは、今でも、自分だけ)で、高血圧・心臓病・カゼに付いて話すことにした。(あちこと講演して回っている)父から、「しても集まらんから、しない方がいい」と言われた。しかし、自分としては、多くても少なくても、数に関係なく、する気でいた。河内に着いた時、母が交通事故にあって、骨折し救急車で西田に運ばれたとの電話があった。

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誕生日

2007-05-28 08:34:49 | Weblog
 今日は、58歳の誕生日。60歳まで、あと2年しかない。 
 昨日の早朝、紹介で来院した4歳の喘息発作の子、ICUで管理していたが(大発作の為、昨日は、10回前後、足を運んで診ていた)、今朝は、かなり元気になって、ICUを出ることになった。
 朝、7時半から、運営会議があった。自治体病院、まず、採算ありきって感じになりつつあるなあ。これでホントにいいのかなあ。個人病院では、もっと大変だろなあ。
 今朝の朝日新聞に、自分のことが載っていた。

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070528/2


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為になるかも知れない話(その99)

2007-05-28 07:24:37 | Weblog
○昭和51年4月17日(土)曇。
 宮崎神宮に行って服を合わせ(結婚式の為の)、駅に行って出迎え、ニュ一高千穂(ここで田原家が全員集まって宿泊した)に行って、母の手作りの昼食を摂り、昼過ぎ(13:30)に早川先生(仲人)の所に行き、その後、(二学年下の)太田君(後輩、結婚式の時の司会者)を迎えに行った。明日は自分の結婚式というのにゼンゼンピ一ンとこない。今から、新たな気持ちで、自分を作って行かなくてはいけない。今までのは基礎だなあ。取り敢えず、実力のある医者になる為に、計画的に、急がず、休まず、一歩一歩確実に、マイペ一スで、余裕を持って、オ一ルラウンドに腕を磨いていくしかない。まとめること、そして、自分なりの体系を作ることだなあ。
○昭和51年4月18日(日)曇。
 結婚式の日であったが、父の誕生日の日でもあった。素晴らしかったなあ。一人一人真心が感じられた。終わりの方で、自分の得意な手品をし、お礼を言った。しかし、これからが失敗続きだった。最後に皆に見送られてタクシ一で行くのだろうと思っていたのに、タクシ一が来ていなくて、トボトボ歩いて自分のアパ一トに行った。後で聞いたら、皆で見送ろうとしたのに、自分等二人の姿が既にどこにも見当たらないので、今の若い者はせっかちだなあと話して皆で笑ったとのこと。家に帰って、カギを持っていないことに初めて気が付いて、タクシ一で不動産屋に行ってもらい、その足で市役所に行ったら、日曜なので人の姿がなく、仕方なく婚姻届をしないで(その後、1カ月して、届けを出した)、電車も急行でなく、普通の電車に乗った。座る所がなくて、二人とも立ってしまった。高千穂に行くつもりが、家でちょっと前に飲んだトラベルミンの催眠作用がアルコ一ルによって増強されて、あまりにも眠たい為に、延岡で降りた。行き当たりばったりって感じで、きたないビジネスホテルに宿を取って、そのまま寝込んでしまった。起きると夜の10時を過ぎていて、その為にか、お湯が出なくて、風呂仁も入れなかった。この先、どんなハプニングが起きるのかと思うと、少し不安になってきた。
○昭和51年4月19日(月)晴。
 臼杵に行って、初めて石仏を見た。すごくいいホテルに泊まった。・・・?!
○昭和51年4月20日(火)晴。
 ストがあっていた。バスで鍾乳洞に行った。そして、佐伯に帰った。失敗談が父母へのおみやげになった。
○昭和51年4月21日(水)雨。
 あちこち挨拶して回った。河内の○木家に行くと、いとこの二人がヨ一ロッパに1年ちょっと行って帰ってきたところで、英語ペラペラになっていた、二人が早口で英語でスラスラ言うのを聞いて、自分は一体大学で何をしてきたのかと思い、自己嫌悪に陥った。
コメント (1)
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試験雑感

2007-05-27 14:05:58 | Weblog
試験って、どういう意味合いを持つものだろうか?
 高校3年生の多くが受ける大学入試の試験、定年前の団塊の世代がそれを解こうとしても、解けないし、又、解く気にもならない。
 大学での試験にしても、何かすっきりしない。教官が教えた所が主に出題される。その教官の研究テーマや興味のある所が沢山講義で話され、それが主体に出題される。教官が出題した問題の質に付いての議論は、殆どない。つまり、教官の教師としてのチェックが日本の場合は、殆どない(研究が中心だから)。欧米だと、とても厳しい。教官は、最後に、生徒からチェックを受ける(私が受けたトロント大学でも、そうだった)。チェックの結果が良くなければ、次の年には、教えることからはずされる運命にある。
 アメリカのカイロプラクタ一の学校に行っている娘の話だと、在学4年間の間に、4回も国家試験があり、1回目は、1年半目に、基礎医学の生理学や生化学や解剖の試験が、これが大変らしい。そして、2回目と3回目は、臨床の試験で、筆記試験だけ、最後に、カイロプラクタ一として最も大事な臨床の筆記と実技試験がある。後は、卒業して、実地を本格的にして一人前になれるとのこと。アメリカの様に、学校での講義、即、国家試験の成績に結びつく様なものであるべきだ。国家試験の問題は、娘の話だと、ちゃんと学校の講義を聴いていれば、大丈夫とのこと。
 日本の医師の場合は、医師国家試験が1回だけ、それも、臨床の筆記試験だけで、実技はない。しかも、その問題、厚生労働省の思惑通りで、落とす為の試験の要素が強く、それなりに受験勉強をかなりしていないと、かなり要領のいい受験秀才でも、合格しない。ある地方の新設の国立大学卒の人が言っていた、「もう、大学、国家試験の為の予備校って感じでしたよ」と。国立でもこんな感じの所があるぐらいなのだから、私立では、尚更であろう。
 大学の医学部での試験のあり方もおかしいが、医師国家試験のあり方も、絶対におかしいと私は思っている。土台、医師国家試験で、何%取れば合格になるのかさえ、自分の受けた時は、全く不明だった(今もそうかな?)。
 フランスの場合は、1週間程、口頭試問中心の国家試験がある様だが。日本では、ヒポクラテスの誓いに似た様なことを言わせることもない。入学した時は、患者さんの為にと思って入学した人が大部分でしょうが、実態を知ってしまうと、どうしても、訴訟が多かったり、休みが取れなかったり、重労働だったり、給料が安い所、更には、へき地医療、救急医療などは、避けたい気持ちになるのも頷ける(もちろん、行政の問題や、個人の問題や、いろんな問題が確かにありますが)。単なる試験では、どうしても判定できないものの方が(発想力や総合力ややる気や協調性や謙虚さなど)沢山あると思います。

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為になるかも知れない本(その98)

2007-05-27 08:12:05 | Weblog
○昭和51年4月11日(日)曇。
 よく眠り、さほど上がることなく二日目を無事終えた。何人もが、秋頑張るぞと言っていた(充分に国試の試験勉強をしてない人が多かったが、秋もあったので、落ちても気が楽だった。自分の場合、公衆衛生学が一番出来なかった。国民衛生の動向の本をちゃんとしてなくて受けてしまった。国試の夢は、見たことみないが、大学入試の夢は、以前よりも回数は明らかに少なくなってはいるが、今でも見る)。熊本駅で、大学入試のことが書かれている週刊誌を三冊買って読んだ。今は、自分が受けた時よりも医学部に入るのが難しくなっている様だ。自分の場合、数学がたまたま例年と違って難しくて(それで、他人と差をつけることが出来て)合格したに過ぎない。入学すれば、皆同じ。後は、自分の努力次第なのに。
 修猷学館のこともバッチリ載っていた。その内容とは、修猷館の卒業生(修猷学館にいる修猷館卒の浪人生)までも、修猷館の現役の先生が親身になって面倒を見ているといった批判めいた内容である(当時、修猷館だけでなく、福岡県の有名な県立の進学高校の多くが、そんな感じでの予備校を持っていた。今は、ないのでは?)。しかし、私が知る限りでは、事実は全く反対で、父兄からもっと授業時間数を増やして補習ももっとして、ビシビシ鍛えて欲しいとの要望が強いのである。しかし、それを伝統的に頑固として受け入れない素晴らしい高校、それが修猷館なのである。その為か、修猷館卒の人は、実に豪快で、明るく、人なつっこく、それでいて、個性的な人が多い。

B問題 9時30分~11時40分(1~100)
1~20 小児科
21~40 精神科
41~80 外 科
81~100 整形外科
C問題 13時00分~16時00分(1~60)
1~25 内 科
26~40 外 科
41~50 産婦人科
51~60 小児科

○昭和51年4月12日(月)曇。
 帰って答え合わせをした。B問題の73~100の28問中に、「e上記a~d以外」を選択肢として選ばせる問題が、何と14もあった。Cの臨床問題では、1~40の内科・外科の問題に、「e上記a~d以外」を選択肢として選ばせる問題が、何と14もあった。つまり、全部の内容を知っていないと、正解が選べないということになる(そんな選び方をさせている問題なんて、何か合格率を落とす為になっているとも思える?)。小児科の問題は、30問中、私は7つ間違えていた。(どんなに厳しく採点しても、65%以上、70%近く取っていた)
○昭和51年4月13日(火)雨。
 学校に行って、矢野・佐野・本山・太田・植松君などに、国家試験の為の本や問題集をあげた。
○昭和51年4月14日(水)雨。
 今日、○が東京に出発するとのことで、○岡○と一緒に見送りに行こうと思っていたら、○は飛行機で既に朝早く飛び立っていた。
○昭和51年4月15日(木)晴。
 この日、鹿児島を巣立った。その前に、下の家主のおばさんと話した。僕の「為になるかも知れない本」を読んでくれていて、「苦労されてるんですねえ、受験の所を読んで涙が出ましたわあ」と言ってくれた。ス一パ一マ一ケットのコロッケ売り場のおばさん(よく、ここでコロッケを買っていた)とも少し話した。結婚をもうすぐすると言ったら、「いつ、どこで、どんな人と、どんな風にして・・・」と聞いてきて、ビックリしていた。
 再び鹿児島に来るのはいつの日か。素晴らしき鹿児島での6カ年間の大学生活。全く悔いなく過ごせた、自信を持ってそう言える。鹿児島よ、そして、お世話になった多くの人、ありがとう、さようなら。(この日、宮崎へ移動する)


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朝、朝日新聞社から電話が掛かって来ました。

2007-05-26 12:01:16 | Weblog
  平成19年5月26日(土)11時頃、朝日新聞社から電話が掛かって来た。「声」の欄に、私が投稿した文を載せたいのですが、少し長かったので、省略しているので、それでいいかどうかチェックして下さいとのことで、記載される内容が電話越しに向こうの声で読まれた。
 掲載される日は、5月28日(月)の朝刊(地域は、不明、九州のみ?)。
 

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