日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

外国語会話習得雑感

2008-07-31 09:05:55 | Weblog
 どうしたら、英会話が上手く出来る様になれるのか?多くの人は、いろんな方法で試みていると思う。今では、入試にもあるので、それなりに、学校側もしていると思われるが、どうも、している割には、能率が上がっていない様である。最悪な場合には、英語嫌いを増やし、更には、外国語アレルギ一の日本人をどんどん増やしている。ある英語パパを持った息子が言っていた、「あまり父親から、小さい時から、英語を強制されたので、今では、英語と聞いただけで頭が痛くなる」と。
 語学の勉強の場合、まず、4つの要素がある。聞く、話す、読む、書くである。この中で、学校では、主に、読むことと書くことに重点が置かれている。多くの日本の中高学校で、英語の発音が良くて、外国の人とナチュラルに話せる人、極めて少ない。そんな日本人から教わるものは、読むことと書くことが主体であり、聞くことと話すことまでも要求する方がおかしい。
 確かに、日本人の読んだり書いたりする力は、素晴らしい。アメリカ人でも、スペルは、簡単な単語でも、しばしば間違えている。私の長兄は、進学高校の英語の先生だったが、私の長女が言うのに、私の兄の英語(英語で書いた文章)は、完璧な英語だと絶賛し、アメリカ人でも、あんな立派な文章を書ける人は、まずいないと言う。
 秀才が集まった(らしい、受験秀才もいるのだが)医学部でも、我がクラスに、英語の発音のいいって感じの人、わずか一人しかいなかった。
 実際に、外国に行って、まず、困るのは、聞く力と話す力である。これ、子どもだと、直ぐに習得できるのだが、大人だとそれも、歳が行っていればいる程、難しくなる。それでも、現地に3年いれば、何とか、困らない程度にはなれるし、5年もいれば、話すことにも、あまり不自由しなくなる様である。
 もちろん、個人的な能力の差も大きい(一番肝心な問題は、意欲がどれだけあるかだと思われるが)。一番いいのは、周りに日本人が誰もいないこと、現地の言葉で話すしかなく、それで、難儀することである。それを繰り返していると、その内に、自然と現地の言葉が出てくる様になるから、これ又不思議である。
 日本で予約して、海外での語学研修なるもので、高いお金を出して、短期間、寮やホ一ムステイをして、頑張っている人が多くなっている。無駄とは言わないが、高いお金を出した割には、あまり能率が上がっていない。語学は、積み重ねであるからして、短期間では、身に付かないし、付いても、直ぐに消えてしまう(全てが消える訳ではないが)。日本での最もお金が安くて、最も確実に能力が付いて行く方法とは、やはり、NHKの語学講座をずっと続けて行くことであろう(しかし、これにも、限界がある)。
 日本ほど、いろんな言語を勉強する上で、日本語で解説された本が沢山出版されている国は、世界広しと言えども、実に少ない。今では、立派なCDまであり、ベンガル語でもスワヒリ語でもトルコ語でも、現地の発音が学べる感じになっている。エキスプレスなどの会社では、かなり多くの国の言語が紹介されている。そのCDで何回も聞けば、その本を何回も最後まで読んでおれば、それなりにものになってはいるが、残念なるかな、又、直ぐに忘れてしまう。どうも、語学に関しては、人間の頭は、人を介さないとしっかりと覚えられない様に出来ている様である。
 で、やはり、実際に、その国の人と話すと、それも、難儀しながら話すことを何度も経験すると、確実にものになっていけると、私は思っている。それを私は、タイやインドネシアやイタリアやバングラデシュや韓国で、身を持って経験した。グル一プレッスンでは、ものになりにくい。マンツ一マンで、後がないと言う状況に自分を追い込める人は、自分の上達を、日毎に感じながら、有意義に海外生活が出来ると思われる。
 日本人ばかりに囲まれた所で、英会話の勉強をしようと思えば、いっそのこと、英語圏に夏休みにでも一人で行って、英語のシャワ一を沢山浴びることであろう。
 大人であれば、行って一人で、語学学校と交渉したり、ホ一ムステイを決めたり、コンドミニアムを決めたりする、困った時は、紙に書く。これで、確実に、苦労するが、身に付く。その時、こちらの下手な英語が笑われることは、心配しなくても絶対にない。
 海外で語学の勉強を始めようとする時、日本の会社を通じて、ホームステイ先を予約したり、学校を決めたりするよりも、自分一人で、いろいろ難儀しながら試行錯誤しながら行動していった方が、はるかにお金が安いし、自分に合った場所も確実に選べる。(と、私は、思っている。実際に、外国に行ってみると、需要と供給の関係で、それなりに、それに応じる様な感じになっていること、多い。但し、最低限の現地の言葉は、絶対に必要だが、幸いなことに、今では、電子辞書もあるし、声が出るのさえあるので、難儀することは、益々少なくなっている。もう一度言います、語学の上達法は、難儀すること、そして、続けることです!!自分が使う下手な現地の言葉で通じた時の喜びは、苦しんだ人しか味わえない素晴らしいものです。その経験も、若い時であればあるほど、ベタ一だと思っています。)

何故、語学研修を海外でするのか?
 何故、語学研修をしようとしているのか?これが問題である。フィレンツェでのイタリア語の語学学校に行った時に、参加者の期間を聞いて驚いた。自分の様に、1カ月の人、誰もいなかった。夏休みだと、時々いるとのこと。日本からその学校に行っている人は、少なくとも3カ月(そんな人も少なかった)、大半は、半年以上か1年以上で、遊びの人はまずいなく、そこで、料理や絵画の勉強をする為に、まず、語学をと頑張っていた。で、1年経っている人は、日常会話には、まず、苦労していない様であった。皆、日本でそれなりにイタリア語を教える語学学校に通っていたのに、日本では、あまりものになっていなかった様である。
 日本人は、立派な英語を話そうと、一生懸命である。しかし、肝心のそれを聞いている外国人は、日本人の英語よりも、日本人の話す内容に興味を抱いている。そのことに、我が娘は、高校2年の夏休みに、アメリカに留学して、気が付き、突如、「お茶教えて!お願い!」と言われた。But、趣味も、1年そこらで出来るものではない!1年間みっちりと教えたのだが、・・・(当たり前だが、ものにならなかった)。
 私の場合は、和太鼓があり、篠笛があり、そして、下手な書道がある。茶道や謡曲に付いて、実際にしてきているので、何もそれをしてない人よりは、ちゃんと説明が出来る。行く前には、折り紙の勉強もやって行って、そこにいる日本人にまで、教えて喜ばれた。
 チェンマイの人やフィレンツェの人や、カナダの語学学校に来ているメキシコ人やイラン人やサウジアラビア人などと英語(私の全くのブロウクンイングリッシュであるが)で話して、実際のその人達の国の現状を教えてもらったり、又、日本人とその人達との価値観の相違を知って、驚いた。
 語学の学習の醍醐味は、正に、そんな所にあると思う。
*私のフランス語の先生

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道具を使うサル

2008-07-31 08:11:36 | Weblog
(平成20年7月27日(土)のNHKスペシャル「南米の驚異、道具を使うサル」より)
 2004年12月、世界を驚かせるニュースが発表された。ブラジル北東部に広がる乾燥地帯で、石を道具として使うサルが発見されたと言うのだ。石を道具として使うのは人間とチンパンジーだけと考えられていたサルの常識を覆す「世紀の大発見」である。
 その主人公は、頭が良いことで知られているフサオマキザル。南米で最も広い範囲に分布する体重3キロほどの小さなサルで多くはアマゾンなどの熱帯雨林で暮らし、果物を主食にしている。道具を使う行動が発見された乾燥した森は、木がまばらで熱帯雨林ほど果物が実らない。そこでサル達が目をつけたのが地面に生えるヤシの実だ。しかし、このヤシの実は、堅い殻に覆われていて、そのままでは食べることが出来ない。
 フサオマキザルは持ち前の知恵を働かせ、石を道具として使いヤシの実を割る行動を進化させたのだ。石の重さは1キロ程。2本足で立ち上がり、自分の体重の3分の1もある石を使って実を割る姿は、まるで私たち人間の祖先が行っていた活動を、現代に再現させている様にも見える。

 サルとチンパンジーが分岐したのは、3.500万年前、そして、そのチンパンジーから人間が分岐したのは、700万年前。知っての通り、チンパンジーの頭の良さは、生まれてから人間を抜いている。小さい子をチンパンジーと一緒に育てると、小さい子がそのチンパンジーをお手本にして育つとのこと。
 普通のサルが、自分の半分以上の石を持って、クルミの20倍以上の硬さのヤシの実を割るなんて、この20世紀まではとても想像できなかったこと。四つんばいのサルが、二本足で立ったまま、大きな石を上からヤシの実に命中させて振り落とさないといけない。考えるに、これは極めて高度の技だ。
 そもそも、ヤシの実を石で割る為には、3つの要素がある。「石」と「台」と「ヤシの実」だ。その石を遠くから運んでいるし、各サルがそそれぞれ違った好みの石で(ボスを先頭に)順番に割っている。台も、決められた(7つの)台でだ。その格好も、それぞれで、長い尻尾を周りの枝に巻き付けてバランスを取って打っているサルや、助走を付けて打っているサルや、打つ前に2回ヤシの実を叩いて打つサルなど、個性的だ。
 更に面白いと思ったのは、決して、母親と言えども、自分の子どもに餌をやろうとしないことだ。子どもは、親の姿を見て、盗み見して、生きる手段を覚えるしかない。自分なりに試行錯誤しながら覚えている。初めの動作は、ぎこちないものだ。何度失敗してもめげずに挑戦して、目出度く、ヤシの実を美味しく食べている。それが出来ないと、ヤシの実より小さな柔らかに実しか食べられないし、ヤシの実のおこぼれを拾って食べるしかないのだ。
 昔、学校で、人がサルと違うのは、二本足で歩けること、道具を使うこと何て教わっていた。しかし、日本サルでも、訓練すれば、二本足で歩ける様になっている。背骨がS状に曲がる様になるのだ(サルの脳も人間と同じで、継続は力なりなのだ!)。美味しいものを食べたいと言う欲求が、進化をもたらすのだなあ。
 この番組を見て、生き物の限りない可能性を認めざるを得ない。しかし、人間の場合は、あまりにも脳が発達し過ぎて、快楽を求めすぎての結果、自然を破壊し、後戻りできない状態になろうとしているが・・・?!

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茂木流脳活性化術

2008-07-30 07:14:27 | Weblog
 7月29日(火)のNHKのスタジオパークで、脳科学者の「茂木健一郎」氏が出演していた。彼の提唱する3つのポイントとは、以下の3つ(多少、変えていますが)。

1、彼の場合は、起きた瞬間から直ぐに仕事をしているが、午前中に、能率良く仕事をするべきである。
 脳は寝ている時にちゃんと整理されている。で、その直後なので、能率的に創造的な仕事が出来るとのこと。彼は、起きた瞬間から枕元のパソコンに手が行って、全速力で午前中に脳を全開大させるとのこと。
 目覚まし時計で起きるのは、良くない。人為的でなく、90分の自然な睡眠のリズムに添って起きるべき。
 脳科学は、例外のない例外はないので、あくまでも、自分の脳のパターンを知って行動するべきである。
2、継続は力なり。何度も同じことを繰り返すことで習慣化することで)、シナップスの結合が強化され、脳が無意識的に何かをしようとしてくる。
 どんな人でも、繰り返していれば、出来る様になる。語学にしても、運動にしても、多くのことがそうである。
3、思い出すことによって、創造力が生まれる。
 思い出そうとしている時に、脳は、側頭葉から前頭葉に流れが行っている。その流れは、創造する時の流れと同じ。歳を取ると思い出せないのではない!思い出そうとする意欲が低下しているのが大きな理由。創造力とは、体験×意欲=創造力の関係にある。つまり、意欲あるお年寄りは、今までの経験を生かせるので、最強となる。最後まで欲深く生きることが大切だ。
 いろんな体験が大切で、今は役に立っていないと思っていても、それが5年後や10年後、更には、もっと先になって役に立つこともある。

追加:イライラの解消法として・・・そのイライラは、どうしようもないから、他のことに関心を持つ時間を作ることが大切。→いい趣味がある人は、仕事も出来る。いろんなことにチャレンジして、その面白さを小さい時から、体験しておくこと!
追加:人を好きなる利点・・・その人自分をどう思っているかを考えることになる、つまり、自分をじっと見つめることになり、自分を磨く絶好のチャンスとなる。さあ、大いに人を好きになろう。
追加:思い出を大切にしよう・・・お金が要らなくて出来る時間の旅行だ。いやなことよりも楽しかったことを何度も思い出して、創造力もアップしよう。

 ム一ッ、さすがに、脳科学者だなあ。大変為になりました。よく遊び、よく寝(茂木さんは、1分以内に寝れるそうだが)、今からのいろんなことにチャレンジして、落ち込んだ時には、これを又読むとしようかな。

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再出発

2008-07-29 11:26:55 | Weblog
 自分の身近な人でアフリカ滞在経験のある人が数人いる。
 アフリカと言っても、実に多くの国がある。貧しくて紛争が絶えない感じの国が多い様に思っている人が多いが、そんなことはない。
 私の高校の時の同級生は、仕事の関係で、モロッコに数年いた。彼は(アラビア語は苦手の様だが、フランス語でカタコト話していたみたいだが)、「モロッコ、日本とあまり変わらないヨ」と言う。
 大分県立津久見高校に来ていた(アメリカ人の)AETの私の英会話の先生は、ガーナの大学に1年間いた。「時間が止まっていた。太陽が上がれば起き、沈めば寝る。時計なんて、単なるアクセサリーで、あっても見ていない。初め時間通りに大学に行ったら、誰もいなかった。食べ物は、直ぐに大きくなるので、飢え死にする人なんていない」と言われていた。
 職場が同じある技師さんの息子さん、現在、青年海外協力隊のメンバーとしてザンビアで働いている。父親、近日中に、息子に会いに現地に行くとのこと!!(帰ってからの話が楽しみ)
 私の身内の一人が1カ月、タンザニアに滞在していた。ちゃんとした西洋式のトイレがあり、特に不自由はしなかったけど、たいくつだったとのこと。
 私が教わったアラビア語の先生(父親がアラビア語の先生で、彼は、高校時代にエジプトで過ごし、その後、大分県の別府にあるAPU:アジア太平洋大学に入学していて、今は、宮崎県で英語の先生をしている・・・つい最近、連絡を頂いた)は、コモロの出身だった(それまで、私は、コモロなる国の名前も知らなかったが。コモロは、マダガスカル島とアフリカ大陸の間にあります)。
 アフリカ独自の文字が今も使われるケースは、極めて少ない。持つと言う動詞がない。皆、共有って感じだ。太った人が美人として男性から寄って来られる。一番の価値観は、子ども。一夫多妻系で、沢山子どもを産んだ奥さんが、自信に満ちた顔をしている。人なつっこい。自分たちがお腹が空いていても、食べれと言ってくれる。(って感じで、聞いていましたが・・・)
 私がしているフォスターペアレントの子どもの国は、初めケニアだったが、今は、ブルキナファソで、時々、英語とフランス語で、子どもの経過が送られてきている(10年以上前から)。

 平成20年7月27日(日)の22:00からの「世界ウルルン滞在記」で、演出家の宮本亜門(50)さんがアフリカ・ケニアのサバンナで、狩猟と農耕を営む少数民族、ニケボトク族の生活を体験していた。
 日本を出て丸2日。飛行機と車を乗り継いで辿り着いたのは、総勢108人のニケボトク族が暮らすロクワル村。村長のエディチェンさんのお宅にホームステイすることになった宮本さんは、スイカやとうもろこしの粉で作る主食"ウガリ"で歓待される。
 干ばつのため畑の作物は実らず、野生動物は近くの保護区に逃げ込むため猟の獲物もわずかで、食料が底をついてしまう。宮本さんは村人とともに野ウサギの追い込み猟に参加するが。
 そんな状況に、宮本さんが立ち上がる。村人たちに呼びかけ集会を開き、食糧を得るために出来ることを皆で話し合おうというのだ。議論の末、水を撒くのが楽な川の中州の土地に、共有の畑を作ることに決定。宮本さんは50歳にして初めての畑仕事に奮闘する。42度の高温の中で。
 彼は、次の様に言った、「(1日に1食しか摂れない経験をして)食べ物がこんなに美味しいとは、思わなかった。心は10代だけど体力は年齢通り50歳だから、畑を耕していてもすぐ疲れる。そんな自分が本当に悔しかった。彼らが生きていくための力になりたいという思いが強かったせいか、逆に元気になって帰って来られました。死ぬか生きるかの状況でも、自然を神とあがめ、感謝し、何も恨まずシンプルに暮らす人々と出会い、これが人間の根源なんだと勇気づけられました。人間は皆、いとおしくて優しいものだと再確認しました。こんな体験ができて本当に幸せです」と。
 彼は、かって落ち込んでいた時、父親から、あるメモをもらって勇気付けられている。それには、「深く悩むには、人生は短か過ぎる」とあった。彼は、現地の言葉で話し、(スワヒリ語では、沢山の人に対しては、ありがとうは、アサンテニー、さようならは、クワヘリニーと言うのに、その言葉は全く聞かれなかった?)、現地の人と同じ生活を極力しようとしていた。それがスゴイと思った。
 今回の現地での最後に、彼は、「(目的を成し遂げて)強くなった自分を発見した、又、これから(人生の)再出発です」と言われた。
 アモーニ(亜門)、アムモーニ(出来た)!

http://www.ururun.com/top-index.htm

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原 点

2008-07-28 08:54:39 | Weblog
 漫画は悪だと言っても、「のらくら二等兵」の様に、教訓めいた素晴らし漫画もある。同じ様に、テレビの弊害がいろいろと言われている。テレビは悪だとの考え方をする人もいるが、その見方からもう一歩進んで、テレビから見られない様にしたらといいと思うのだが。
 今まで見たテレビ番組の中で、スポーツに関しては、今でもはっきりとその状況が浮かぶ内容のものが3つある。
 40年以上前の東京オリンピックでの女子バレーでの日本とロシアとの闘いで、タッチネットで日本が勝ったシーン。その時、中学校の女子バレー部でキャプテンをしていた姉と一緒に見ていて、興奮したものだ。
 又、同じその東京オリンピックでの最後の種目のマラソンで、自衛隊出身の円谷幸喜が、さえない日本の陸上界で、最後に会場で抜かれたた場面だ。しかし、3位の日の丸が上がり、母と一緒に見ていて、母が泣いていた。
 そして、もう一つは、もう40年近くになろうとしている(1969年)夏の高校野球の甲子園での決勝戦の青森県代表の三沢高校と愛媛県代表の松山商業との歴史に残る延長戦だ。延長18回戦までで0一0、翌日再試合で4対2で愛媛に軍配が上がった。しかし、その間、何度チャンスと危機が両方にあったことか。私は、その時、その2試合とも全て見ていて、とても感動し、これ以上の試合はもうないと思った(事実、今もそう思っている)。
 平成20年7月26日(土)の夕方、その時に闘った相手同士がテレビの民放の出ていて、当時のことを語っていた。
 その時に一番活躍した三沢高校の元ピッチャー太田幸司氏と松山商業の元キャプテン大森光生氏だ。
 太田氏は、言う、「無欲の状態での延長戦だった。結果的には翌日負けたけど、涙が全く出なかった。俺は一人で最後まで投げ通せたのに、相手は、(井上と中村の)二人で投げた。負けてもあんなにスカッとした気分になれたことは今までになかった。プロに入っても、初めの1年目の成績は1勝、翌年は0勝、それでもオールスター戦で選ばれて、実力が伴っていなくて恥ずかしい思いをしてきた。しかし、そんな時に高校野球での決勝戦での頑張りを思い出して、15年間プロで頑張ることが出来た(58勝85敗4セーブ、その後、野球の解説者)。その原点は、やはり、あの決勝戦で投げ通せたことにある」と。
 大森氏は、言う、「15回裏の時に、1死満塁で、カウントは1一3で、松山の絶体絶命のピンチ、それが0点で押さえられた時、自然と涙が出て来た。翌日勝っても、何故か嬉しくなくて、三沢の選手に申し訳ないと思った」と。
 で、大森氏は、18回まで使ったそのボールをお宝として持っていて、ある時、25歳の自分の息子に初めて見せている。又、収録されたその日には、太田氏と笑顔でそのボールを使ってキャッチボールをしていた。
 歴史に残るこの決勝戦での試合は、愛媛県民の粘りを見せたと言うことで、その後の愛媛県民の自信にもつながっている。
 
*太田氏は、日露の混血ゆえ、薄茶色の髪に色白で端正な顔立ちの美少年だったため人気があり、加えてこの決勝戦の熱投もあって、「コーちゃん」と呼ばれて女子高校生などに絶大な人気があった。そのため、悲劇のヒーローというよりも、アイドル甲子園球児の元祖というべき存在だった。

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渡辺明竜王

2008-07-27 12:53:09 | Weblog
 昨日(7月26日)の夜、渡辺明棋士の両親がNHK教育テレビの「土よう親じかん」に出演していて、とても興味深く見入っていた。
 渡辺明棋士は、現在、賞金額としては一番多いタイトル「竜王」の保持者。
 小学校4年生で、小学生での名人となり、周囲を驚かせた。羽生義治4冠以来、15年振りに中学生でプロとなっていて(今までに、中学生でプロとなった人は、4人しかいない)、その躍進振りは、多くの人の注目の的ともなっている。
 父親は、アマチュアの5段。子守りで、将棋を指す所に一緒によく連れていたそうで(明君は、柱に登ったり、走り回ったりしていた)、そんなことを繰り返している内に、将棋を覚え、メキメキと腕を上げてきた。しかし、負けず嫌いな明君は、姉に負けると、スゴクくやしそうにしていたとのこと。
 親子将棋と言うのがあって、父親と明君が対決することになった。明君の短所は、粘りがないこと。それを父親は、教える為に、父親優勢を劣勢にして、明君に優勝させて上げたとのこと(後で、わざと負けてくれたと、明君納得)。
 小学生で名人になり、それで天狗になってはいけないと思って、いろんな取材を断ったとのこと。又、人間的にも成長しないといけないと思い、叱るべき時には、それなりにちゃんと叱って行ったとのこと。
 父親は、明君のプライドを傷つけない様にしてきている。インターネットで試合の状況が分かるので、負けた時は(帰って明君の態度に出るのだが)、そのことに触れない。勝った時には、いろいろ(インターネットで既に知っていても)尋ねて(待ってましたとばかり、明君は得意げに詳細に話していたが)、大げさに喜んで上げていたとのこと。
 母親は、明君に女っ気がないのではと心配していたが、ちゃんと相手を見つけて、今は、1児(男児)の父親。
 彼は、独学タイプ。その理由を次の様に(かって)述べている、・・・「自分の力でした方が、やり甲斐があるから」と。

 私の場合は、今は亡き父親から、将棋も囲碁も教わった。初めに将棋を教わり、歩3丁で、負けた。で、私が次第に強くなるにつれて、いろいろ父親が駒を落としてくれたが、全て勝たせてもらうことはなかった。父は、囲碁仲間とよく家で指していて、私も教わり、父から相手をしてもらえる様になった。9目以上置いても、負けていた。で、最後は、6目になっていたが、やはり、全敗だった。今思うと、父は、私に勝負の厳しさを教えたかったのではと思う。
 

渡辺明棋士のブログ
http://blog.goo.ne.jp/kishi-akira/


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老人になっても夢は持てる・・・?!

2008-07-27 11:43:38 | Weblog
 石垣島に住むおじいちゃんと孫が一緒にお風呂に入っていた。おじいちゃんは、「大きくなったらなんになりたい?」と孫に聞いた。小学校4年生の孫は、「僕、パイロットになりたい、おじいちゃんは?」と聞いてきた。おじいちゃんは、しばらく考えた後、「そうだなあ、おじいちゃんは仏様かなあ」と答えた。
 おじいちゃんは、考え込んだ。おじいちゃんは、孫がパイロットになる夢を持っているのに、仏様になることしか答えられなかった自分が無性に哀しかった。
  すっかり落ち込んでしまったおじいちゃんは、子どもの頃に思い描いてきた夢を思い出してみた。大きくなったら、陸軍大佐かサ一カスで空中ブランコをする夢を持っていたことを思い出した。
 陸軍大佐には、もうなれない。しかし、サ一カスは、出来るかも知れない。そう思って、サ一カスを教えてくれる所を探した。日本中のサ一カス団を調べ上げ、「空中ブランコを教えて欲しい」と頼んだが、どのサ一カスからも、70歳と言う年齢を理由に断られた。友人がインタ一ネットで調べてくれた。フランスとスペインにあったが、外国なので断念した。
 ところが、偶然にも、石垣島にある外資系のリゾ一トホテルが小さなサ一カス団を持っていた。頼むと、「うちでは、83歳の現役もいます」と言って快く引き受けてくれた。
 それから、毎日、厳しいトレ一ニングが始まった。そして、ついにおじいちゃんは、孫の前でその夢を実現したのである。本当に、空中を飛んだのだ。
 「僕のおじいちゃんは70歳になって夢を実現した」、この思い出をそのお孫さんは、一生、心に刻んで生きて行くでしょう。

 多くの政治家は、「日本の将来は、お年寄りが多くなって、若者がそのお年寄りを支えないといけないので、大変な世の中になる」と言う。しかし、それは、間違っていると思う。今からは、若者にも負けない元気なお年寄りがどんどん沢山、出て来て、世の中を引っ張って行くと思う。
 医学的には、例え60歳であっても、個人的には、精神的に肉体的にも20歳程の開きがあるとのこと。つまり、60歳でも、40歳の若さがある人もいれば、80歳の人もいるのだ(時に、30歳代の終わり頃で、既に、受験勉強で頭をある所しか使ってこなかったエリートが、冷蔵庫も冷凍庫も分からない状態になっているのが、テレビで放映されていたが)。
 年をとっても、自分なりに目標(夢)を持って、生きるべきである。いくつになっても、何をしたいか、したいものがあるかどうか、そして、今、それを達成する為に準備を少しでもしているかどうかだ・・・?!

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教育はどうあるべきか・・・

2008-07-26 11:44:17 | Weblog
教育には、家庭教育、学校教育、社会教育とあり、それ等が複雑に絡み合っている。その中で、学校教育を中心に述べたい。
 よく言われるのは、小学校では、学校の授業に付いていけない子が3割、中学では5割、高校では7割もいるということである。大学では、どうだろうか?大学に入っても、高校の科目を履修しているケースもあるが、全くおかしな話だ。
 日本では、ちゃんとした落第制度が機能してない。小学校や中学校の義務教育では、出席日数が足りていれば、まず上がれる。これがそもそもおかしい。出来なくても何故上の学年に上がれるのか?教師としての誇りや信念がそこにはないのか?!
 塾に行く子が多い。何故、塾に行くのか?ちゃんと学校に通っているのに。これは、悪く言えば、教師と生徒の間の関係を壊し、学校への裏切り行為だ。恐らく、これは、親御さんが、「学校だけでは不安症候群」に陥っている結果だと思われる(子どもも、それに陥っている)。
 多くの学校も、受験勉強で悩まされている。進学の成績が良くないと、親御さんからクレームが付けられるからだ。有名な学校の進学率がいいことを鼻にかけている学校が日本には多過ぎる。
 土台、入る数は決まっているのに。二十歳前の人間の価値が、ちょっとしたペーパー試験で決められるはずがないのに。マスコミも、有名大学や医学部の数を大きく取り上げる。で、そんな状況下で頭でっかちの現場を知らない官僚中心の官僚主導の国家が生まれ、時代の変化に対応できずに、国は多額の借金を抱えてしまっている。今やにっちもさっちも行かない状態になっているのに、又、それが極めて深刻な状態なのに、その場だけ何とかしのげばって感じにまだなっているのが今の日本の姿かな?
 未来を担う多くの日本の今の子ども達には、心安まる時間も空間もない。親は仕事で追われ、会社の倒産、リストラの不安、親の離婚率の増加、自殺の増加、不登校の増加、老後の心配と、問題は山積。
 更にそれに拍車を掛ける様に、本来、いい教育をすべき公立の附属の学校が受験勉強をあおり立てている。 
 大学に入っても、更に試験があって、上級管理試験や司法試験や薬剤師や医師の試験などは、大学でしている内容だけでは不充分で、それなりに又別に受験勉強をしないといけない。 
 こんな中で、ホントのエリートや人間的な教育って、可能だろうか?(可能であるはずがない!)

 教育上、何と効率の悪いことをし続けているのか!そんな競争競争で選ばれた人間に、感性豊かな心優しい人を求めることの方が無理と言うモノだ。

 小児科医をしていて、(この田舎でも)実際にいろんな事例を経験している。
 中学3年のある女の子は、肺炎で入院して熱もあるのに、(11月の)入院中にもずっと猛勉強をしていた。親もその子も、医者の忠告を完全に無視して。
 ある中学生の男の子は、学校のクラブ活動(運動)で忙しく、帰るのが夕方の7時過ぎになっていた。しかも、クラブ活動で休みの日にも学校に行っている。子どもは疲れ切って、正に、虚の状態で来院していた。その理由は、学校の先生がそれにスゴク熱心だからと親が説明していたが。
 小学生の高学年の女の子で、塾に通い、水泳に通い、習字に通い、疲れ切った状態で外来に来ている。親御さんも、何となく理由が分かっているのだが、祖父祖母に気兼ねして、どうにも出来ない状態。で、当の子どもが苦しんでいる。
 今の日本の教育制度自体も、戦後はそれなりに良かったと思われるが、今の時代には、もう時代遅れだ。
 学校は、もっと住民に開かれるべきだ。いつも授業参観が出来るべきだ。裁判員が一般の人に求められる時代だ。校長だって、一般の人の意見が取り入られるべきだ。そして、それなりに、校長に権限がもっともっと与えられるべきだ。
 人生80年の時代だ。勉強なんて、一生関わるもの。小さい時から受験受験でエネルギーを使い果たした人の失っているものも見て欲しい(認知症は、国家公務員が一番多い!)。

 人生、万事塞翁が馬と思います。


http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20080214/4


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痩せる為の窮極の名案

2008-07-25 10:31:13 | Weblog
 まず、体重計を買ってくる。体重計も、100g単位で数字が出るものを買う。3000円前後で結構いいのがあるはず。で、私の場合は、朝起きた時、朝食後にトイレ行った後、入浴後の3回測定している(朝食前後と夕食前後の1日4回でもいいと思うが)。で、それを入念に毎日繰り返して目に付く所に値を記載していると、今、自分の体重がどの位になっているのか、不思議なことに、200~400g前後の誤差で、正確に推定出来る様になる(本当です!)。もう、こうなればしめたもの。体重測定が趣味となり、努力を惜しんでする様になるかも。
追加:蛋白質は、充分に取ること。野菜を沢山摂ること。1日3食、規則正しく摂ること。適度の運動。就寝の3時間前から食べないこと。就寝前に摂るとしたら、水分のみ。沸騰させた白湯にカボスやレモンを掛けるといいかも。もちろん、500mlの水分を摂取すれば、500g増えますが。体重に敏感になった自分を知って、これを面白がれば、しめたものです。続けられることを切に祈ります。

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病気にならない方法

2008-07-25 08:32:52 | Weblog
黒 柳 徹 子(昭和62年4月5日の毎日新聞掲載の彼女のエッセイより、この原稿を今も大切に保存しています)

 もう30年近く(正確には、半世紀近くとなるが)、私は病気をしていない。
 特にこの12年間は、「徹子の部屋」という毎日のテレビ番組を持っていて、更にその前に、3年間の、これも毎日のナマ放送の司会をしていたから、合計で15年間、毎日テレビに出ていることになる。
 その間、だたの一日も病気で休んだことがないというのは、自分でも(他に、自慢出来ることなどないけれど、なかなかのものだ!)と思ったりしている。
 私は、30年前の「あの日」から病気をしなくなった。

 私は、NHKで、テレビの為の養成を受け、NHKの専属のテレビ女優として、この世界に入った。初めの頃は、「お前の個性は邪魔だ!」と言われて、ずいぶん悩んだ時期があった。
 個性が邪魔と言われても、若い私には、自分の個性がどういうものなのかもわからず、ただオロオロとスタジオの隅で過ごした。

 「もう、帰ってもいいです!」と降ろされて、一人だけ、スタジオの外の廊下で、同級生の俳優たちの終わるのを、本を読みながら、待っていたことも、しょっちゅうだった。

 その内、世の中が、突然、「個性の時代!」に入った。とたんに、みんな、「さあ、貴女の個性を出して下さい!」と言い、仕事は次から次と押し寄せた。
 私は、途方に暮れた(出しなさい、って言われてるものが何なのか、わからない!)。それでも、私は、皆の言う通りに、一生懸命にやった。
 寝る時間は、殆どなくなった。
 
 ある日、私は、「過労」と診断され、その日の内に入院ということになった。

 どの番組のディレクタ-も、「自分のだけは、休まないで」と言った。でも、お医者様は、「死ぬよ」と言った。

 私は、仕方なく、全部のテレビとラジオのレギュラ-番組を休んで入院した。先生が、テレビを部屋に入れて下さった。
 当時は、全ての番組がナマ放送だったから、私は、私がいないとどんなことになるかしら、と心配しながら自分の番組を見た。

 私が司会をしていた番組に、私の知らない女の人が出て来て言った。 「さあ、今日から、当分、黒柳さんの代わりに私がやります。さあ、始めましょう!」。それだけだった。
 私が、渥美清さんと夫婦をしているドラマでは、隣の奥さんの役の人が、渥美さんに聞いた。
 「奥さん、どうしました?」。渥美さんが、答える。「実家に行っています!」。そして、ドラマは、私なしに、どんどん進んで行った。
 
 他のものも、似たりよったりだった。

 私は、ブラウン管を見つめながら、考えた。 「・・・実家に行ってます」---この言葉が、耳から離れなかった。

 1カ月後に、病院を出る時、私は、はっきりとした考えを持っていた。
 一つは、もう、絶対に病気をしないこと!。
 もう一つは、自分しかやれない仕事をなんとか見つけよう!。
 
 私は、先生に聞いた。
 「死ぬまで、病気をしないのは、どうやるんですか?」
 
 先生は、笑って、「生まれて、初めての質問だな」と言ってから、こう言った。
 「一つしかない。自分の好きなことだけ、やるんだな。自分が進んでやろうとする時には、どんなに疲れていても、寝れば、治る。いやだいやだと思いながらやっていると、疲れは寝ても取れない。やれるかい?」

 名医と言われる先生のお言葉だった。
 私は、そうしようと、心に決めた。

 あの1カ月は、私に、人と自分を比べることの愚かしさ、命の大切さ、いつも自分らしくあること、なども、しっかりと教えてくれた。
 
 人生の入り口にボンヤリ立っていた若い私には、こんな当たり前のことでも、早く教わったのは、有り難かった。

 あの退院の日に、私は、少し、大人になった。

                          
*ある人の話では、黒柳徹子さん、玄関に入ってから、応接室で話をして、その用事が終わって、玄関のドアを閉めるその直前まで、ズ-ッと、途絶えることなく、話をされるとのことです。

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