日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

研修医

2006-09-30 08:09:35 | Weblog
 月曜(9月25日)の午前中から不在にし、金曜の17時から、仕事をしている(金曜の18時半過ぎに帰り着く)。その間、入院が5人いて、金曜も、17時から、5人来て、一人クループで入院した。
 金曜の深夜と今日(9月26日)の0時過ぎに、小児科二人来ていたが、当直の先生が診ていた。朝、病棟に行くと、昨日入院した子ども、少し元気になっていた。
 10月と12月は、スーパーローテートの研修医が、小児科で研修する。その先生のことで、昨日、も一人の小児科の先生と、又、研修する本人とも話した。
 小児科の入院、2カ月だと、50人を超えると思われる。その全ての主治医になってもらうことで、ほぼ、話が決まりそうだ。
 今は、二人主治医制にしていて、初めに診た小児科医が、第一主治医になるが(指示をし、まとめを書き、何かの時は、連絡がそこに行く)、も一人の台主治医も、時々、勝手に診察して、カルテに書き込んでいる(一緒に診ることもある)。ここでは、カルテは、皆のもの、患者の経過は、オープンにしている。
 10月から2カ月間は、三人主治医制にしようと思っているが、一応、研修医の研修担当の医師と院長の了解を得ないといけない。私達小児科医二人がみっちりと指導して行けば、実りある研修が出来ると思う(状況を見て、第一主治医にも、なってもらおうと思っている)。
 問題は、やる気と周りの状況がよく理解できること。知識や技能は、若い人であれば、すぐに身に付く。既に、1年半の研修を他の科で終えている。
 ところで、この研修医、笑顔がいいし、とても礼儀正しいし、高校生の時に、全国制覇のクイズ王になっている(スゴーイ)。昨日、内科の上の先生と将棋を2番指していて、2番共、堂々と勝っていた。自分がしても、負けそうだなあ・・・(いつか、この先生と指すつもりだが、当たり前だが、将棋の世界には、研修医も指導医もない)。

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インターネット

2006-09-29 06:21:05 | Weblog
 熊本にあるホテルのロビーでこれを入れ込んでいる。すごい時代になっているなあと思う。タイやインドネシアやバングラデシュに行っても、インターネットが出来た。気の利いた日本のホテルでも、もちろん、インターネットが出来る。
 携帯も凄いと思っていたが、このインターネットの普及は、正に、多くの日本人の生き方を変えていると思う。インターネットの普及は、カナダやニュージーランドでは、日本以上で、中国や韓国も、日本以上になっている気がしている。何せ、日本では、小学校や中学校で、まだ、上手にパソコンが出来ない先生方が時々いる様だ。もっと、それぞれの学校のホームページを充実させるべきだと思っているが・・・。
 団塊の世代が、その前の世代と大きく違う所は、このパソコンを使っているかどうかだと思う。ワードやエクセルを少なからず使える団塊の世代は、結構多い。 
 今からは、情報の時代。自分で確かめるのが一番確かではあるが、それには莫大な時間が必要。如何にして有益な情報を得るかだ。その手段として、インターネットは、必需品である。

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サクラ・ヤスユキ

2006-09-28 07:37:19 | Weblog
 昨日、陶芸展で、偶然に、家内の華道(草月流)の先生に会った。先生の名字は、佐倉。草月流の先生でもあり、お茶の先生でもある。NHKの夜の「トップランナ一」の番組で、つい最近、息子さんが出演されていた。
 息子さんの名前は、「サクラ・ヤスユキ」、今や、日本だけでなく、世界のアーティストとして有名になっている。
 佐倉先生に私は言った、「息子さん、NHKのトップランナ一で、見ましたよ。凄いですね。息子さんの言われたことで、2つ、とても印象に残ったことがありました。一つは、アーティストとして大切なことは、どうしてもそれを表現したくてたまらないと言う強い衝動を持ち続けられること。もう一つは、どちらかに選択しなければいけない時、どちらかに決定を下したことに意味があり、そして、決めた選択に後悔をしないことと言われました。素晴らしいですね。」と。
 佐倉先生にそう言うと、とても嬉しそうだった。


 佐倉先生の弟子が、韓国(浦項市)に住みつき、その弟子の関係で、かって大分県の裏千家のメンバー14名が、そこに行って合同茶会をした。その後、逆に向こうの茶道のメンバーが佐伯に来て合同茶会をした。その両方共に、私は参加出来て、有意義な経験をさせてもらっている。

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笑ってよ、カバの歯医者さん

2006-09-27 05:51:13 | Weblog
 動物村に、カバの歯医者さんがいました。待合室では、今日も、治療を受ける沢山の動物達が、ヒソヒソ話をしています。
「全然、あの先生、笑わないね」
「恐そうな目付き、してるね」
「道で会っても、笑わないよ」
「おっかないなー、もう、帰ろうか」
 しかし、この村には、歯医者さんは、このカバの歯医者しかいないのです。交通の便利も悪く、皆、仕方なく、ここに来るしかないのです。
 実は、このカバの歯医者さん、長い事、歯の痛みで、苦しんでいたのです。歯医者さんは、自分一人だけの為、休む暇なく、ずっと我慢してきました。いろんな事を試みました。逆立ちしたり、痛みがとれると言う薬を飲んだり、温めたり、口を動かさなかったり、しかし、どの方法を取っても、日増しに悪くなるばかりでした。
 とうとう、我慢できなくなって、意を決しました。「よし、隣の村に行って、歯の治療をしてこよう」と。そう思うと、何年か振りに、休診の張り紙を入り口に貼って、隣村のワニの歯医者さんの所に何時間も掛けて行きました。
 すると、どうでしょう。そのワニの歯医者さんの待合室で、沢山の動物達が、話していました。
「ここの先生、恐いってなあ」
「一言も、説明がないらしいよ」
「笑った事、誰も、見たことないなあ」
「どうしようかなあ、もう、帰ろうかなあ」
 カバの歯医者さん、恐くなりましたが、しかし、この村も、歯医者さんは、このワニの歯医者さんだけです。後は、数日間掛けて、舟で大きな町に行くしかありません。
 「ここまでせっかく来たのだから、治してもらおう」、そう思ったカバの歯医者さんは、そこで、長い順番を待ちました。
 会うと、ほんとに、ワニの歯医者産、とても恐そうでした。
 実は、このワニの歯医者さん、永い事、口が開けられないくらいに歯が痛くて、我慢していたのです。
 お互いに、歯医者さん同士で、歯を見ました。お互いに、「どうしてこうなるまでほおっていたの」と驚いて言いました。そして、お互いに治療しました。
 
 それから、カバの歯医さんお患者さんも、ワニの歯医者さんの患者さんも、小言を言う人がいなくなりました。
 これ、歯医者さんの待合室にあった絵本の内容です。題は、「わらって、カバのはいしゃさん」で、さくらともこ作でした。

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「日本の心・さいき」(下)

2006-09-26 20:45:21 | Weblog
 歴史を紐解いて見れば、日本の大先生が、中国であることが、よく理解出来ます。弥生時代の中国と日本では、とても比較にならない位、全ての面で大きな差がありました。中国語、韓国語、日本語の漢字を実際に調べて見て下さい。その類似点から、漢字だけに注目すれば、親は中国で、韓国と日本は、兄弟に当たることが理解出来ます。

 日本は、北から南まで、亜寒帯から亜熱帯まで、延々と3000Kmも続く、細長い国です。細長く続き、島から出来ている日本は、強い中央集権的な国家を昔から望んできてなく、日本全体が世界で、それぞれの地方がそれなりの国として、日本人に意識されて来たのではないでしょうか。

 外国から攻められる心配をさほどしなくいいし、気候に恵まれて、四季折々の変化が富んでいます。そんな日本ですが、中国に対して、大きな劣等感を持っていたはずです。そういった条件が揃えば、長い年月の間には、自然と日本独特のものが生まれてきて当然だと思います。

 狭い土地の面積で、資源の少ない農業国日本は、自然と人とが、上手に共生して生きて行かなければいけませんでした。米に対しての日本人の感覚は、独特です。米の出来高が、その地方の力を示していました。米は、水を利用し、水田の利用は、自然の生態系を実に上手に利用しています。農耕民族では、多くの人の手が要ります。
 長が滅んだ時、その国が滅ぶ形となり、大規模な皆殺しは、国内では、行なわれませんでした。それがよく表現されているのが、日本の将棋だと思います。日本の将棋では、取った相手の駒が、直ぐに自分の駒として利用出来ます。この考えは、西洋のチェスなどにはなく、日本独特のル-ルと言われています。

 日本人には、国際的な感覚がないとよく言われています。しかし、私は、必ずしもそうだとは、思いません。むしろ、逆に、日本ほど他の文化を容易に受け入れる国も珍しいのではないかとも思っています。そうは言いながらも、自分のアイデンティティとしてのものも、いつまで経っても失っていない国、それが日本だと思っています。
 漢字から、日本独特の文字、平仮名と片仮名が生まれました。仏教が入って来ると、中国に負けまいとして、世界一大きな大仏様を奈良に作りました。東大寺にしても、当時は、東アジアでは最大の建物だったはずです。
 
 日本の場合、正月には神道を、盆には仏教を、クリスマスにはキリスト教を、さほど不思議がることなく利用しています。それ以外にも、いろんな宗教があります。葬式の形式にしてもいろいろです。神棚と仏壇を両方持っている家は、今でも沢山あります。神様を信じていないと言っても、漁師さんの奥さんは、御主人さんが漁に出掛けた後に、海の神様に祈っていますし、大工さんにしても、風呂に入って、神様に祈って仕事に出掛けています。山の神様、試験の神様、商売の神様、日本には、神道とは言ってもいろんな神様がいます。「困った時の神頼み」って言葉があることを考えますと、都合によりいろんな神様をそれなりに奉っている感じがしないでもありません。

 食事にしても、和食だけでなく、イタリア料理、フランス料理、中華料理と何でも可です。しかし、お米を食べないと、何か落ち着かないと言う日本人が多いのです。着る服は、洋服が多いと言っても、正月には日本の着物を着ようしますし、どの日本人も、日本の着物に対して高い評価をしています。

 今、日本では、倫理の問題が深刻化しています。政治界にしても、その地域を良くする人しか、当選出来ません。政治が悪いと言う前に、それを選んだ選挙民の責任はどうなっているのでしょうか。医療界にしても、問題が山積しています。日本程、国民一人一人が、高いレベルで平等に医療を受けられる国は、世界でみると極めて数少ないはずなのですが、世間でのその評価は余り高くありません。急いで使用されるべきなのに、手続きの関係で保険がまだ使えなかったり、先進国で既に殆ど行われいてるインフルエンザ柑菌のワクチン接種が、まだ日本でされていなかったりもしています。
 商売をする人にしても、抗生物質が大量に使用されていたり、農薬がふんだんに使用されていたり、見栄えのいい野菜や果物だけが高く売れたりしている場合も、あるのではないでしょうか。教育界にしても、真面目な先生ほど、悩んでいるケースが多いのではないでしょうか。

 それ等の問題の台頭の原因の一つに、日本人の倫理観の欠如があると思います。シャンソン歌手の美輪宏明氏は、言っています、「その人が偉いかどうかは、国籍、肌の色、性別、年齢、学歴、職歴、体が不自由かどうか、そんなこと、一切関係ない。たった一つ、心がきれいかどうかの問題だけで決まる。心がきれいな人は、偉いんです」と。

 作家の藤沢周平氏は、言っています、「日本人が人間として世界に通じるのは、江戸時代まで」と。江戸時代までは、どの家にも仏教の教えがありました。上杉謙信や徳川家康や徳川家光などの人には、必ずと言っていい程、偉いお坊さんが付いていました。偉い武将には、お坊さんが親友にいました。今の日本、国会議員、事務次官、知事、市長、大学教授の人に、親友として、立派な宗教家は、まず、いませんね。

 明治維新以来、日本には、確固たる宗教がなくなってしまいました。それに代わるものとして、天皇陛下が、神様に奉り挙げられてしまいました。天皇譲夷の考え方が、政治家によって、天皇を利用する方向に転換されてしまいました。天皇の命令と言って、15~16歳の明治天皇が利用されて、大久保利通や伊藤博文や山縣有明などの政治家が、何でも自分たちの都合のいい様に、動かしてしまいました。軍部が台頭し、「勝てば官軍、負ければ賊軍」式の思想になってしまいました。上に立って指導するべき立場のある人に、宗教観だけでなく、確固たる世界観、歴史観、人生観、そして、倫理観がなくなってしまいました。そして、戦後、教育勅語がなくなり、天皇陛下が人間宣言をし、日本人の心の支えが無くなってしまいました。

 戦前は、多くの日本人が、最後は(神風でも吹いて)、最後は絶対に勝つと信じていました。マスコミは、嘘の情報を流し、上からは、「物は有限、しかし、精神は無限」なんて言われながら、敗戦になってしまいました。世の父親は、メンツを失い、若者は、不信に陥ってしまいました。その後、アメリカに追い着け追い越せの競争競争で、戦後の経済復興には、目を見張るものがありました。しかし、何かを得れば、何かを失うのは、当然の報い、お金中心で来たツケが、今、起きるべきして起きていると思います。

 外国の人が、日本の道に驚いています。日本の武術が、ただ、強くなればいいだけかのことと思っていたら、精神が伴わなければ意味がないことを知って感嘆しています。相撲にしても、物言いの時、取り組んだ相撲取りは審判員に従うだけですし、勝った力士は、負けた力士に、「ごっつあんです」とお礼まで言っています。将棋でも、囲碁でも、礼儀が重んじられ、負けた方がにこにこしていて、勝った方が渋いかをしている場面がブラウン管によく出ます。茶道では、点てる人が上手だと、「先生は、どなたですか」と尋ねられ、無礼な作法をすると、「先生に恥をかかせてはいけませんヨ」と、周りから注意を受けます。どんなに上手な字で掛け軸に書かれても、修行を積んでいない人の書かれたものでなければ、正式なお茶会には使えません。

 そんな、精神を大切にしている日本の伝統文化を媒介にして、日本人が本来持つべき「日本人の心」が、この「さいき」から、はっきりとした形で、表現出来ればと思っています。

 いいリ-ダ-の条件には、次の3つが必要と思います。まず、激しい「情熱」です。次に、その情熱を「持続」する為の粘り強い力です。最後に、それを、多くの人に理解してもらう為の「説得」する力です。

 多くの人に納得してもらう為には、実践・実績しかありません。昨年は、総数50名前後で、城南公民館で、それなりに、国際交流をしました。今回、自分の不手際が余りにも多くて、多くの人に迷惑をお掛けしましたが、多くの人の暖かい支援の元で、150人前後の外国の人に集まって頂き、反省点も多くありましたが、それなりに、実りある国際交流会になったと思って、感謝しております。

 又、「アジア太平洋大学」の留学生やインドネシアの研修生などを中心として、この様な会を開けたらいいなと思っています。

 場所は、佐伯に留まらなくても、日本に留まらなくても、いいと思っています。

 多くの人の理解と協力がなければ、出来ません。又、私利私欲があっても、出来ません。皆さん、何卒、末永く、宜しくお願い申し上げます。
 
                        (たはら まさひで)


*今回、三田井筑翠先生と佐脇計志先生には、書道と水墨画でのチャリティをして頂きまして、誠に、有難うございました。
*佐伯在住のインドネシア共和国の研修生の方々、準備と演舞と後片づけ、不手際なく、立派にして頂きまして、有難うございました。
*日曜日の場合、三余館では、閉館時間は、午後5時と決められていますが、今回、佐藤市長、三余館の御配慮により、特別に延長させて頂き、感謝しております。





  「日本の心・さいき」のメンバ-及び、協力者

会長:田原正英(たはら小児科医院・院長)
顧問:貴田喜典(会社員)
会計:田原正英(会長)
監査:田中利明(佐伯市議会議員)
協力者
 鎌田百代(裏千家茶道教授)
 三田井筑翠(東九美術書道会長・国際書芸展副会長)
 赤松裕文(自営業・太鼓)
 広瀬文久(市役所職員・太鼓)
 秋元昭一(佐伯市教育委員会・タガログ語通訳可)
 下川 健(市役所職員・英語通訳可)
 矢野倫康(市役所職員・中国語通訳可)
 内田 正(郵便局員) 
 その他、佐伯市在住の日本文化に理解のある有志の方々

*フォスタ-・プラン協会に、春の茶会と今回の会と寄付金、合計10万円を、平成10年7月初めに寄付させて頂きました(インドネシアの子どもの教育に利用して下さる様に、お願い致しました)。


(平成10年6月2日、西日本新聞掲載)





「日本の心・さいき」(上・中・下)の内容の記載責任者:田原正英(会長)(今から8年前の、平成10年での記載文です)

コメント (1)
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「日本の心・さいき」(中)

2006-09-26 20:20:07 | Weblog

   第2回「日本の心・さいき」

   「日本の心・さいき」の会の会長  田原 正英

 皆さん、こんにちは、韓国語では、ヨロブン・アンニョンハシムニカ、中国語では、タ-チア・ニ-メン・ハオ、インドネシア語では、スラマ・シアン・サゥダラ・サゥダラ(他の言い方もあります)と言います。

 今回、この様に、盛大に開催出来ましたこと、感謝・感激です。多くの人の支援の賜です。佐伯在住のインドネシアの方々、大分大学、別府大学、日本文理大学、日本文理大学附属高校、韓国留学生・学生会長の鄭恩叔(ジョン・ウンスク)さん、大分韓国教育院長の孫在奉(ソン・チェボン)先生、佐藤佑一市長、市議会議員田中利明氏、市役所の方々(特に、国際交流課)、茶道裏千家鎌田宗百教授、鎌田社中の方々、国際書芸展副会長・東九美術書道会長の三田井筑翠先生、和太鼓の赤松裕文氏・広瀬文久氏、若鮎子ども太鼓の子ども達、佐脇計志先生、佐脇武先生、池田有三先生、島田喜和子先生、南海病院で金曜日に練習されている太極拳の方々、その他、多くの賛同者の協力の賜の結果です。ありがとうございました。

 150人程の外国の人が、一斉にこの佐伯に集まって頂いたこと、夢の様です。この会場では、日本人の数と外国人の数、差がありません。見方を変えると、ここにいる人、皆、お互いに、外国人、国際人となります。

 インドネシアでは、イスラム教徒の人が、全体の9割近くもいます。湾岸戦争でのイラクの行動で、イスラム教と言った場合、日本では、変なイメ-ジが、マスコミにより、植え付けられて来ている感じがしています。イスラム教徒の多いインドネシア、政局の安定していないインドネシア、恐らく、多くの日本人は、今も、誤ったイメ-ジを(私がかってそうだった様に)持っているのではないかと思います。しかし、実際に、インドネシアの人に接して下さい。インドネシアに付いてもっと詳しく調べてみて下さい。世界の中で、5~6人に1人が信じているイスラム教に付いてもっともっと勉強してみて下さい。そこには、今までと違った、全く別の世界を発見するに違いありません。インドネシアの人だけでなく、韓国の人、中国(中華人民共和国)の人、台湾(中華民国)の人、香港の人、ミャンマ-の人、ブラジルの人、直に接してみて下さい。
 如何に我々が誤解していたかが、よく理解出来るはずです。

 平成9年12月13日(日)に、城南公民館で、佐伯市に在住している20人のインドネシアの方々と、国際交流をしました。お粗末な第1回の「日本の心・さいき」でしたが、インドネシアの人にとても喜ばれ、又、それを機会に、インドネシアの人と頻回に接する様になりました。そして、気が付きました。今まで、如何にインドネシアの人に対して過った考え方を持っていたかを。与えるはずが、逆に、私自身が多くのことを彼等から学ばせて頂きました。

 日本では、同和問題が、今も教育委員会などで大きく取り上げられています。しかし、それ以外に、差別の問題は山積しています。国際交流の言葉が、昨今頻回に耳にしますが、まずは、身近にいる人から、身近な国から始めるべきではないでしょうか。現在、インドネシアの人が、佐伯周辺に50名前後も在住しています。

 今も、韓国は近くにあって遠い国です。しかし、いつまでもこの状態でいい訳がありません。私自身、韓国語の学習の過程で、韓国の先生方に接して参りました。ある韓国の留学生の方が次の様に言われました、「大分に来ている韓国の人、皆、同じ間違いに気が付いている。日本を誤解していた」と。

 多くの日本人が、行政やマスコミにより、韓国やロシアやインドネシアやアフリカに対して、変なイメ-ジを植え付けらています。例えば、アフリカと言えば、貧困のイメ-ジで考えがちです。もちろん、そんな国も現存しますが、そんな国ばかりではありません。モロッコに1年間住んでいた私の同級生が言いました、「モロッコ、もちろん、言葉は、アラビア語かフランス語で、食事とか違うけど、佐伯とそんなに違わないよ」と。ガ-ナに1年間住んでいた私の英会話の先生が言いました、「ガ-ナの大学に行ってたんだけど、ストレスもなくてとってもにいい所だった」と。

 アメリカの大学に留学している身内の者が言っています、「アメリカはどんな国と言う質問が一番困る。だって、国が広くていろんな人がいて、言える訳がない」と。イタリアに行くと、それぞれの地域でそれなりの個性があって、その違いの大きさに驚かされるとのことです。

 全国の知事の中で、最も人気があると言われている平松守彦氏は、「20世紀は、経済の時代だった。21世紀は、文化の時代になる」と言われます。明治維新以後、モノとカネがあれば、立身出世をすれば、人間は幸せになれると信じていました。富国強兵を推し進めれば、日本が豊かになれると思っていました。終身雇用、年功序列的な考え方で来ました。しかし、今の時代、それで乗り切れないことに、多くの人が、気が付き始めています。

 21世紀は、「心の時代」になると思います。そうならなければ、地球の生き物全部が滅んでしまいます。相手を核で攻撃すれば、いつかは、その後遺症で自分も滅んでしまいます。それは、誰の目にも明らかです。他人との競争からは、真の思いやりの精神は生まれません。共生の時代になるべきです。人と人との間だけでなく、人間は自然とも上手に調和を保って生きるべきです。ヒトも自然の一部であるし、又、宇宙空間の一部なのです。

 ライオンなどの肉食動物は、目の前に獲物がいても、お腹がすいていなければ襲いません。日本の様に、人口密度が高く天然資源が少ないのに、飽食傾向にあって、大気汚染の進んでいる国では、世界に先立って、モノやカネに対して、不必要最大限を求めることを止めて、必要最小限で満足するべきではないでしょうか。

 故・相田みつをさんは、「奪い合えば足りぬ、分け合えば余る」と言います。


 21世紀を素晴らしい時代にする為のキ-ワ-ドは何かと問われれば、私は、即座に、「子ども」「自然」「国際交流(外国語)」「日本文化」「インタ-ネット」の5つ、と言います。

 子どもは未来です。好奇心に溢れています。意欲があります。瞳が大きい為に、目が輝いて見えます。大人顔負けの夢があります。先天的に、国際交流外交官的存在です。頭が柔軟です。しかし、そんな子ども達も、恐ろしいことに、子どもを取り巻く環境でどうにでも変化します。

 佐伯から出ない人には、佐伯の良さは、よく理解出来ません。佐伯から出て、やっと、佐伯の良さに気が付きます(私がそうでした)。日本の良さは、外国に行って、よく理解出来ます。外国に行けない人は、外国の人と接することで、少なからず理解出来ます。地球の良さは、宇宙に出て、よく理解出来ます。現に、月に行った宇宙飛行士の多くは、宗教家になっています。そこに神を見たと言う人もいます。宇宙船ミ-ルで9日間過ごした秋山豊寛氏は、「俺が生まれた星というのは、こんなきれいな星だったのか。地球に戻ったら、俺は地球を修復しよう、少なくとも、地球を傷つけないことについて真剣に考えてみるべきだ」と言って、現在、農業を営んでいます。

 幸い、佐伯は、多くの人の憧れの土地になっています。外国の人に尋ねてみて下さい。恵まれた自然と共にある佐伯です。国道10号線は、市内の中心からそれ、佐伯市のシンボルの「城山」が、どかっと、中心に位置しています。その城山では、朝、鹿を見ることが出来ます。夜は、ムササビを見ることが出来ます。国の天然記念物に指定されているオオサンショウウオを見ることも出来ます。九州で2番目にきれいな河川と言われている「番匠川」が、肥沃なデルタ地帯を形成して、新鮮な野菜が栽培され、シラウオやアユも捕れます。佐伯湾周辺の「海岸線」は、きれいで、日豊海岸国定公園でもあります。海流の関係で、魚は特別においしく、県外からも、それを求めて来る程です。活断層もなく、台風の被害も少なく、造船業が盛んな所です。水不足もありません。冬は暖かくて、雪が積もることはなく、夏は涼しくて、四季を通じて、非常にしのぎやすい地域になっています。それに、佐伯の人は、溶け込んでしまうと、情が実に深いのです。

 今の日本では、いいことは、強調されなくて、悪いことがクロ-ズアップされています。例えば、日本の乳児死亡率、世界一がずっと続いています。しかも、昨年度は、大分県は、全国一、いい県でした。佐伯の救急医療は、ピカ一で、10万人足らずの佐伯周辺の人口で、これほどに救急医療が発達している所、全国的に実に珍しいことなのです(佐伯の人は、永いこと、慣れてしまっていて、さほど、この救急医療の有り難さを感じなくなってしまっています?)。不登校の数も、大分県は、全国的には、極めて少ない県の一つになっています。

 「子ども太鼓」に関しては、佐伯には、4チ-ムもあって、5月17日の佐伯でのサッカ-の試合前に、30名近くもの佐伯の子ども達が、一緒になって、立派に和太鼓演奏をしています。子ども達のお茶の取り組みも盛んです。春祭りには、ますらお(男)茶会、国際茶会(インドネシアの人がお点前をし、佐伯の人が、頂きました)に、「子ども茶会」(学校茶道を数に入れると、回数は、既に、10回を越えています)が、汲心亭で行なわれました。

 佐藤佑一市長は、そんな今の佐伯を、「海洋都市であり、文化都市でもある佐伯」と、言われています。
 そんな素晴らしい佐伯を、多くの人に、再認識して頂きたいと思います。佐伯には、世界に誇れるものが、しっかりあります。佐伯には、子どもから大人まで、いい日本の文化が育っています。日本の文化には、人として生きる「道」が内蔵されています。

 大分県のコアラの活動は、かなり前から、注目されていました。しかし、コアラだけではありません。佐伯にも、ミ-ルを始め、パソコン通信が盛んになりつつあります。インタ-ネットでのホ-ム・ペ-ジを利用すれば、多額のお金を掛けなくて、世界に発信することが出来ます。

 話は、長くなりますが、ここで、日本と言う国、日本人の考え方、生き方に付いて、考えてみたいと思います(私の偏見も、多分にありますが・・・)。
 地球上での日本の地理的位置は、北半球でも、南半球でも、その同じ緯度では、その多くは、砂漠になっています。日本が砂漠になっていないのは、高くそびえるヒマラヤ山脈の存在の為で、インド洋からの湿った大気の流れが、このヒマラヤ山脈にぶつかり、それが偏西風に乗って、島国の日本に湿度や雨をもたらしているからです(アメリカには、梅雨は、ありません)。

 日本の特徴は、細長い島国であることです。島国は、イギリスと似ていますが、イギリスには、暑い夏がありません(冷房装置がありません)。しかも、イギリスと違って、日本の場合、外国からの攻撃を、さほど深刻考えなくて、歴史が進んでいます(今も、そんな所がありますが)。しかし、日本人の多くは、昔から、島と言う意識を、強く意識して来ています(今も、日本には、島国根性と言う言い方がよく使われています)。

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「日本の心・さいき」(上)

2006-09-26 20:06:17 | Weblog
第2回・「日本の心・さいき」(The Spirit of Japan in Saiki)


  世界の子ども達の健全な発育を願い、

  世界平和を強く切望し、

  人間同志だけでなく、

  自然とも、うまく共存して生きて行くことが、

  今の時代には、極めて大切だと考える人達、

  ここに、集まって下さい。


平成10年5月31日(日)
場所 三余館大ホ-ル(お茶会は、1階の実習室)
後援 佐伯市、佐伯市教育委員会


   第2回「日本の心・さいき」での実際の内容

場所:佐伯市三余館
日時:平成10年5月31日
10:00~18:00

1、「国際茶会」(10:00~14:00) 鎌田社中・たはら教室
      亭主:ジャミ-ル、トモ、小学生2人(4年生と5年生)
      後見人:鎌田宗百教授、田原宗正
      立礼(三余館1階実習室)          
      *お菓子は、(田原清子の)手作り
      一服 300円(チャリティ-)

2、挨 拶(13:00~13:30)
      会長
      佐伯市長・佐藤佑一氏
      インドネシア共和国大使館・教育文化部長ウィネトウ・ノワウィ
      大分韓国教育院長・孫在奉先生

3、講 演 「日本と韓国」(13:30~14:30)
      大分韓国教育院長・孫在奉先生 

4、書道披露 (14:30~14:50)
      国際書芸展副会長・東九美術書道会長三田井筑翠先生
      (インドネシア共和国大使館・Bapak WISBER・LUEIS大使、
       ウィネトウ・ノワ ウィ氏、孫在奉氏に、三田井筑翠先生より、
       作品贈呈)
      *今年の国際書芸展で文部大臣賞を取得された三田井先生
       の奥さんの解説入りで、三田井筑翠先生の筆により、7枚、
       デモンストレ-ション(初めの2枚に、インドネシア語で、スラ
       マッ・ダタン・ディ・サイキと、韓国語で、オソオセヨと書かれる)

5、仕 舞 (14:50~15:00)
      鎌田宗百教授

6、琴演奏(15:00~15:10) 「さくら・さくら」
      菊島社中(第1琴、第2琴、独奏)

7、インドネシアの舞踊(15:10~15:20)
      佐伯在住のインドネシア共和国の研修生

8、和太鼓演奏(15:20~15:35)
      「番匠奔流太鼓、屋台囃し、女組の3曲」
      若鮎子ども太鼓(会長:大太鼓)

9、インドネシアの舞踊(15:35~15:45)
      佐伯在住のインドネシア共和国の研修生

10、国際語会話(15:45~15:55)
      インドネシア語・韓国語・中国語
      会長・貴田兄弟
  
11、日本舞踊      「黒田節」
     島田喜和子先生

12、ギタ-演奏・歌
     貴田、ワンダ、ジャミ-ル

13、極真空手披露      板割り等、あり
     佐脇武先生、インドネシア共和国の研修生、他

14、簡化太極拳       「荒城の月」の曲で
     藤田春代先生、会長、他

15、佐伯音頭と炭坑節とばんば踊り
     盆踊りの和太鼓打ち手は、顧問、貴田(修)、赤松(勝)、会長、尾崎
     *全員が、輪になって、踊る。

16、日本舞踊     「いたこあやめ」
     鄭恩淑さん

17、蛍の光
     顧問、インドネシアの研修生、会長
     *日本語、英語、インドネシア語、韓国語で

18、挨 拶
     孫在奉先生
     ウィネトウ・ノワクィ氏
     会長

19、万歳三唱
     鎌田宗百教授(平成10年5月10日に、
     自分の喜寿のお祝いのお茶会と宴会を、
     県外からも、235名も集めて、開催した、
     茶道歴60年、学校茶道33年の経歴の先生)
     太鼓打ち:会長

*司会者は、ケ-ブルテレビの女性の専属司会者が、又、間のト-クが、会長の田原、顧問の貴田により、行なわれた。
*インドネシア共和国大使館の教育文化部長のウィネトウ・ノワウィ氏は、広報官のモハマッド・クスマン・ブルハン氏と、通訳のダフラン氏と共に来佐した。
*写真:池田有三先生、ビデオカメラ:田原恵子・田原久八郎、
 総務:矢野倫康、
 受付: 日本文理大附属高校
 (1年生の井手志保・河野亜希子、2年生の高橋智子・近藤乃梨、瀬良和美)。
*平成10年6月2日の西日本新聞に記載される。
 ケ-ブル・テレビで、放映される。
 


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今の時代は、・・・

2006-09-26 11:51:46 | Weblog
  昨日遅く、大分県に帰って来た。帰る直前、勘違いしていて、医師会の学会に出すべき抄録を書いていなかったことに気が付いた。期限が、昨日までだった。  
 で、今日、それを書き、ファックスで午前中に送り、メイルでも送った。便利のいい時代だなあ。どこにいても、それなりに、仕事が出来る感じだ。  
 ある会社の社長が、殆ど会社にいなくて、ゴルフなどで忙しい日も、ちゃんと、それなりに、社長のメッセージが社員に通達されていた。  どういうことかと言うと、ゴルフをしながら、秘書が社長の言うことをメモしているのだ。で、それが、社員に通達されているのだ。  
 ある社長は、社長室を持っていなく、常に、パソコンを持ち歩いているとのこと。今は、そんな時代になっているのだなあ・・・。


 以下は、今日、病院に送ったもの。
当院小児科外来での時間外患児「1.188名」に付いての統計に付いて
         小児科部長  田原 正英
要旨:平成17年9月1日~平成18年6月30日までの10カ月間の当院小児科時間外患児の統計を執ってみました。総数は、1188名で、性別・年齢・現住所・重症度などを、分析してみました。他の施設と同じく、女児よりも男児が多く、年齢別では、3歳までで59%を占めました。月別では、他の施設と同じ様に、冬の1月~3月が多く、それ以外の月では、さほど差がない様に、思われました。時間帯別では、土曜・日曜・祝日の数が、想像していた以上に多く、全体に占める割合が、それぞれ、14%、30%、21%となり、日・祝日だけで、全体の半分を占めていました。深夜(22時00分~6時00分まで)は、145名で、全体の約12%でした。現住所別では、地元の龍ケ岳町で、全体の34%を占めました。大矢野町からは、全体の11%でした。重症度別割合では、「小児科から診ると急患ではないが、親御さんにとっては急患の場合」(重症度Ⅲ)が、全体の4割を占めていました。  当院の重症度別分類では、軽い順から、5段階に分け、喘息や嘔吐や顔色不良やけいれんは、「小児科医から診ても、急患の場合」(重症度Ⅳ)つまり、当然の急患としています。熱で、顔色悪く、ひどくきつがっている時は、ウイルス性でなく、細菌性のこともあり、やはり、当然の急患(重症度Ⅳ)にしています。救急処置として、外来で、熱には、黄連解毒湯を、嘔吐には、五苓散など、漢方薬をしばしば使用しています。平成18年7月末より、小児科医二人体制になっています。
当院小児科入院患児「238名」に付いての統計
           小児科部長 田原正英               
要旨:平成17年9月1日~平成18年6月30日の10カ月間の、当病院小児科入院は、総数238名で、入院中の死亡は、幸いになく、他の医療機関に送った数は、5名(新生児の先天性肺炎、無気肺+肺炎+アデノウイルス感染症、2カ月のウイルス性髄膜炎、2名の細菌性髄膜炎)、救急車にての来院数は、9名でした。年齢別入院患児割合では、3歳までで、全体の76%、7歳以上は、10.5%でした。月別分析では、小児科医により診療再開したのが、平成17年9月であった為、9月は普段の半分で、いつもは多いはずの12月~3月が、インフルエンザの流行が前にずれた為、極端に多いことはなく、むしろ、4月~6月の方が、多くなっていました。入院在院日数別患児割合では、2泊、3泊、4泊の順に多くなり、4泊までで全体の63%、7泊まででは92%でした。入院時間帯別患児割合では、月曜~金曜の8時30分~18時00分までの時間内に入院した患児は、全体の55%になり、日曜・祝日に入院した患児は、全体の21%になり、深夜入院は、6%でした。当院深夜は、当直医のコールで、小児科医が診ています。現住所別入院患児割合では、地元の龍ケ岳町が23%、松島町20%、姫戸町16%、大矢野町10%、上天草市でない御所浦町が14%でした。疾患別入院患児割合では、RSウイルスによる細気管支炎の流行が多く、全体の14%、以下、気管支喘息13%、急性肺炎10%の割合でした。しかし、一番多かったのは、新生児の総計でした。病棟では、熱できつがる患児には、黄連解毒湯でしばしば解熱させています。又、ウイルス性髄膜炎の治療として、当院では、葛根湯と黄連解毒湯の注腸で、ルンバールなしで軽快させています(10カ月の間に、ウイルス性髄膜炎9名中、紹介患児1名のみルンバールを施行)。平成18年8月より、小児科常勤医二人体制となっており、地域医療に少なからず、貢献できればと願っています。

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平 和

2006-09-25 22:23:49 | Weblog
佐伯市とホノルル市が、友情都市の関係になり、その為に、フレンドシップシティ調印式が、平成15年12月8日に行われることになり、市長以下佐伯市民約40名が、その調印式の為に、参加した。
 この時、私は、5カ所で、演奏することが出来た。

・12月7日の午前中、「カネホヘ空軍基地」の飯田中佐の墓の前で。
・12月7日の午後、「パンチボウル(共同墓地で、普段は、車は、走行中に、止めることが出来ない程の神聖な場所)」の頂上で。
・12月7日の夜、松尾ハワイ親善大使の自宅で。
・12月8日の午前中、ホノルル市庁舎での「佐伯市・ホノルル市のフレンドシップ調印式」の時に。
・12月9日の夜、最後の集まりで。


 その中で、一番思いで深いものとなったのは、飯田房太中佐(山口県出身、享年25歳)の墓の前での演奏。
 飯田中佐は、自分の飛行機が既に母艦に戻ることが(自分の飛行機の燃料タンクの個所がアメリカ軍に攻撃された為に)不可能と判断すると、まず、部下に帰る方向を指示し、部下が戻って行くことを確認して、自分だけ方向転換して、「カネオヘ空軍基地」の弾薬庫に(相手の被害を大きくする為に)突っ込んで自爆したのである。そんな彼を、アメリカ軍側は、その場所に、墓を作って弔っていた。アメリカ軍の心温まる厚意に感謝すると共に、若くして部下を思い、国を思い、戦争の為に、尊い命を無くした、名も知れぬ一人の日本人の存在を知って、私は、(上手に吹こうとか、格好良く吹こうとか、そんなことは、全く頭にない状態で)その時の状況を察しながら、彼のことを真剣に考えて、(太鼓の黒い服に着替えて、靴も換えて)心を込めて演奏した。
 小雨の降る中、篠笛から「さくら」の曲が流れた。ある女性(60歳)は、言った「先生、涙が止まらなかった。」と。又、ある男性(57歳)は、言った「自然と涙が出て来た。」と。そして、ある年配の人(ウナバラカイの会員の人)は、「飯田中佐は、こんな所まで見知らぬ日本の人が来て、自分の為に演奏してくれたことに対して、凄く喜んでくれたと思いますよ」と。
 今まで、あちこちで演奏して来たが、この時ばかりは、今までと違った感じに思えた。
 その後、その時から、凄い大雨となった。1996年以来とのことで、高速道路の一部が通行止めとなり、子どもが4名流され(幸いに、助かったが)、今まで断水で苦しんできたホノルル市が、全く逆の状態となった。
 同行していた教育長は、私に言った。「先生、これは、彼の涙ですよ。嬉し涙ですよ。」と。

 私は、帰る前の日の午前中、ホノルル市の大きな動物園に行った。そこで、象を2時間近くも観察していた。2頭の17歳と28歳の象がいた。丁寧に体を洗ってもらい、食事も与えてもらっていた。飼育の人は、真剣に象の気持ちになって接しているなあと思った。前足を上げる芸(両足を上げていた)もしていて、見ている人が拍手をしていた。象が歩く時、大きな音がしないのは、つま先で歩いていて、つま先の骨の下に、THICK ELASTIC PADSがある為とのこと。前足で草を集める動作、鼻で目をこすっている姿、笑った感じの目、象は、いろんな表情をする。象は、サバンナの中では、一番強い動物。あのライオンの群れも、象の群れには、かなわない。
 そんな象が一番恐れているもの、それは、・・・象自身である。それを、如実に確かめることが出来た。
 草を飼育係の人が与えると、象は、飛んで来るのだが、そこに、小さな鳥がいるので、急にスピ一ドを落としてしまう。それを私は何回も確認した。鳥を踏まない様にと、あの大きな巨体の象は、気を使っているのである。又、もう一頭の象が食べてる草を決して横取りして食べようとはしない。象は、とっても優しい動物で、争うことを嫌い、自分の強い力を恐れているのである。
 人間も、象から見習うべき所が多いと思う。上の立つ人間、力のある国、もっと、思いやりの気持ちを持って進んで行って欲しいものです。



以下は、平成15年12月4日の西日本新聞に掲載された内容。

真珠湾攻撃
 1941年12月8日(米現地時間7日)、空母を主力とした旧日本海軍の連合艦隊を飛び立った攻撃機が、米ハワイ・ホノルル市の米軍太平洋艦隊を攻撃。戦艦4隻を撃沈し、米兵約2300人が死亡。真珠湾攻撃を引き金に太平洋戦争に突入した。佐伯市史などによると、連合艦隊は11月上旬、佐伯湾を真珠湾に見立てた最後の訓練後、佐伯湾を出航。北海道・択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に集結し、真珠湾へ向かったとされる。


 「真珠湾」平和の砦に 出撃地・佐伯市 ホノルルと友情都市 9日締結 日米元軍人の交流が縁


 太平洋戦争の引き金となった真珠湾攻撃から六十二年。連合艦隊の主力部隊が出撃した大分県佐伯市と米ハワイ・ホノルル市が九日(米現地時間八日)に「フレンドシップ・シティー」(友情都市)の調印を行う。イラク情勢の泥沼化やテロの多発など国家、民族間の紛争が絶えない中、真珠湾攻撃の“怨讐(おんしゅう)”を超え、地方都市から平和の砦(とりで)を築いていく。

 両市を結んだのは、佐伯市在住の旧海軍パイロット、赤松勇二さん(83)。真珠湾攻撃で米戦艦に魚雷を投下した。

 戦後五十年の節目を迎えた一九九五年八月。ホノルル市であった日米合同慰霊祭に招かれた。真珠湾攻撃で九死に一生を得た元米兵リチャード・フィスケさん(81)と出会い交流が始まった。

 「二十一世紀にわだかまりをひきずってはいけない」。赤松さんは地元の子どもたちをハワイに連れていくなど草の根交流を続けた。二人の行動に行政も動かされた。佐伯市が友情都市締結を持ち掛ける親書をホノルル市に送り、「歓迎」の返事が今年六月に届いた。

 佐藤佑一・佐伯市長を団長とする訪問団は五日、ハワイへ出発。パールハーバー式典に出席した後、九日(現地時間八日)の調印式に臨む。

 両市で交わされる「平和友好交流協定書」は「真珠湾を共有する両市が英知を結集し、ミニサイズの交流推進に努め、世界に向けて平和友好交流の範を示す」とうたっている。佐藤市長は「不安定な国際情勢のなかで、世界中の人々に力強いメッセージを送りたい」と平和交流をアピールする。

 フィスケさんは九七年、佐伯市の平和祈念館にネムノキ四本を贈った。そのネムノキは今年五月、初めてピンクの花を咲かせた。

追加:残念なことに、赤松さんもフィスケさんも、故人となられています。ご冥福をお祈り申し上げます。




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篠 笛

2006-09-25 07:38:57 | Weblog
 小学校の時、家にプラスチックの横笛があった。学校では、音楽の時間は、縦笛で練習していたが、自分は、その横笛の笛で吹いていた。
 私は、小学校の時から、皆が縦と言っても、横と言うことが多く、確かに、変人だったと思う。
 小学6年生の時、担任の先生に少し反感を持ったことがあり、その時、1日中、手を全く挙げなかった。翌日、担任の先生がクラスの皆の前で、「昨日、田原君は、1日中、全く手を挙げなかったが、あんな事も、時には、いい」と、言ってくれた。
 笛に関しては、自己流で、ずっとして来ていて、太鼓演奏で、どうしても笛が必要になってきたので、笛も始めることにした。
 習い始め、どうしても、先生の様に、きれいな音が出なくて、悩んだ。暇があれば常に練習していた。しかし、どんなに努力しても、先生の様に、人の心を奪う感じの音色は、出なかった(当たり前だが)。
 そんな時、大分の能楽堂で、「横笛の会」が開催された。大分県下の百桂先生から教わっている弟子が、そこに沢山集まった。地区別で、それぞれ演奏して行った(会場は、満席で、催しは、大成功だった)。佐伯地区は、7人で、「浜辺の唄」を演奏した。
 福原流の元祖、福原百之助先生(人間国宝、東京芸大の名誉教授)やプロで有名な女性の福原百華先生、そして、百桂先生も、演奏された。
その3人の達人の音色を聞いて、私の悩みは、完全に吹っ切れた。
 「百之助先生のは、正に、奥の深い、さびとわび。百華先生のは、正に、澄み切った感じで、フルートの音色に似て、優しい感じ。そして、百桂先生のは、その両者を持っている。そうだ、自分の味を出し切れればいいのだ。まねをしなくていいのだ。三人共、全く違う世界ではないか。」
 百之助先生の本には、「どんなに技術的に上手に演奏できても、40歳以上にならないと、なかなか、相手の心に届きにくい。それまでのその人の豊富な人生経験が最も大切。何故なら、笛は、心であるから。ちょっとでも心配があったり、反対に嬉しいことがあると、それが笛の音に微妙に出る。笛は、同じ6本調子の笛でも、一本一本、違うし、笛を吹く人の体型や口の形でも違ってくるし、そその時の気分や体の調子でも、違ってくる。外気の湿度や温度でも、当然、違ってくる」と言った内容のことが書かれていた。
 今日も、笛を吹いた。目をつぶって吹くことが多い。無の状態になろうとするが、凡人には、出来ない。しかし、時々、自分の音色を聞いて、涙が出ることもある。同じ仲間にも、そんな人、少なからずいる。
 篠笛は、私にとっては、寂しい時の友であり、又、精神安定剤でもある。

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