日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

27年間の年末年始の個人的統計

2007-07-31 16:16:45 | Weblog
個人的に、年末年始の統計をずっと執り続けてきています。勤務する病院が、救急病院・医療法人「西田病院」→「たはら小児科医院」→救急病院・財団法人「高木病院」→救急病院・特定医療法人「天心堂へつぎ病院」→上天草市立「上天草総合病院」となっています。まる1年間、海外中心の生活をしていた時以外は、年末・年始は、勤務先では、自分が中心になってしてきています。多くの人の犠牲でそれが出来たと今は、しみじみ思っています。
 年末・年始は、西田病院の時は殆ど大学からの援助はなく、たはら小児科の時は全くなく、高木病院の時は5人でし、天心堂へつぎ病院の時は3人でし、上天草総合病院の時は2人でしてきています。それに、西田病院と高木病院と上天草総合病院では、新生児・未熟児医療も、同時にしてきています。
 多くの人の支えがあったからこそ、ここまで来れています。しかし、今後は、集約化にもれた所は、少ない人数で乗り越えないといけません。そんな無理を続けていると、先々は消滅の運命にあります。自分がしてきたからと言って、他の小児科医に強いることは出来ません。今は、そんな時代ではありません。もしも、睡眠不足でトラプルが起きた場合、刑事沙汰になる時代。
 そう思いますと、これが長く続けられているのは、医療従事者のみならず患者さん側の理解が大きかったと思っています。
 いい医療の継続は、良識ある患者さんが為し得ることでもあると思っています。
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070731/2

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政治の在り方

2007-07-31 07:07:41 | Weblog
 安倍首相が続行を続ける理由に、「自分の決めたことを最後までやり通す責任があるから」と言う。しばしば、「国民の為に」と言う。はっきりと非を認めている人が自民党の中にもいるのだが、(言えないのか)少ない。公明党も、自民党に迎合している。
 こんな感じで、軍部が台頭してきて、第2次世界大戦が起きたのかなあと思った。第2次戦争大戦中も、日本は資源がないし、とてもアメリカには勝てないから、早いとこ止めたらとの意見もあちこちで現実にあったのに、報道が規制され、嘘の報道が流れ、撤退と言う否定的な言葉がタブ一となっていた。
 そして、予告なしに核を落とされ、多くの人が犠牲になり、日本人がやっと目覚めた。
 今の政治の在り方、少し似ている気がしないでもないかな。

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裸の王様

2007-07-30 12:20:31 | Weblog
 選挙が終わった。やはり、自民党は負けた感じだが、40を切ると思っていた人は、少なかったと思う。
 投票率が6割も行かないのは、何故かなあ?しがらみの強い日本の選挙では、誰がなっても大差ないと思っているのだろうか?そうだとしたら、もっと一般の人の意見が反映される様な政治に変えないといけないなあ。
 自民党が、社会党とくっついたり、公明党が野党と思っていたら、今は、自民党とくっついている。何か、割り切れないなあ。民主党も、党首が体の調子が悪くて、表に出れない。政治家も、体力のある人でないと、困る。
 民主党が勝ったと浮かれている場合でもない。参議院で野党の数で、自民党案が否決されても、衆議院で自民・公明が3分の2占めていれば、いくら野党が参議院で頑張っても、否決される。
 公明党がカギを握っている気もする。又、自民党の中にも、舛添さんの様に、客観的に発言する人がいるのは、喜ばしいこと。
 美しい国作り案に、国民は付いて行けない。教育も、医療も、急ぎ過ぎだ。憲法まで、変えようとしている。根本的なことから変えることが出来ない今の政治の在り方、これが問題だ。
 しがらみのない政治家が沢山出て来て、その人達が政治を動かして欲しい。舛添さんなどを中心とする自民党の一部と民主党(内部は、自民党以上に複雑との意見もあり、大きくなれば、それなりに分裂しそうだが)と宮崎県知事の様に多くの人から支持される政治家などが一緒になって、新しい党が作れたらいいなあと私自身は、思っているのだが。
 今回は、国民は、いつもよりは、より上手に政治家を選択した様な気がしているが・・・。



安倍首相は、続行すると言う。これ程までに大敗してもだ。その点、虎之助さんは、潔いなあ。人間、生きる上で潔さも大切だなあ。その点、フィギャ一スケ一トの荒川さんや、歌手の山口百恵さんや、小泉さんも、それなりの評価が与えられるべきかな。
  しかし、今までの様に、自公民が強行採決ばかりをしていては、国民からそっぽを向かれてしまうだろう(公明党は、堅い組織票があるので、ちょっと違うかな)。いつも反対ばかりのイメ一ジを野党が与え続ければ、次回の衆議院は、やはり又自公民の勝利となるだろう。
  まともに審議をし、法案をよく練って通してもらいたい。いつも法案が参議院でブロックされて通らない感じになれば、今年中にでも解散総選挙と言うシナリオにならざるを得ないだろう。
  多くの人が付いて行っていないのに、自分の考えを傲慢に押し通そうとする、正に裸の王様みたいにな人、周りに時々いるかなあ。特に、長が付いている人に多い様な気がする。師が付いている人も、同じかなあ。
  自分も気を付けた方がいいのは、確かな様だ。

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為になるかも知れない本(その164)

2007-07-30 06:55:02 | Weblog
○昭和53年7月12日(水)晴。
 カゼを引いて頭が痛かった。心音図の検査をする時、頭がとても痛くてきつかった。熱があるだろうと思いながらも頑張った。15時から前から予約していた歯科に行って前歯2本が何と一度で終わった。
○昭和53年7月13日(木)晴。
 S'君と当直を変わってもらった、昨日が今日になった。熱が37.8度あった。きつくて病院で横になっていた。頭が痛いヨ一。○○先生のをもらったのだろう。○○先生も、きつそうだったなあ。アスピリンを服用した。学生の教育は全くしなかった。
○昭和53年7月14日(金)晴。
 カゼが何とか治った感じだ。専門2年生の人の教育をバッチリしてあげた。昨日は何にも教えなかったもんなあ。専門3年生の人達は外来にいなくて、口頭試問でポリクリも終わっていた。疲れたなあ。学生の教育って疲れるよ、全く。来学期からはどうしようかなあ。最後の1週間だけ徹底的に教えるようにしようかなあ。
○昭和53年7月16日(日)晴。
 当直明けであった。お腹の大きい恵ちゃんと一緒に二人で夜フラフラと出掛けて食事をして、喫茶店にも行って夜遅くなって帰った。お金が沢山いってもうちのお嫁さんは気にしないんだから、その癖10円でも安い物があると血眼になって買っている感じだ。まっ、それでも、今の僕達は、お金で困っていないからいいけど。それにしても、お腹が大きいなあ。この暑いのに、後2カ月も大きなお腹を抱えていないといけないのか。
○昭和53年7月18日(火)晴。
 ○○君(肺動静脈瘻)の気管支動脈撮影をした。ハロセンと酸素を使って、僕が麻酔をした。このくらいの麻酔なら僕でも出来る。ケタラ一ルの麻酔は怖いなあ。H教授の回診があって、いつも、「主治医の先生がちゃんとしていますから」を連発している。毎日うだるような暑さだが(宮崎は、暑いヨ一!)、病院の中は涼しくていい。県病の外来は、冷房が効いてなくて暑かったなあ。
○昭和53年7月19日(水)晴。
 聴診器で、お腹の子どもの心音を聴いた。右下にあるので、第2頭位だなあ(しばしば、この後も聴いていた)。
○昭和53年7月20日(木)晴。
 ○○さんのファロ一のオペを見た。何と、夕方に心停止を起こしたと言う。大学では、術後管理は、全て外科系がする(県病では、全て、脳外科以外は、小児科)。
○昭和53年7月21日(金)晴。
 今日も明日も、○○、○○の都合で、連続当直になった。今日は悲しいことが2つあった。僕が心カテをしたファ一四徴の子が、朝外科に行ったら亡くなっていた。肺動脈が小さかったのだ。下に行って合掌してきた。一人っ子だったので、とても悲しいだろうなあ。又、○○君(心室中隔欠損)がとうとう亡くなってしまった。○○君は、(自分は主治医でなかったが)僕にだけ「先生」と言っていた。


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原発の事故

2007-07-29 17:37:27 | Weblog
 地震で、柏崎の原子炉の事故が問題になっている。原子炉の場合は、ちょっと間違うと、かってチェリノブイリ事故であった様に大惨事になる。今でも、ウクライナやベラル一シ一で、甲状腺ガンで多くの人が苦しんでいるのは知っての通り。これから世界あちこちで人類は、石油に変わるエネルギ一として利用して行こうとしているし、その先端に、アメリカと日本がいる。原爆を投下し、投下された国が中心になって、それに、中国やインドも積極的に参加する感じで。
 アメリカでは、銃の惨事が後を絶たない。カナダでは、銃の規制があり、それなりに平和だ。原子炉を持つと言うことは、ピストルを持って毎日を過ごす様なもので、それなりの事故を覚悟しておかなければいけない(例えがよくないとは思うが)。
 免疫学的には、人は、放射線を浴びると、胸腺も骨髄もやられてしまう。つまり、T細胞もB細胞も、やられてしまう。それは、人の遺伝子に前もって組み込まれていない情報。それに対処するしっかりとした遺伝子が組み込まれていないのだ。だから、放射線を大量に浴びた後の免疫不全の状態は、極めて深刻である。それは、広島や長崎の原爆の後の被爆者の状態が示しているし、それを最も良く知っているのは、それに関わった日本人のはず。
 今、日本は、次第に右翼化している。軍備にお金を掛け、憲法9条まで変えようとしている。原子炉があちこち出来て、軍備をあちこちの国が整備して行けば、その力で、原子炉を叩けば、元に戻れなくなる世界になるのではと危惧するのは、私だけではあるまい。


*原発の問題点に付いて、あるサイトでは、以下の如く記載されている。
 原子力発電については、「クリーンなエネルギー」だというように、我が国では一般的に説明されてるようです。確かに「火力発電」に比べれば、煙を排出しないし、窒素化合物や一酸化炭素、炭酸ガスなんぞによる大気汚染の心配はほとんどないと言えるかも知れませんネ。
 それじぁア、原子力発電所の運転そのものの危険性はどうなンでしょうか。ソ連のチェルノブイリ原発事故・米国スリーマイル島の大事故、また、私達の国でも"もんじゅ"で発生したナトリウム火災事故など、けっこう頻繁に事故が起きていることも事実。しかし、事故については、センサーやモニター、緊急自動停止装置の充実・構成部品等の材質や性能の向上・定期検査方法の改良・運転技術のレベルアップなんぞが十分に出来るンなら、防止することや被害を最小限に食い止めることが可能とも言えるでしょう。しかし、「人間はミスを犯す生き物である」とも言いますネ。先頃の「JCO」の事故は典型的な例でしょう。
 しかし、原子力発電の最大の問題は、「高レベル放射性廃棄物」を出す事が避けられない点です。半永久的に地球上に残ってしまうンですから。これを「安全」に処分するのは、現段階の技術では困難を極めるみたいです。それじゃア、何故困難なのか、その訳を以下に述べさせてもらおうと思います。
 「高レベル放射性廃棄物」は、現在、ガラス固化体としてステンレス容器に封入され、大きさは、ほぼ1メートル、ガスボンベぐらいです。けれども、この「危険性」が問題なンですネ。動燃副理事長が '84年の衆議院科学技術委員会で参考人として次の発言をしてるンですヨ。
「高レベル放射性廃棄物のガラス固化体一体に相当するキュリー数(放射能)は、低レベル放射性廃棄物のドラム缶の《数百万本くらい》に相当するかと存じます」
 具体的にいうと、高レベル放射性廃棄物のガラス固化体のそばに30秒間立っていると、確実に命を落とすレベルなのです。これほど危険なものを数千本から数万本(2.030年には7万本になるとも言われます)、40年~50年間、冷却のために六ヶ所村で保管し、その後地下に埋設(これは、まだ技術的には確立されていない。場所も未定)するという手順になっています。まさに、後世代への『危険なツケ』の先送りと言わざるを得ないでしよう。
 金属容器は必ず腐食するから、この「高レベル放射性物質」が漏れだすとすると、かなり地中深く埋設したって、地下水を経由して地表に滲み出しちまうンです。付近の人達は、放射能に汚染された水を飲み、風呂に入り、農作物にも使用することになるンです。
 だから、「高レベル放射性物質」の最終処分場の決定には、充分な安全性を確認する必要があると言えるンです。特にこの国は地震国だし、活断層の問題をクリアーしなけりゃアならないなんぞ、技術的にもの凄く困難を極める問題なンだという認識を持たなきゃアなりません。
 こんな「危険性」や、「埋設後の問題点」について、私達は、どれだけ知っているンだろう。「高レベル放射性廃棄物のガラス固化体」に換算した、我が国原発による放射性廃棄物の現在までの発生量は、実に17.000本に達するものと推定されるンです。低レベルのドラム缶に換算すりゃア、なんと17.000×数百万本という天文学的な量なンです。これにゃア驚きますネ。
 「高レベル放射性物質」の最終処分に目途がついていない現状を真剣に考えりゃア、もはやこれ以上「高レベル放射性物質」を増加させられない、いや、もう手遅れとも言える段階まで来ちまっているのがこの国の実状なンです。「原発」の新設をする余裕は皆無と言えるンじゃアないでしょうか?。代替エネルギー の早期実用化やエネルギー効率を高める研究を国を挙げて推進し、既設の「原発」を一日でも早く停止させる手段を講じなきゃアならないでしょう。


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為になるかも知れない本(その163)

2007-07-29 07:49:01 | Weblog
○昭和53年6月24日(土)曇。
 田野に講義に行った。何と前の試験(中間試験)の平均点が69点の高得点で、最高が92点、最低が45点であった。結構難しいと思ったのだが。期末試験は、最低が50を切らない様にしよう。教育とは実に面白いと思う。
○昭和53年6月26日(月)晴。
 又、一週間が始まった。(いつもの様に)外来が始まる前に、学生に講義をしてあげた。研修医が僕ばかりに質問してくる。全く、僕は縁の下の力持ちって感じだ。今日の心カテの結果は、何と動静脈瘻だった(この患者さんの父親は、美術の先生で、今でも、毎年、立派な絵の賀状を欠かさずに頂いている。子どもさんも元気な社会人になっている)。
○昭和53年6月30日(土)雨。
 白血病の子どもを受け持った。マルク(骨髄穿刺)が一度で出来た(グラグラ動かないことを確認してから引くのがコツ)。リンパ芽球が沢山あった。出来れば、元気になってもらって小学校に入学させたいとの内容を親御さんに言った。検査室の○○さんが自分で命を絶ってしまった。驚いた。信じられなかった。午後は、医局ではその話でもちきりだった。可愛い子どももいたのに。真面目過ぎたのだ(マスコミで取り上げられることはまずないが、医療関係者の自殺は、多い。医師の自殺に至っては、普通の人の3倍あり)。
○昭和53年7月1日(土)晴。
 ○○さんのことを考えていた。自分の姿を見ている感じだった。皆の仕事を精一杯背負って、休みも病院に来て仕事をしていた。給料が安いことの不満を僕に言っていた(時間外に、生化学検査でよくお世話になっていたので、ウイスキ一を持って行ったことがあった)。精神的に行き着いてしまったのだ。自分のちょっと前の姿を見ている感じだった。当直の日だった。
○昭和53年7月4日(火)晴。
 (昨日の夜、宮崎空港から東京に着いて)今日の朝、スゴイラッシュを経験して会場に行った。朝の8:30から夕方遅くまで(小児循環器)学会があった。とても難しくて、付いて行けなかった。M先生は、数ヶ月しか東京女子医大にいなかったのに、勉強家でよく頑張ってきているなあと思った(M先生は、どこにいても同じだ。本人のやる気だ。本にちゃんと書いてあるよ。症例はどこにでもあるから、一例一例、カテや手術で確認して、自分の腕を上げていけばいいと常々言われていた)。東京にいる姉の姪の子が大きくなっていた。
○昭和53年7月5日(水)晴。
 二日目の学会、外国人の講演があった。高尾先生など偉い先生方が英会話で話されている。会場の人がドッと笑っている。惨めだった。何故笑っているのか、その理由がわからなくて仕方なく皆に合わせて笑わないといけない自分が。
○昭和53年7月9日(日)。
 あと一週間で学生のポリクリも終わりだ。教育なんかどんなに頑張っても、実績として残っていかない。○○先生は、学生の教育に真剣に取り組んでいる僕にはっきりと言った、「田原君、大学は、ペ一パ一しか評価がないよ」と。しかし、僕は大学は教育を一番大切にするべきだと思っている。いい教育がなおざりにされている大学なんて、存在価値がないと言うのが僕の持論だ。二学期は、どんな風になるかなあ。一学期の様にはもう出来ない。
○昭和53年7月10日(月)晴。
 専門2年の人が勉強に来た。○○先生&○○先生が、僕に教える様に言うのだ。僕が教えなければいけない義務はないと思う。しかし、僕は教育が好きだから教えているだけ。


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暑さの中で

2007-07-28 17:56:48 | Weblog
 熊本市で26日(木)に1泊した時に、暑いと思った。タクシ一の運転手さんに聞いても、熊本市の夏は非常に暑いと言う。何でも、熊本市は夏暑くて冬寒いとか(水は、地下水で、とてもおいしい)。山が邪魔して盆地みたいになっているかららしい。その点、上天草市の自分の住む所は、しのぎやすい。大分県の日田市は、盆地のせいか、夏暑くて冬寒い。私の故郷の佐伯市は、夏涼しくて冬温かい。佐伯で冬に雪が積もること、ないことの方が多い。
 日本の夏は、北海道にしても暑い。日本は、亜熱帯から亜寒帯までの領域になっている。本当は、日本は位置的には砂漠になるはずだが、エベレストの山脈に南からの温かい風がぶつかって、島国の日本に、恵みの雨をもたらせてきた結果だ。
 日本ほど、こんなに温度差の大きい所はないだろうと思っていたが、カナダのモントリオ一ルに行って現地の人から聞いてビックリした。そこでの夏は、昼間が40度以上になり、それに反して、冬も、そこでは零下20度近くまでなるとか。とても暑くても、とても寒くても、その気候に応じていろんなスポ一アツがそこで出来るので、そのことに関しては、特に若者は気にしていないないどころか、楽しみにしているとのこと。
 モスクワの人は、冬のスポ一ツを楽しむ為に、冬が来るのを楽しみにしているとの内容がテレビで放映されていた。
 インドネシアのバリに2年前の夏に1カ月間行った時には、メチャクチャ暑くて、閉口した。現地の人も、こんな暑い時がたまにあると言っていた。
 ヨ一ロッパには、ク一ラ一は、ない。それは、暑い夏は、北風が吹いて涼しいし、寒い冬は、南風が吹いて温かいから。それが狂うと、熱中症で亡くなることになる。
 日本の場合は、暑い夏は、暑い南風が吹き、寒い冬は、寒い北風が吹く。それに、台風の通り道になっていて、更には、いくつかのプレ一トが交叉していて、地震発生多発地帯になっている。
 日本人は、自然の偉大さを小さい時から自然に自然から教わってきている。だから、海に漁師が行く時には、海の神様に祈る感じで拝んでいる。山に猟師が行く時には、山の神様に祈る感じで拝んでいる。
 その点、外国では、自然を神様とするよりも、アラ一やキリストやブッダを崇める感じで、一神教になっている。日本人の感覚とは違っている。土地がつながった外国では、人間同士の争いが一番の悩みできている。しかし、海に囲まれた日本では、自然と人間との闘いできている。
 家に帰って、母の家で父の写真を見て、いつもおかしな気持ちになる。父の写真の左に、(母が敬虔に信じている)天理教の祭壇があり、右に仏教の仏壇があり、更にその右上に神道の神棚がある。
 そんな中の父の遺影の写真の顔を見ていると、まあ、皆、宗教に関係なく仲良くすればいいよと言っている様に思えてならない。



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為になるかも知れない本(その162)

2007-07-28 07:45:51 | Weblog
○昭和53年6月5日(月)晴。
 ○○ちゃんの心カテをした。TOF(ファロ一四徴)は、この子が初めてなのだ。なかなかRVに入らなかった。S先生がしたらスパッと入った。肝静脈で強引に形を付けるのが怖かったからだ。大丈夫だとは言われているのだが。心臓だけでなく、僕としては、血液も神経も、詳しくなりたい。
○昭和53年6月6日(火)晴。
 教授回診があった。ニュ一フェイスのTさんも初めての経験。大柄で和田アキ子みたいでサッパリとしていていい。○○先生は、あまり教えなくて、細かい所は結局は僕が教えるみたいだ。
○昭和53年6月8日(木)晴。
 不明熱を受け持った。腸チフスかとも思った。脈が熱の割に少ないのだ。白血球数も多くはない。熱が長い。直ぐにカルチャ一(培養)して免疫学的な検査もした。
○昭和53年6月10日(土)曇。
 チフスの疑いの子、採血をひっきりなしにすることになった。一体何の病気かなあ。わからない。それにしても気になる患児だ。○○先生は、講義に行った。学生が講義中うるさいので叱ったとのこと。その点、僕は甘いなあ。叱らないもんなあ。
○昭和53年6月11日(日)雨。
 病院に昼過ぎより行った。日曜にも行かないと仕事が終わらないのだ。○○さんの総括をやっと書き上げた。胸につかえていたのが一つなくなった感じだ。明日は当直だ。
○昭和53年6月13日(火)晴。
 当直明けなのに、宮日の育児相談に行く様に言われて行った。多くて、50人位いたが、パッパッと手際よくしていった。帰ってから、元気なくボ一っとしていた。
○昭和53年6月14日(水)晴。
 明日はボ一ナス日だ。20万もあるかなあ。あまり多くもないけど少なくもない感じだ。やっと初めてのまともにもらえるボ一ナスなのだ。午後から心音図をした。学生に教えてあげた。僕はこの心音図の検査をとても意味あるものと思っている。前のグル一プからとても為になったと言われたからだ。
○昭和53年6月15日(木)晴。
 午後から心音図をした。学生に丁寧に教えてあげた。その後、学生が教授から面接試験を受けると言うので、スライドで講義もしてあげた。今度のグル一プは、前のグル一プと違って、態度が大きい感じの人が多いなあ。受験でもまれた感じのイリ一ト意識の強い受験戦士だった人は、医師には最も不向きだ。
○昭和53年6月16日(金)曇。
 心カテが(午後から)あった。午前中、僕はフリ一のはずが、○○先生から外来に来る様に言われて外来をした。月、水、金の午前中は、外来に僕がいないと出来ない感じになっている。月、金の午後は心カテがあるし、火の午後は教授回診と抄読会があるし、水、木の午後は、心音図の検査があるし、火、木の午前中は、白血球のアナリ一ゼをしている。こんなに忙しいのに、合間を見て、研修医と学生の教育まで一所懸命にしているのだ。下っ端だから、忍の一字で今は頑張るしかない。7月から、S'君とY'君が来れば、楽になるはずだが。
昭和53年6月17日(土)曇。
 土曜というのに忙しかった。退院した○○さんが15:00頃来るので、どうしても僕に診て欲しいというので待った。僕には皆遠慮がないんだなあ。これがいいことか悪いことなのかサッパリわからない。昨日、てんかんの講演会があって、学生がO助教授と飲みに行って、僕がとてもよく教えてくれていると言ったそうだ(○助教授の話より)。今日は、給料日だった。

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(過去の大分の未熟児医療)

2007-07-27 19:46:54 | Weblog
 大分県の新生児・未熟児医療は、今は、県病院の周産期センタ一が中心になって、365日24時間、カンガル一号なる新生児専門の救急車がいつでも医師2名を乗せて搬送できる体制になっている(中で、それなりに処置も出来る)。
 新生児・未熟児医療は、待つことが出来ない医療であり、一般の人が思っている以上に、医療側にとって、肉体的にも精神的にも大変な領域である。
 昭和59年、大分での産婦人科の地方会で、私と県病とアルメイダ一病院の部長の講演があっ以下は、その時の内容の記事である。
 当時は、大分県も、実に悲惨な状況にあり、周囲の人の理解で今に至っている。
 最後まで読んで頂ければ、誠に幸いに存じます。

小さいので、次のサイトをご覧下さい。

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070727/4

更に
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070711/4

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自分好みのメニュ一

2007-07-27 17:41:38 | Weblog
 熊本でバスを待っている間、熊本バスセンタ一の隣にあるデパ一トの地下に、食料品売り場がある。昼前に行くと、そこで食材がいろいろと実に沢山売られている。
 弁当も沢山の種類が売られているのだが、自分の場合は、自分好みのものを組み合わせて、自分なりのメニュ一にして食べている。それがとても楽しい。そのデパ一トの2階、3階、4階は、そんな人が階段の窓越しに座って昼食を摂っている。楽しそうに話しながら、で、スゴイ人気で、座る場所を確保するのも一苦労。前は、空くのを待って座ったこともあった。
 人生の生き方も、こんな感じの方がいいのではと思う。決められたメニュ一で世の中を渡って行くなんて、面白くもない。自分でその都度決めて、それなりに人生を切り開いて行く方が、よほど人間味があっていいのではと思う。
 そう思いながらも、日本全体の将来のことも考える。日本の国、他の国と比べるとまだかなり総合点ではいいと思うが、しかし、確実におかしくなっている所がある。東京では、教員の3分の1程が、親御さんとのトラブル対処に備えての保険に入っていると言う。親が教師を尊敬できないので、塾も大流行だ(しかし、最近は、子どもも少なくなりつつあるので、どうかな?)。医療費がどんどん抑えられているのに、防衛省まで作り、軍備を縮小しようとしない。教育と医療が、儲けるか儲けないかで動向が決まる様になりつつある日本は、やはりおかしいと思う。




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