オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

祝杯ならず・・・

2016-05-30 | Weblog

5/30(月) 昨日は日本ダービーも目黒記念も外れて、なんとも冴えぬ気分で会社を後にしたのは午後六時すぎであった。デザインの作業に打ちこんでいるYOSHIOを残したままで。仕事の邪魔をしちゃ申し訳がない、敗者は一人去りゆくのみだ・・・。

暇にあかせて悪徳チャンに電話をすると、「事務所で契約書の英訳に苦闘しながら、一杯やってます」とのこと。事務所に誘われたが、外で軽くやろうと事務所を出て貰った。なんといっても、彼の事務所とは100mほどしか離れていない。

一年中営業している「源ちゃん食道」で一杯となった。遅れてNKAMURAの大将が、眠そうな顔をして現れた。NAKAさんの日曜日は東京近辺の散策、悪徳ちゃんは事務仕事、そんなところであろう。私は気ままな素浪人、ボートがなければお馬さんの競争を見るぐらいなのだ。

お二人に付き合って貰い、夕方のひと時を時間潰しと相成った。Wのハイボールに赤・白ワイン、安い肴で二時間ほど歓談した。帰宅は21時過ぎであったろう。のんびりとした日曜日を過ごしたのである。

今朝は午前三時に一旦目が覚めたが、こりゃいかんとまた眠った。眠れたのだ。そして朝の目覚めは、五時半である。猫が餌を求めるミャぁーミゃ~の声で目覚めたようだ。で、弁当作りとなった。

今朝は「牛小間炒め」「野菜素揚げのドレッシング和え」「冷凍塩秋刀魚焼き」「冷凍シューマイイ」「卵焼き」である。揚げ物ついでに、餃子と豚小間も素揚げした。野菜の素揚げは、オクラ・茄子・カブ、ドレッシングは青紫蘇。なんの感慨も無く、淡々と作り出来上がったのである。

                            

真ん中の写真は、酢揚げした野菜と豚小間を青紫蘇ドレッシングで和えたものだ。

                           

 

 ―ショート・ショート―

僅か一年とは云え、三島で過ごした思い出は尽きない。F荘十六人の下宿人のうちで、今でも付き合いがつづいているのは東京に居るHOSOKAWAぐらいだ。私のF荘への入居は、一学年先輩の故・岡宗さんの紹介による。三島校舎に行くことになり、知人の紹介で春休みで帰省していた岡宗さんを訪ね、下宿のこと取るべき講座などを教えて貰った。

三島のF荘には入学式の三・四日前に入った。校門の脇に在る桜が満開の時を迎えていた。下宿には一番乗りだった。と云うことは、牢名主の権利を握ったようなものか?

永の付き合いとなるHOSOKAWAは、二日ほど遅れて親父さんに付き添われて富山から出てきた。一番乗り、古参兵の私がなにかにを教え、親父さんを交えて部屋でビールを飲んだ。で判ったことは、HOSOと私の育った環境が同じと云うことだった。

三島・本町中央通りのBAR・リラに入った経緯は覚えていない。が、リラに入りびたりのようだった時期があった。三十過ぎのマスターとママ、年増(こっちからみれば、みんなそう思えるは当然だが)の姐さんが二・三人居た。バーテンの裕ちゃんは三島を離れた後に店にはいったのか。昔風のBARと云う雰囲気で、マスターの趣味がでている店だった。

今おもうと当時のリラは、オープンしてからそれほど年数が経っていなかったのかな。細面で物静かなマスターと日本型の美人のママさん。落ち着いた雰囲気のいい店だった。姐さん達も大人だった。

店内は、五・六人が掛けられるカウンターと、少し距離を置いてBOX席が三席程だったと思う。リラに初めて入ったのは五月の連休も終わった頃であろう。BARと云う処に入ってみたい、そんな好奇心、探究心?てやつかもしれない。大人への憧憬かな。

二度目か三度目に、店にHOSOを連れていった。彼は東海バスで車掌のバイトを始めていたので、そのバイト代でも握りしめて胸をときめかせていたかも・・・。するとHOSOは、ママさんにすっかりのぼせ上った。時々一人で飲みに行くようになっていた。

『お前ね~、マスターとママはどう考えても夫婦だよ。のぼせるのも大概にしろよ』と、初心なHOSOをたしなめた。そのHOSOが、台風が来た或る晩、リラへ行くと大風雨の中を出掛けた。それも百円玉を一枚握って・・・・。

リラでは、トリスのショットグラス一杯が百円だった。その一杯でも、ママさんの顔を見たかったのかな・・・。初心だが、百円玉一個でBARに行くやつは稀だ。世間知らずも極まりだが、マスターは学生の僕らを、田舎での若者を大目に見ていてくれたのだ。そんな人がいた時代であった。

三島を離れ、そして就職をしてからも年に何度かは三島を、リラを訪ねていた。或る時はマスターの家に泊めてもらい、二日酔で家族の海水浴(まだ小さな男の子が二人いた)に一緒に行ったこともあった。

HOSOはTV業界に入り、芸能人とそれなりの付き合いができていた。そんな或る年、三島の飲食組合のトップに就いていたマスターから相談があった。組合の周年記念事業があり、ゲストに芸能人を呼べないかと。それも名前が売れた人を、低予算でとのことだった。

『HOSOKAWA、これこそお前の出番だぜ、これまでの恩をしっかり返せよ』と発破をかけた。そして、何年か前まで売れていた、誰でもが知っている女性歌手を呼べることになった。当然事務所をとおさないバイト仕事と云うことだが。当日、HOSOと私はその式典とお祝いの会場に居た。HOSOは、照明や音響のチェックを手伝っていた。このイベントで、少しだけマスターにお返しができたかも・・・・。


マスターは事業を拡げていったが、五十歳ぐらいの時であろうか。甲状腺を手術して声を無くしたこと、そして亡くなったと、ママからの便りが届いた。修善寺に向かう途中にある寺の墓前を訪れたのは、それから七・八年も経ってからであった。

マスターが健在な頃に、リラはBARからパブに衣替えし、カラオケも置いた店になっていた。国道沿いに出来たショッピングセンターにカフェをオープンした。その後、どんなふうになったのか知らない。前から在った三島田町駅前の喫茶「榛名(店名はマスターの出身群馬の榛名山からとか)」もどうしたか知らない。今、中央通りに「リラ」と云う店はない。

こうして、三島で大人たちに支えられて青少年から若者に変わっていく一時を過ごした。生涯忘れえぬ一年である。

 

今度の日曜日は演歌旅、湯の町エレジーだが。「妻と書かれた宿帳に・・・・・」の”熱海の夜”て歌があるじゃない。この歌い手は、昔流しをやってた頃にリラにもよく来てたよ、とマスターは言ったが、私は覚えていない。或いは、「昭和枯れすすき」の、さくらと一郎の一郎だったかも。

誰かに「熱海の夜」と「昭和枯れススキ」を唄ってもらおう・・・・。そして、昔のリラの店で、流しの兄さんがギターを弾きながら唄っている姿を思い浮かべよう。其処には、若かったマスターやバーテンの裕ちゃんの姿がカウンターの奥に見えるはずだ。

 

 

 

 

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