オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

鶏肉旨煮

2014-07-10 | Weblog

7/10(木) 台風が近づいて来た。今朝、田舎の母に電話をしたら「大雨になるらしい、怖いよう。淋しいよ」などと言っていた。年寄りの言うことを、いちいち聴いちゃおられんが、『大丈夫だよ、何の心配もいらんよ』と、気休めだけを伝えた。段々と勢力も弱まってくるだろう・・・。

週末には台風も関東を過ぎ去っているようだ。事務所の引っ越しも心配無用だろうが、暑くなりそうだ・・・。運送屋の働き手が可哀相だ。

愈々自分の書類の整理などに着手し、今日中には粗方整理のつもりだ。会社の30期の期末と引っ越しが重なり、バタバタしている。おまけに経理も変わったので、一抹の不安もあるが、なるようにしかならんと開き直りだ。更に、こっちのボケ具合が重くなってきた。にっちもさっちもなりまへんぜ!

ボケといや、つい一週間ほど間に書いた戦後歌謡曲の「赤いランプの終列車」、この歌い手を三橋美智也とか記した。これが何となく引っかかっていたのだ、なんか変だなと。深夜にラジオから流れた曲は、この題名じゃないなと。三橋のみっちゃんの曲は「哀愁列車」だぜ。この曲が流れたんだ。

違うなと、引っかかってはいたがそのままにしてあった。そのことを今朝、歯ブラシを使いながら思い出した。春日の八ちゃんが唄ったのが「赤い・・・・」だ。こんなことを思い出したのも、風が吹けばおけ屋が儲かる式の、話の繋がり・・・。

会津を初めて訪れたのは、昭和六十一年の春だと記憶する。里の桜は満開であったが、会津では漸く蕾が膨らんだ程度で、寒暖の差を実感した。市内から車で小一時ぐらい走ったと思うが、会津坂下町(バンゲ)が在る。この町はずれの小学校の廃校跡に、業務用靴メーカー・シモンさんの工場が在った(今はどうか?)。

作業靴の製造工程などを見せて貰うための工場視察であった。その帰り、道路際の神社を通りかかった時、「このお宮の木が、別れの一本杉で唄われた木なんです」と聞かされた。それで、歌を唄った春日八郎さんが、ここの出身だと知った。この時に、雪国の暮らしや人間模様について聞かされたが、それは生々しすぎるので置いておこう。

要は、歯磨きをしながら吉田多津夫さんのことが浮かび、案内してくれた会津のことを思い出し、春日八郎と三橋美智也の歌が違っていることを思い出したと云うことである。何とも大した呆け老ぶりだぜ!

歌い手を違っているか、曲を間違えているだろうは、賢明なる諸兄にはお気付きのことであったろう。そして「ARIも相当にボケがきてるな」と、ほくそ笑んだであろうことは、察するに余りある。俺が呆けるのも致し方ない、お袋は九十一になるし、会津を案内してくれた吉田さんが河岸へと旅立ってから久しいのだ。

向こう岸に行けば懐かし先輩や仲間に会えそうだ。「やっと来たかい、憎まれっ子、世にはばかるだったな」と迎えてくれそうだが、九十一歳が居るからな・・・、この始末をつけてからじゃないと、皆に面倒をかけることとなる。

それにしても「板になりたや風呂の板に・・・」と、猥雑な唄を聴かせてくれた東山温泉の”かるた姐さん”も生きてるんかな~、十二年前に訪ねた時は健在で、旅館に顔をだしてくれて吉田さんの想いで話などしたが。もう現役じゃあないだろうが、元気に養老院なんぞで余興でもやってりゃいいんだが・・・。

すっかり余談が長くなってしまった。

さて、今朝は6時半から弁当作りとなった。毎度同じようなメニューで紹介するのも気恥ずかしいが、致し方ない。

先ずは、冷凍パックの「牛味付けサイコロステーキ」と「鶏肉」の解凍から。次いで野菜をカットする。牛蒡と人参は鶏肉との旨煮用に。小松菜は、油揚げとの煮びたし用に。シメジとピーマンは、牛焼の添え物として。用途別に切り分けて準備をした。

                      

後は煮たり、フライパンで焼いたり炒めたりである。味付けは塩胡椒、ウェイユー、醤油、酒、味醂だったか。今日は甘みが強すぎた、失敗だね。最後に、卵焼きを作る。

弁当は満杯になり、何時も最後に入れる卵焼きは、飯を詰め寄せて押し込む。これも毎朝のことであり、今朝も同じことを繰り返したのであった。

                     

 

昨夜の酒場通いは休止、静かで安らかな夜を過ごした。年に数度の珍現象・超常現象、家で缶ビール二本であった。

 

 

 

 

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