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オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

島で(情け島)

2008-11-28 | Weblog
八丈小唄(しょめ節)の詞の一節に「沖で見たときや鬼が島、来てみりや八丈は情け島」というくだりがある。
尤も、この一節を知ったのはこのときから7~8年も経ったサラリーマン時代。そのときの係長が島の出身で宴席でよく歌ったことによる。
八丈は、僕にとっても正にこの詞のとおりの島であった。

八丈島を初めて訪ねたのは、1967年(昭和42年)4月初旬。船が着いたその日は、青い空とミッドブルーな海の色、真近の山並みの新緑とのコントラストも鮮やかに、初夏の陽射がそそいでいた。
港で作業をしている人に民宿を教えてもらい、取り敢えず其処にむかう。底土港から10分程だったか歩いた処に「みどり荘」はあった。優しそうな田舎の小母さんが迎えてくれた。
宿には、僕達の他に同じ船できたアベックと2週間も滞在しているという商人なのか逃亡者なのか不明な、それでいて人なっこい中年のオジサンがいた。
民宿の一家は、ご主人が実は港で働いていた赤銅色した小父さん。濃いグリーンの色眼鏡の下に優しい、真っ直ぐな眼があった。迎えてくれた小柄でふっくら顔のお母さん。二十歳を幾つか過ぎた感じのお姉さん。小学2~3年生位の甘えん坊のような男の子。高校生位の日焼けした女の子がいたような気がするが・・・記憶が怪しい。

僕たちが乗ってきた船は、翌日には東京へと引き返した。また戻ってくるのは、3~4日の後となる。無謀にも若さの勢いで、金も無いのに島に残った僕等は「みどり壮」で一晩世話になり、翌日から徒歩での島巡りを開始する。島といっても周囲60kmはある。
サンダル履き、手荷物なし、懐は僅か。幸にも島にいる間中、天候には恵まれた。2日目は末吉と云うの民衆に素泊まり。食パンを買ってきて食べるが、腹が減ってしょうがない。かといって金はなし。野生のバナナはどう~なったんだ!と云う心境。
とうとう港の辺りに日干ししている魚に目をつけた。「あれを取ってきて喰おうぜ」と2~3枚失敬してきた。処が、くさくて喰えない。そのはずよ、島特産の生干しのクサヤだった。あの臭いはいまだ忘れられない。
3日めになり、腹は減るし、帰ろうにも船はなし、どうしようかと途方にくれた。
最初の民宿「「みどり荘」に戻って窮状を訴え、泊めてもらおうということにした。

みどり壮の小母さんは笑いながら「いいよ、泊まっていきな」と言ってくれた。お金を送るまでの間、学生証をおいて行きますと云う僕たちに「いいよ、いいよ」と笑っている。
宿が決まり、飯が喰えるとなると俄然元気が出て、その後の何日かを初春の海に入り、島中を走り廻り、挙句島の女の子と仲良くなりカメラまで借りて遊んで過した。
何の遠慮もなく飯をたっぷり食べ、おかずをも沢山頂いた。おかずは、島で取れる新鮮な魚が中心、この頃僕は魚が苦手だった。明日葉の葉や料理を知ったのもこのときだった。

のんびりした、いい時代だった。
帰りの船に乗ると、おじさんが手を振ってくれた。

このときお世話になったことが忘れられず、2年半後、今度は一人で島を「みどり壮」を訪ねる。

“写真は、先月訪問した際に撮った墓地の地蔵さん」島のお墓は何処も花で一杯。一年を通じてそうだと言う。
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前日より準備・・・

2008-11-28 | Weblog
11/28(金) 昨夜から弁当の仕込みをしてしまうなんて・・・。

先週末より家を空けた所為で、弁当用の食材が少ない。冷凍しておいた能登のタコと、豚肉をメインにした弁当を作ることとする。ついつい、準備のつもりが作り始めるはめになる。
豚肉は、酒のお通し風に少し甘辛の味付けに。牛蒡・ニンジン・大根を細切りにし、日本酒と青ヶ島のマッヨ婆ちゃんの島ダレに八丈の唐辛子味噌で煮付ける。中々いいと自画自賛。他に和風系のあっさり味がほしいので、油揚げ。小松菜・椎茸・魚すり身竹輪を代出汁で煮る。
今朝になり、タコとピーマン・シメジをオリーブオイルに少しニンニクを使って洋風の炒め物と作る。炊き立てのご飯に、和歌山から取り寄せたシラス(これは外れ)と島味噌を添える。
以上、今日のランチ。さて、お味は???
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