今年も残り少なくなってきて、師走の文学散歩は、鎌倉文学館だ。
鎌倉ゆかりの作家、 「芥川龍之介と久米正雄」展が開かれている。
二人は、同じ明治二十年代の生まれで、一高、東大と入学してからずっと同級生だった。
東大在学中に、同人誌「新思潮」を創刊し、夏目漱石門下となって、作家への道を歩んだ。
二人とも、文学好きな家庭に育ち、切磋琢磨した。
芸術至上主義の芥川龍之介と、幅広く通俗小説まで手を広げた久米正雄とは、ときに文学の方向性で離反もあったけれ
ど、昭和2年、芥川の自殺まで変わらぬ交友は続いた。
今回の企画展では、その二人の交友の軌跡を、原稿、書画、書簡など貴重な約百点の資料でたどっている。
芥川が作家として生きる決意をしたといわれる、夏目漱石からの毛筆の書簡や、芥川の河童絵などが見どころだ。
08年に芥川家で発見された、芥川の妻や子供にあてた遺書と、「続西方の人」を書きあげて自殺した彼の最後の筆跡は、
神奈川県内では初公開だ。
芥川龍之介の「羅生門」「鼻」の草稿、久米正雄の「父の死」の原稿や、二人の間で交わされた手紙(ハガキ)、写真、掛け軸、短冊、書籍なども展示されている。
芥川も久米も、書画を得意としていたらしいが、絵は久米の方が芥川より上手いという、漱石の一文なども面白い。
芥川龍之介の作品にはかなり馴染みがあっても、久米正雄の作品を読んでいる人は少ないのではないだろうか。
久米作品には、「手品師」「天と地と」「受験生の手記」などよく知られているものあり、昭和5年に全集(13巻)が刊行され、平成5年には復刻版も出ている。
著作の数では、芥川よりはるかに長く生きた久米の方が多い。
よく知られている「月よりの死者」は、2回も映画化されていて、知る人も多いだろう。
二人は、作家として生きていく決意をしても、当面は生活のために就職するのだが、久米は就職など芸術生活の堕落だと考えていたから、わずか13日で辞めてしまったそうだ。
芥川も久米も鎌倉で暮らしたが、一緒だった期間はなく、久米が鎌倉に移り住んだのは、芥川が新婚生活を送った鎌倉を去って、6年後のことであった。
二人の作家の交友の軌跡とともに、二人の弟子に向けた夏目漱石の書簡なども、興味深い。
芥川龍之介は、昭和2年35歳の若さで自死、葬儀委員長を務めた久米正雄は、昭和27年60歳で亡くなった。
規模はさして大きくはないが、この特別展は、12月18日(日)まで催されている。
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久米正雄という作家を全く存じませんでした。
唯一知っていたのは「微苦笑」という言葉ぐらい(笑)。それも調べて初めて判るていたらくですが。
霜葉様。
漱石の手紙からうかがえることは、どうも文学については芥川龍之介のほうに、確かに高い才能を観ている気がしますね。
「絵のほうは久米がうまい・・・」などといっていますが・・・。
二人の文学活動の初期の頃はともかく、作品を見ても、久米のほうは次第に〈純文学〉から離れていったような気がします。
芥川は、文学(芸術)に対して極めて潔癖な人ですから、徹底して〈通俗〉を嫌っていたのではないでしょうか。
それは、彼の作品を読めば歴然ですね。
作家の原稿だけは、いつになっても自筆のものがいいですね。
茶柱様。
それも無理はありません。明治24年、25年の生まれですもの・・・。
久米正雄は、後半生の30年近くを鎌倉で過ごし、町会議員を務め、いまはない鎌倉カーニバル実行委員長、鎌倉ペンクラブ初代会長や、川端康成らと鎌倉文庫を設立したり、芥川、直木両文学賞の創設時の選考委員となったり、大活躍でしたが、それとて今は昔の話(!)となりましたね。
一時は流行作家だった久米の作品も、私は数編しか読んでいません。