以前にも書いています。
菊理比売姫(くくりひめのみこと)
ウィキペディアより引用します
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日本神話においては、『古事記』や『日本書紀』正伝には登場せず、『日本書紀』の異伝(第十の一書)に一度だけ出てくるのみである
神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、伊弉冉尊と口論になる。
そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言った。
つづいてあらわれた菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれ(泉守道者と菊理媛神が申し上げた事)を褒め、帰って行った、とある。
菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない
菊理媛を白山の祭神としたのは、大江匡房(1041年-1111年)が扶桑明月集の中で書いたのが最初と言われている
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以前、白山比咩神社の最初の祭神は、彦坐王と書きましたけど違うかもしれません。
菊理媛を倭姫ではないかと思っていたのですけど、サタヒコの足跡を考えると違ってるかも・・・
その後、いろいろ発見しましたのでこれから少しずつ書こうかと思います。
まず最初は、白山比咩神社ですよね。
4m海面を下げてみます・・・あまり意味が無かった・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/65/9c5d9b50f77ae3aa6662625d2151fa6f.jpg)
白山比咩神社は、ちょうど、糸魚川と丹後半島の中間ですね。
ここから白山を越えて行くのです。
時代を考えてみましょうか。
サホヒコが伊勢を追い出されたのが、281年頃。その3年ぐらい後には糸魚川に居るとします
284年に糸魚川に来たときにはすでに大きな船を持っていました。
彌彦神社で船を建造していると考えます。
このころの船は、準構造船と呼ばれるものです。
兵庫県立考古博物館より引用させてもらいます
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船の種類は、準構造船とよばれるものです。
縄文時代以来、船は木をくりぬいただけの丸木船が使われていましたが、その上に、板を立てて囲みをつくり、波が入らないようにしたものです。
丸木船と、後の時代にでてくるような船全体を板でつないで作る構造船との中間的な形であるので、準構造船と呼んでいます。
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サタヒコ達は、鉄の斧やそのほかの鉄でできた道具を持っているので、効率よく木を加工できたと思います。
菊理比売姫(くくりひめのみこと)
ウィキペディアより引用します
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日本神話においては、『古事記』や『日本書紀』正伝には登場せず、『日本書紀』の異伝(第十の一書)に一度だけ出てくるのみである
神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、伊弉冉尊と口論になる。
そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言った。
つづいてあらわれた菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれ(泉守道者と菊理媛神が申し上げた事)を褒め、帰って行った、とある。
菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない
菊理媛を白山の祭神としたのは、大江匡房(1041年-1111年)が扶桑明月集の中で書いたのが最初と言われている
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以前、白山比咩神社の最初の祭神は、彦坐王と書きましたけど違うかもしれません。
菊理媛を倭姫ではないかと思っていたのですけど、サタヒコの足跡を考えると違ってるかも・・・
その後、いろいろ発見しましたのでこれから少しずつ書こうかと思います。
まず最初は、白山比咩神社ですよね。
4m海面を下げてみます・・・あまり意味が無かった・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/65/9c5d9b50f77ae3aa6662625d2151fa6f.jpg)
白山比咩神社は、ちょうど、糸魚川と丹後半島の中間ですね。
ここから白山を越えて行くのです。
時代を考えてみましょうか。
サホヒコが伊勢を追い出されたのが、281年頃。その3年ぐらい後には糸魚川に居るとします
284年に糸魚川に来たときにはすでに大きな船を持っていました。
彌彦神社で船を建造していると考えます。
このころの船は、準構造船と呼ばれるものです。
兵庫県立考古博物館より引用させてもらいます
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船の種類は、準構造船とよばれるものです。
縄文時代以来、船は木をくりぬいただけの丸木船が使われていましたが、その上に、板を立てて囲みをつくり、波が入らないようにしたものです。
丸木船と、後の時代にでてくるような船全体を板でつないで作る構造船との中間的な形であるので、準構造船と呼んでいます。
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サタヒコ達は、鉄の斧やそのほかの鉄でできた道具を持っているので、効率よく木を加工できたと思います。