前回、伊勢津彦(=サホヒコ)は、美濃に行くとき以外、ここに来ることはなかったと書きましたけれど、
そうではなく、伊勢にいるときに、彼の生まれ故郷である奈良に行くことがあったのではないだろうか?
そうすると、このルートを通って、都美恵神社に滞在しているかもしれない。
その時には伊勢の辰砂を持って行ったと考えるのは妥当でしょう。
それを、崇神天皇が知り、辰砂を自分のものにしようと、伊勢の乗っ取りを考えたのかもしれない。
由緒をもう一度見ましょうか
都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないか と思われる。
我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族) がこの柘植へ移住してきたことは、
伊勢風土記逸文に「伊 賀の事志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、
又の名 は伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城 を造り、其の地に坐しき、
ここに阿倍志彦の神、来り集い 勝たずして還り却りき。
伊勢津彦が、ここに滞在したのは、270年~280年ごろと推測します。
都美恵神社の起源は、そのころでしょう。
でも、中継地点としての機能はすでにあったと思います。
そうではなく、伊勢にいるときに、彼の生まれ故郷である奈良に行くことがあったのではないだろうか?
そうすると、このルートを通って、都美恵神社に滞在しているかもしれない。
その時には伊勢の辰砂を持って行ったと考えるのは妥当でしょう。
それを、崇神天皇が知り、辰砂を自分のものにしようと、伊勢の乗っ取りを考えたのかもしれない。
由緒をもう一度見ましょうか
都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないか と思われる。
我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族) がこの柘植へ移住してきたことは、
伊勢風土記逸文に「伊 賀の事志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、
又の名 は伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城 を造り、其の地に坐しき、
ここに阿倍志彦の神、来り集い 勝たずして還り却りき。
伊勢津彦が、ここに滞在したのは、270年~280年ごろと推測します。
都美恵神社の起源は、そのころでしょう。
でも、中継地点としての機能はすでにあったと思います。
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