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たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

猿田彦その9 高蔵神社から矢作川

2021-11-22 17:50:20 | 歴史
その7で書いたように、サタヒコは、サホヒコ(伊勢津彦)と合流するために、春日井の高蔵神社

から、三河の本宮山を目指して出かけます。



高蔵神社からは、水野川をさかのぼり、その後、地図には名前がありませんけど、深川神社までの

細い川沿いに進んだと思います。

それから、またしても名前のない川ですけどそれを遡り、大目神社にたどり着きます。

そこからは、赤津川を遡り猿投神社東の宮を通り、今度は広沢川を下ります。

そして、矢作川に出ます。

地図の距離では31kmぐらいですけど、実際はもっとあり40kmぐらいかもしれません。

急いでいたとしても、1日では行けないでしょう。山の頂上で見晴らしの良い「猿投神社東の宮」

付近で一泊したかもしれません。

レイラインもあります


これが何時測量されたものか分かりませんけど、おそらくサタヒコの晩年、つまり

猿投神社に住むようになってからと考えるのが適当かと思います。



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猿田彦その8 美濃から尾張の高蔵神社までの道

2021-11-19 13:59:08 | 歴史
当時の道は、ほとんど川沿いに進みます。

なので、川の流れが、今と同じ流れならばわりと容易く見つけることが出来るのですけど

流れが変わっているところは、頭を悩ませますね。

とりあえず、地図に主な場所を落とし込んでみました。



琴塚古墳は、景行天皇の妻なので時代が少し新しいですけど、そのすぐ近くを川が流れていますので

参考のため載せました。村神神社に近いです。


石亀神社も時代が違いますけど、東山道がその前を通っています。

すぐ近くに、一輪山古墳があります。そちらを載せればよかったですね。


村上神社から、石亀神社までは、境川がありますけど、現在は「新境川」になっていますので

少し流れが今と違うと思います。船山北古墳群と言う所があるので、その近くを通ったのでしょう。

木曽川を渡って、犬山に行きますけど、現在の犬山城付近は、昔は、「渡し」ではなく「渡り」と言って、川の水位が低い時には岩が出ていて、歩いて渡れたそうです。

現在の、ライン大橋のある所です。今でも水位が低いと岩が見えますよ。

大縣神社までは、川がありません。新郷瀬川と言う川は、1934年に造られた人工河川です。

こちら参考にどうぞ。

旧妙見宮奥之院とは、内津神社の奥宮と思います。

入鹿池から東に向け川沿いに行けるようですけど、まだ行ったことがありません・・・

内津神社からは、春日井市 都市緑化植物園まで、川沿いに道があります。

この道は何度か通りました。

以上が、おいらの想像する当時の道です。






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猿田彦 その7

2021-11-18 12:45:12 | 歴史
サホヒコは、「垂仁天皇の頃に謀反を起こす」とされていますけど、「嘘」です。

実際は逆で、伊勢に居たサホヒコ(伊勢津彦)は大和朝廷に攻め込まれ、伊勢から追い出されます。

281年頃です。サタヒコ31歳ぐらい、彦坐王51歳ぐらい。

サホヒコは、船で伊勢を離れます。

その時、サホヒコは熱田神宮に向かおうとしていたのかもしれません。←PSこれ間違いです。
この時点では、まだ熱田神宮はありません。春日井の製鉄の場所を知られないようにわざと
三河に向かったと推測します。

ですが、風が強くてやや南に流され、たどり着いたところが、「御津神社(みとじんじゃ)」

一方、サタヒコは、高座神社付近に居ましたが、サホヒコと合流するために三河の本宮山に行きます。

詳しくはこちらでどうぞ。



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猿田彦 その6 高蔵神社

2021-11-17 15:33:42 | 歴史
サホヒコは、250年ごろ生誕。 

266年頃伊勢に行きます。サホヒコ16歳、彦坐王36歳ぐらい。

おそらくその前に、サタヒコは生まれているでしょう。

その後、いつ頃かは分かりませんけど、彦坐王は愛知県春日井市の高蔵神社付近に移動します。

270年代のことと推測します。

なぜそこに行ったかは、分かりません。

高蔵神社付近は、鉄鉱石もしくは砂鉄が産出します。

それを利用して、製鉄をすることが目的と考えましたけど、

美濃の金生山を通り過ぎていることを考えると、彦坐王は製鉄とは無関係か、ほんの小規模の製鉄しか行っていなかったかもしれません。

むしろ、伊勢との交易をするために、現在の熱田神宮付近を拠点としようとしたのかもしれません。

春日井の高蔵神社から庄内川を下ると、熱田神宮近くに出ます。





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猿田彦その5 結神社(むすぶじんじゃ)画像です

2021-11-16 06:04:28 | 歴史
入り口は、南側。


本殿は一段と高い所にあります










入り口の東側です。すでにここから低くなっています。


東を見ると、右の山が、金華山。左の山との間が方々津神社のあたりと思います。


駐車場から西を見たところ


美濃路(昔の鎌倉街道)が、神社の前を通っていることは、後で知りました。  残念。

地図を見ていたら、方々津神社から、鳥羽川と言う川が流れています。

それが、伊自良川と合流して結神社近くで、長良川と合流しています。

当時の流れは、現在と違うかもしれませんけど、この川沿いに移動したと考えられます。

それはそうと、ここは、縁結びのパワースポットとして有名らしい!

そういえば、若い女性の方がいらっしゃいました。

そんなところに、おいらのような「じじい」が訪問するのは場違い?




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猿田彦 その4 結大明神 

2021-11-15 11:03:27 | 歴史
サタヒコが生まれ育った「方々津神社」付近からは、当時の海までいくらか距離があると思います。

長良川を船で下るには問題はありませんけど、遡ることはできません。

ですから、海に面したどこかの河口付近に、船を係留するための港があると思います。

そこから、徒歩で方々津神社方面に移動したと考えるのが適当かと思います。

そうすると、長良川を渡らない右岸にあるのでは。

当時の地形を探ってみましょうか。いつものように海面を上げてみます。

今回は、河口付近なので少し高めの設定、6m上昇の地図を見てみましょう。


「結神社(結大明神)」と書いたところが、その条件に合う場所かと思うのです。





こちらから引用させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「結神社」は明治37年までは現在の西方280メートルの位置に位置しており、「結大明神」と呼ばれる大きな神社でした。

元の境内は今の3倍の敷地があったと言われており、参道は美濃路(昔の鎌倉街道)に通じていました。江戸時代は参勤交代や歌人、商人や歴史人が通行した記録もたくさん残っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



右上の駐車場と書いてある所は、標高6.3m。

現在の結神社は、8.9m。

元の場所は、現在、川との境ぐらいなので少し低いですけど、少し東では9.4m。

幅が300mほどの半島のような地形と、想像できます。

そういえば、猿投神社から見つかったと言われる古地図がありましたね。

それにわかっている場所を書き込んでみましょうか


どうでしょう?


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猿田彦 その3

2021-11-14 21:06:39 | 歴史
彦坐王が、伊勢からいつごろ帰ったかは分かりません。

おそらく、何度も往復していると思います。

人や物も行き来しているでしょう。

そのために、中継基地を作るのですけど、出発場所を、美濃の金華山付近に変更しなければなりません。

以前は、伊久良河宮付近が出発地点と考えていましたけれど、今までの調べでは、

伊久良河宮は、サタヒコの息子である「神大根王=迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)」が、住んだ

所と考えますので、中継地点から外します。


いろいろと書きたいことがたくさんありますけど、仕事が忙しくてなかなか書けません。

短いですけど、これからも少しづつ書きますのでお楽しみに。。。

新しい場所発見しましたよ!



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猿田彦 その2 

2021-11-09 07:26:14 | 歴史
もう一度地図を見てみましょう


上の方に、諏訪神社がありますね。最初この意味が分からなかった。

神話から考えると、敵同士じゃないですか。

でも、ご安心下さい。。。この諏訪神社はもしかすると、サホヒコ(後の伊勢津彦=大国主)が

住んでいたところじゃないのでしょうか。

もちろん、諏訪神社になったのは後の時代と思いますけど、サホヒコはここから伊勢に向かって出発したのではないでしょうか。

266年頃と思います。サホヒコの年は16歳ぐらい、父親の彦坐王は、36歳ぐらいと推測します。

ちょうどそのころ、サタヒコが生まれます。

それから、彦坐王とサホヒコは伊勢に向かったのでしょう。

目的は、伊勢で採れる辰砂でしょう。
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猿田彦 その1  生まれた場所

2021-11-08 10:54:13 | 歴史
これまでで、猿投神社のことがかなりわかって来たので、もう一度、猿田彦のことを最初から

調べてみようと思います。

何か新しい気づきがあるかもしれません。

猿田彦=サタヒコ=スクナヒコナ と言うことは一般的に言われていることと思います。

そして、おそらく誰も言ってないことは、猿田彦=朝廷別王 と思います。

検索しても、おいらの記事しか見当たりません。

このブログに書いてあることを読んでいただければ、かなりの確率でそうでしょう。

その前提で話を始めます。

まず生まれた場所は

五社神社付近。現在、公園になっています。そこが、住居跡なのでしょうか?

父親は、崇神天皇の腹違いの弟と言われる「彦坐王」

母親は、丹波から来た「川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)」

母親の名前がこれ以上分からないのですよ。不思議です。

これも、隠そうとしているような気がします。

以前書きましたけど、彦坐王=スサノオとすると、母親は、クシナダヒメになってしまいます。

案外、そうかもしれない。。。

最近、仕事が忙しくなってきたので長くは書けません。今日の所は、これまでにしておきます。

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