たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

本宮山 その6 村神神社 (村上神社)、手力雄神社

2021-07-20 06:31:51 | レイライン
手力男命(たぢからをのみこと)=曙立王と考えると、手力雄神社は倭姫と関係が深い場所と言うことになります。

でも、鎮座したと伝えられるのは、貞観2年(860年)との説があります。

その他にも 
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創建不詳 社伝には5世紀末期ごろ中里(今の岐阜県各務原市那加地区)を支配していた豪族により、山の中腹に磐座(いわくら)祭祀として神様を祭ったのが始まりとされます。

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このように、手力雄神社の創建は倭姫の時より後になります。 

地図を見てみましょう


手力雄神社のすぐ西に、村神神社(村上神社)があります。

ここも気になります。

ひょっとしたらと思い、本宮山からのレイランを見てみると

本宮山の頂上からです。  ピンは村神神社です



手力雄神社は、村神神社から150mほど東にあります。

気になったので、現地に出かけました。

手力雄神社から歩いてすぐです。神社の東側から行くのが良さそう。



鳥居を過ぎると

秋葉神社

そして

山神様

本殿です。

本来の入り口は、南側のようです。

そちらから見ると


今これを書いているときに気が付いたのですけど、これって、古墳?

その上に神社があるのかな?

もう一度現地に行って確かめたいなぁ。


位置を調べます。上の正面からの画像を撮った場所です。

携帯の地図の画像です




もう一度


撮影場所付近がレイラインの上です。おどろきましたね。。。

と言うことは、倭姫の時代にこの神社は創建されたと言うことになります。


でも、曙立王(手力男命)と関係があるかどうかはわかりません。

位置関係を調べましょう




もう一度、村神神社付近の地図を見ると、川の合流する所がすぐ西にありますけど、左側が岩地川、右が境川です。

倭姫の時代にはこれらの川は何処を流れていたのでしょうか?

ちなみに、境川は、500年ほど前にはもっと南を流れていたようです。

さらに南に行き、現在の木曽川を渡ると浅井古墳群があります。これは時代がもっと後で

古墳時代後期の築造。今回は関係がありませんけど、ここより大江川を下り伊勢に至ったようです。

岩地川を1kmほど北に行くと、琴塚古墳があります。被葬者は景行天皇の后、五十琴姫命と伝えられます。

伊奈波神社 (旧跡)から境川(現木曽川と考えられます)に行くのには、この岩地川を通ったと考えられます。

その境川をさかのぼると犬山に至ります。

犬山の東之宮古墳から、村神神社まで約10km。

村神神社から、方々津神社、五社神社までも、約10kmです。

ですから、この村神神社は中継の場所だったと考えていいと思います。

当時の非常に重要な場所ですね。。。


ここからは、遊びです・・・

古い地図が無いものかと探したら、岐阜県図書館にいろいろありました

と言っても古墳時代のものはもちろんありませんけど、参考までに「元禄十一年美濃国絵図」

と言うものを見てみました。うん?何年だろう? 1698年 (元禄11年)です。


赤い線は古道でしょう。東山道や古東山道、などを調べるには参考になりそうですね。














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